民族・言語構成(イーホル・ダツェンコ/訳:原田義也)
2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻は全世界に衝撃を与えました。ウクライナへの時事的な関心が高まっている今だからこそ、多角的にウクライナという国を理解する必要があります。
メディアではいろいろな情報が錯綜していますが、そもそもウクライナとはどのような国なのでしょうか?
さまざまな専門家が自然、歴史、民族、言語、宗教、文化などの面からウクライナを紹介する『ウクライナを知るための65章』(2018年刊行)は、そうした疑問に答える格好の1冊です。今般の関心の高まりから注目を集めている本書の一部を、このたび特別公開。 ウクライナを知り、今何が起きているのかを冷静に考えるためにお役立ていただき、是非書籍も手に取ってみてください。
民族・言語構成~スラヴ、ゲルマン、ロマンスからテュルクまで~
1996年に採択された憲法第10条は、ウクライナにおける国家語がウクライナ語であることを言明している。「国家語」という用語で念頭に置かれているのは、官公庁、教育、文化、学術、通信などの分野におけるウクライナ語の使用である(ビジネス、社会生活あるいは日常会話における使用は対象外)。ウクライナ語が初めて国家語と宣言されたのは、1919年、ウクライナ人民共和国政府によってである。ウクライナ語の国家語としての地位は、1926年にウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国政府によって承認されたが、事実上はソ連末期の1989年まで、国家および社会生活の多くの分野においてウクライナ語の使用は著しく制限されていた。ペレストロイカの流れを受けて、ウクライナ語の地位は1989年の法律「ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国における諸言語について」によって改めて承認された。独立後の2001年に行なわれた国勢調査によると、ウクライナ国民の67・5%がウクライナ語を、29・6%がロシア語を母語とみなしている。
2001年国勢調査における民族構成
2012年には、「国家の言語政策の基礎について」という法律が施行され、国家語のウクライナ語と並んで、各種の地域語が導入された。地域語の運用が想定されたのは、法律制定、事務、学校教育、マスコミなどの分野である。地域語の地位は、その話者の人口が任意の地方の10%を超える場合に与えられた。この法律に従い、ロシア語、ハンガリー語、クリミア・タタール語、ルーマニア語が、地域語の地位を獲得した。この法律の施行をめぐるウクライナ社会の反応は、まちまちであった。専門家は、概してこの法律はロシア語のみの運用拡大に方向付けられている、と結論付けた。また、法律の中で言及された言語の多くは、話者の人口が必要数に達していないため、地域語の地位を得るには至らなかった。そして2018年2月、この法律はウクライナ憲法との不一致が原因で廃止された。
ウクライナ語とロシア語、そしてこれにベラルーシ語を加えた東スラヴ語群の他に、ウクライナでは以下の言語がそれぞれの民族集団によって使用されている。
スラヴ諸語
ブルガリア語~ブルガリア語を話しているのは、オデッサ州、ザポリッジャ州、ミコラーイフ州のいくつかの地域に住むブルガリア人である。18世紀のオスマン帝国によるブルガリア征服後、一部のブルガリア人が難を逃れてロシア帝国南部の開拓地帯に移住してきたことに由来する。ブジャーク地方(ベッサラビア南部)には、ボールフラド(「ブルガリア人の町」の意)という名の都市があり、現在でも多くのブルガリア人が住んでいる。
ポーランド語~現在のウクライナにおいて、ポーランド語はリヴィウ州、ジトーミル州のいくつかの集落で用いられている。1939年まで、ポーランド語は西ウクライナのほぼ全域において国家語として優勢であった。ポーランド語話者からなる大きな共同体は、第二次世界大戦が始まるまでキエフにも存在した。ポーランド語とウクライナ語の最初の接触はおよそ14世紀頃のことと言われるが、両言語の相互接触の結果、ポーランド語は他の西スラヴ語群(スロヴァキア語やチェコ語)から、ウクライナ語は残りの東スラヴ語群、とりわけロシア語から遠ざかることになった。
ルシン語~ウクライナのザカルパッチャ州、スロヴァキアとハンガリーのいくつかの東部地区に居住する一部のウクライナ人、およびセルビアのノヴィサド市に移住したザカルパッチャ地方出身のウクライナ人は、自らをルシン人と呼ぶ。公的なウクライナ政権は、ルシン人およびルシン語を個別の民族・言語とは認めていないが、現代のスラヴ言語学においては、ルシン語は一部の研究者によって東スラヴ語群の固有言語として認められている。
ロマンス諸語
ルーマニア語~ルーマニア語とモルドヴァ語は、チェルニフツィ州、ヴィーンニツヤ州、オデッサ州の国境沿いの地区で用いられている。ルーマニア人とウクライナ人との最初の接触は14世紀頃に確認され、以来16世紀までの2世紀にわたって、モルドヴァ公国では文書事務の言語として古ウクライナ語が用いられた。
ゲルマン諸語
ドイツ語~ドイツ語は、東部諸州、ザカルパッチャ州、オデッサ州およびクリミア自治共和国のドイツ人によって用いられている。ドイツ人が現在のウクライナの領域に移住し始めたのは、ロシア帝国が新たな南方領土を獲得して開発の需要が高まった18世紀以降のことで、20世紀末にはウクライナのドイツ人はそのほとんどがドイツに帰還した。
イディッシュ語~現代ウクライナにおけるユダヤ人の歴史は、16世紀のリトアニア国家のポーランド王国への編入と関わりが深い。ユダヤ人が定住したのは、主に右岸ウクライナのポジッリヤ地方、ハリチナー地方、ヴォルイニ地方、キエフ地方であった。他方で、アゾフ海沿岸や黒海沿岸がロシア帝国に組み込まれて以降、ウクライナ南部にも多くのユダヤ人が定住した。19世紀のオデッサは、ニューヨーク、ワルシャワに次いで、世界で三番目にユダヤ人住民の多い都市であったが、20世紀後半になると、ウクライナのユダヤ人の多くはイスラエルや米国に移住した。
その他の印欧諸語
アルメニア語~16~18世紀、カフカス地方や中近東においてキリスト教徒とイスラームとの間で行なわれた数多くの戦争は、アルメニア系住民の西方移住、とりわけ現在のウクライナの領域、西ウクライナ一帯および黒海北岸一帯への移住を引き起こした。アルメニア教会の周りに集まったアルメニア人のコロニーは、リヴィウ、キエフ、ルーツク、カーミャネツポジリスキーその他の都市に形成された。
現代ギリシャ語~ギリシャ語は、ドネツク州、ザポリッジャ州のいくつかの集落で用いられている。ギリシャ人は、18世紀にクリミア半島からアゾフ海沿岸地方に移住した。クリミア半島時代すでにギリシャ系住民は、「ルメイ」と呼ばれるギリシャ語を話すグループと、「ウルムィ」と呼ばれるクリミア・タタール語を話すグループとに分かれていた。このような二つの下位グループへの区分は、現在までウクライナのギリシャ人の間で維持されている。
テュルク諸語
ガガウズ語~ガガウズ語は、オデッサ州のいくつかの地区、およびモルドヴァの南部地区で用いられている。現在のガガウズ人の祖先は、19世紀にブルガリアから移住してきた。その出自から、彼らはしばしば正教徒のトルコ人またはテュルク語を話すブルガリア人と呼ばれる。20世紀半ばまでガガウズ語は文字を持たず、ようやく第二次大戦後にキリル文字をベースとしたアルファベットが考案されたが、現段階ではラテン文字のアルファベットが利用されている。
クリミア・タタール語~クリミア・タタール語は、クリミア半島の先住民族であるクリミア・タタール人の間で用いられており、彼らはクリミア自治共和国、およびヘルソン州とザポリッジャ州のいくつかの地区に居住している。2014年まで、クリミア自治共和国にはクリミア・タタール語を教育言語とする学校が何十校も存在していた。ロシア連邦によるクリミア併合後、クリミア・タタール人の間からは、言語弾圧と学校の強制的ロシア化に関する告発がなされている。
ウゴル諸語
ハンガリー語~ハンガリー語は、ザカルパッチャ州のハンガリーと隣接している地区で使用されている。中世以来20世紀半ばまで、戦間期の一時的なチェコスロヴァキア領時代を除けば、ザカルパッチャ地方は長らくハンガリー国家の版図に組み込まれていた。第二次大戦の終結に伴い、ザカルパッチャ地方がウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の一部となって以降、ハンガリー人の割合は大幅に減少したが、全体として当地におけるハンガリー語の地位は揺るぎないものとなっている。
(イーホル・ダツェンコ/訳:原田義也)