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エリア・スタディーズ 試し読み

クアラルンプール(『マレーシアを知るための58章』より)

今秋、200巻に到達する「エリア・スタディーズ」ですが、ながらく刊行が待ち望まれた『マレーシアを知るための58章』が199巻目として出版されました。本書には、基本的にマレーシアで生活された方、長期滞在経験を持つ方、頻度多くマレーシアを訪ねた経験を持たれる方々に執筆をお願いし、魅力的な一冊となっております。豊富な体験に裏打ちされたことはもとより、短い滞在や旅行では味わうことのできない「寄り道的」なエピソードを含め、マレーシアの暮らしが生き生きと目の前に広がるような臨場感に溢れております。その中から編著者の鳥居高・明治大学教授の筆による「クアラルンプール―華人の街からマレー人の街へ」を皆さんにご紹介します。

クアラルンプール ~華人の街からマレー人の街へ~

「泥の河口」

首都クアラルンプールは1国の首都として小規模であり、その面積は63㎢余り。これは東京23区の約4割弱の面積(243㎢)にしか過ぎない。日常生活の中では、人々からKuala Lumpurの頭文字をそれぞれとって「ケーエル(KL)」と呼ばれる。Kualaは「河口」を、Lumpur「泥の」をそれぞれ意味し「泥の河口」という意味になる。隣国タイの首都バンコクの正式名が「天人の都、偉大なる都……」で始まる壮麗な名前とは大きな違いである。しかし「泥の河口」という名称にこそ、この都市の成立過程が見えてくる。

KLの歴史を実感するためには訪れるべき場所が2か所ある。まずは市内を南北に流れるクラン川とゴンバック川の合流地点に立つマスジッド・ジャメ(Masjid Jame)である。現在はこの場所に地下鉄の駅が建設されたために、かつてのように、このモスクが2本の川の合流地点に立つ姿を確認しにくくなった。今、その姿を見るためには駅の上層階に上がるか(参照 写真)、あるいは少し北へ移動するとその合流の様子が見え、古の姿を思い浮かべることができる。

マスジット・ジャメ(モスク手前〔写真下〕が地下鉄のマスドット・ジャメ駅の屋根)

19世紀の半ば(1857年)にこの合流地点から上陸したマレー人王族が複数の中国人を率いて内陸部に分け入り、アンパン地区に錫鉱床を発見した。この発見から内陸部へと開発が本格化することになる。当初は伝統的な方法で錫鉱石を含む土砂を水洗いによって鉱石をより分けたものの、のちにイギリスが浚渫船や近代的な設備を持ち込み、本格的な開発が始まった。以後、錫鉱山開発がこの街を発展させていくことになる。その結果、もともと河口の港(クラン港)を中心とした街が川に沿って内陸部へとその中心が移っていった。これらのことから地図を眺めると、最初の上陸地マスジット・ジャメとその東南のほど近い場所に、イギリス植民地支配の象徴である旧植民地政庁、スランゴール・クラブなどがあり、これらの「近接さ」という位置関係から歴史が見えてくる。

錫鉱山開発と労働力の流入

KLの歴史を語る中で、もう1か所訪ねるべきところがある。それがチャイナタウンの一角、セントラル・マーケットからやや離れたところにひっそりとたたずむ仙師四師寺院(Sin Sze Si Ya Temple)である。中国人社会の指導者であった甲比丹(Captain China)の第3代目ヤップ・アーロイ(葉亜来)によって1864年に創建された。

ヤップ(葉)一族を祀った中国寺院

錫鉱山の開発はマレー人王族から資金力がある中国人商人が担い、彼らの下で鉱山開発に従事する中国人労働力流入が起こった。また鉱山開発をめぐっては、いわば2重の抗争が展開された。まず土地はスルタンに帰属するものであったために、土地の所有権を有するマレー人の王族間での争いである。これに加えて、鉱山開発を実質的に担った中国人の秘密結社間の争いである。彼らはマレー人王族から採掘権を入手し、錫鉱山開発の実質を担った。スランゴールでは、マレー人王族間、中国人秘密結社間の2層で争いが起き、1866年から1873年にかけてスランゴール内乱が勃発した。これがイギリスによる植民地支配の契機となった。

1874年にイギリスはまずペラ王国とのパンコール条約を締結し、マレー半島の植民地支配に着手した。同じ年にスランゴール王国も植民地となり、イギリスは駐在官を設け支配を進め、スルタンにはイスラームとマレー人の慣習法に関する権限のみを残し、そのほかの行政的な権限を掌握し、領域的支配を進めた。しかし、当初は中国語を理解するイギリス人官僚もいなかったこともあり、KLに関してはヤップ・アーロイにその支配を任せていた。彼は主に同郷を基本的な紐帯とする秘密結社を通じて、中国人労働者を調達し、錫鉱山開発を進めたほか、本格的とは言えないものの道路の整備など進めた。さらに19世紀後半以降の錫需要の世界的な高まりがマレー半島における錫開発に拍車をかけていく。その結果1891年の段階でKLの総人口1万9000人あまりのうち、中国人が73%と圧倒的多数を占める街となった。それに対しマレー人、インド人はそれぞれわずか12%を占めるに過ぎなかった。この街は「華僑による錫鉱山の街」として発展を始めることになった。

この街の大きな転機は1880年にスランゴール州の州都となり、1882年にスウェッテンハムが駐在官に着任したことに始まる。ほどなくしてヤップ・アーロイはなくなり、イギリスは資源輸出に必要な鉄道の敷設と整備を本格化させ、錫鉱山開発はイギリスの資本と技術が投入され飛躍的に拡大していった。

マレー人の街へ

独立時にマラヤ連邦の首都と定められたKLは、1974年にスランゴール州から切り離され、連邦領(FT、マレー語表記ではWP)となった。さらに1995年には、国会のほか、外務省など対外関係を扱う省庁以外の連邦行政機関がKLの南方25㎞に位置する行政首都プトラジャヤに移転が始まり、KLはいわば経済首都となり今日に至っている。

1970年代以降、今日に至るまでのKLの大きな変化は「華人の街からマレー人の街へ」あるいは「錫鉱山からショッピングセンターの街へ」と表現できるだろう。この変化はいうまでもなく、1971年に始まった新経済政策(NEP)と1970年代に本格化した工業化の影響が大きい。しかし、これまでの過程は単純ではない。1970年代マレーシア政府はマレー人に関して「空間的移動を伴わない、産業間移動」を重視していた。つまり、マレー人が農村に居住したまま、商業・工業などの近代的な産業セクターに移動させることを試みた。代表的なものは、農産品加工型工業の奨励や地方への工場の誘致促進政策である。この結果、多くの途上国に見られた「首都圏一極集中」が進まず、分散型開発モデルとして国際機関からも高く評価された。

しかし、1985年のプラザ合意以降の時期に集中的かつ大量の外資が進出したことにより、KLならびにスランゴールへの人口集中が進んだ。政府はそれまでの地域均衡型発展方針を転換して、マレー半島の西海岸を「製造業の回廊」と位置づけ、これら地域への製造業の集中を進めた。これらの結果、KLにおけるマレー人人口に大きな変化が見られた。1970年時点では、KL総人口のうち華人人口(58%)がマレー人(24%)の2倍以上を占めたのに対し、表に示した通り2000年には拮抗し、2010年以降は、マレー人がKL住民の多数派となった。華人の出生率の低下という要因もあるが、NEPなどに伴うマレー人の都市部への進出状況を見て取れる。

表 KLにおける民族別人口比率の推移(単位:%)

  1980年 1991年 2000年 2010年 2020年
ブミプトラ 33.2 40.3 43.1 46.0 47.7
華人 51.9 46.2 43.5 43.2 41.8
インド人 13.9 12.1 11.4 10.3 10.0
そのほか 1.0 1.3 1.4 0.6 0.7
マレーシア国籍保有者(人) 919,610 1,094,989 1,234,022 1,440,158 1,773,666

(鳥居 高)

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著者略歴

  1. 鳥居 高(とりい・たかし)

    1962年生まれ。明治大学商学部教授および大学院教養デザイン研究科担当。中央大学法学部卒業後、アジア経済研究所入所、マレーシア国民大学(UKM)客員研究員を経、1997年より明治大学専任教員。
    【主要な著作】
    「マハティールによる国王・スルタン制度の再編成」(『アジア経済』第39巻第5号、1998年5月、pp.19-58)、『マハティール政権下のマレーシア―「イスラーム先進国」を目指した22年―』(編著、日本貿易振興機構アジア経済研究所、2006年)、『東アジアの社会大変動―人口センサスが語る世界―』(共著、名古屋大学出版会、2017年)、『岩波講座東南アジア史9巻「開発」の時代と「模索」の時代』(共著、岩波書店、2002年)、『アジアの中間層の生成と特質』(共編著、アジア経済研究所、2002年)、『戦間期アジア留学生と明治大学』(共著、東方書店、2019年)ほか。

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