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ハワイ併合(『アメリカの歴史を知るための65章【第4版』より)

2000年の初版刊行以来、アメリカ史の入門書としてだけでなく、マイノリティ集団や女性たち、そして一般民衆が果たしてきた主体的な役割と相互関係に光を当てた『アメリカの歴史を知るための65章【第4版】』がリニューアルして、刊行されることになりました。今回は本書の中から先住ハワイ人の歴史とアメリカ合衆国への「併合」の経緯に関する章をご紹介します。

ハワイ併合~無視された先住ハワイ人の声~

1998年8月12日、ハワイ州の観光名所イオラニ宮殿はいつもと様子が違っていた。早朝からハワイ人の血を誇る人びとがホノルルに集まり、荘厳なハワイアンの歌を口ずさみながらイオラニ宮殿に向かった。祈りの儀式が始まり、正午、太鼓とホラ貝の音とともに、かつてハワイ国の象徴であった「国旗」がイオラニ宮殿の青空に高々と掲揚されたのである。

写真1 併合から100年目、イオラニ宮殿に掲揚されたハワイ国旗

人びとの国旗を見つめる目は真剣そのものであり、頬には涙が光っていた。その日からちょうど100年前、1898年の8月12日、ちょうど同じ場所で、アメリカによるハワイ併合記念式典が催された。ハワイ「国旗」が静かに下ろされ、そこにアメリカの星条旗が掲げられたのだった。1998年のハワイ人系の集会は、90年代になって急速にもりあがったハワイ人系による「主権回復運動」(アメリカに奪われた主権を取り戻そうという運動)の一環であった。だがそれだけでなく、ハワイに住む多様なエスニック背景を持つ人びとも、あらためてアメリカによる「併合」という歴史的事実を見直す時を与えられたといってもよいだろう。

ハワイ王国は1795年にカメハメハ王によって統一され、19世紀末まで、ハワイ人の王を頂く立憲君主国家だった。しかし、当初からアメリカ人宣教師の王国政府への影響力が強く、1848年に「グレート・マヘーレ」、1850年に「クレアナ・アクト」という土地改革を推進し、王国領土の分配・私有化への道を開いた。その結果1890年までには王国領土の4分の3が白人の手に渡り、砂糖産業は拡大の一途をたどった。白人資産家は、数の上では少数(1878年、ハワイ総人口中、白人6.5%、ハワイ人80%)だったが、その財力は絶大で、政治への影響力もますます強くなった。

豪奢なイオラニ宮殿を建て、古来のハワイ文化の再生をはかった第7代王カラカウアは、白人資産家階層に属するハワイ生まれの若手政治家の反感を買い、王権の縮小に同意させられた。王は1891年、失意のうちに死去し、妹のリリウオカラニが跡を継いだ。リリウオカラニ女王といえば、日本では、美しいメロディを持つアロハ・オエの作者として知られているが、1893年1月14日、女王は果敢にも縮小されていた王権の再興を試み、クーデターによって王位からひきずりおろされたのだった。クーデターを起こしたのは、ハワイの親米的な白人若手政治家とハワイ駐在アメリカ合衆国全権大使らであった。このクーデター勢力の依頼で、「ハワイ在住アメリカ人の生命と財産の保護」を名目として、アメリカの軍隊がホノルルに上陸した。その武力を間近に見た女王は、同17日、クーデター勢力が設立したハワイ臨時政府をアメリカ全権大使が承認したことを知り、いまこれに抵抗することの無意味さを悟って、降伏の道を選んだ。しかし女王は、厳しい口調の抗議声明文を発表した。自分はアメリカの強大な軍事力に屈服するのであって、臨時政府設立者のおこなったすべての行為には、強く抗議すると。

当時のアメリカ大統領クリーヴランドは、王国転覆クーデターの背後にあったアメリカの軍事勢力について詳細に調査した結果、王国の転覆は不法であるとし、ハワイ王国の復活こそが正義と主張した。しかし、ハワイ臨時政府が「内政干渉」と抗議したため、アメリカ議会は、これ以上口を挟まない方針を取った。結果、ハワイでは、1894年7月4日、臨時政府によりハワイ共和国設立が宣言された。そして先住ハワイ人の参政権は、この「共和国」の統治者によって厳しく制限されてしまった。

1897年、大平洋方面への「マニフェスト・デスティニー」を支持していたマッキンレーがアメリカ大統領に就任した。この機をのがさず、ハワイ共和国政府は自国議会で併合案を可決させ、ワシントンに代表を派遣し、ハワイ併合の協議をアメリカ議会に求めた。これに対抗して、共和国政府に反感を抱くハワイ人グループは、アメリカによるハワイ併合反対への大規模な署名運動を展開、3万8000もの署名を集めた。1897年11月、ハワイ人代表は、併合の阻止をアメリカ議会に求めようと署名を携えワシントン入りした。この時併合案は上院の可決を得られなかった。

ところが翌年には米西戦争が勃発した。以前からハワイの併合を望んできたアメリカ側の併合主義者もハワイ共和国政府も勢いづいて、アメリカ議会による「併合案」可決へと動いた。ハワイ諸島がアジア進出への足場として戦略上重要地点にあることなどによって、アメリカ内でそれまでハワイ併合に反対してきた人びとの意見が変化し、併合案はアメリカ議会上下両院の合同決議という形ですみやかに可決されてしまった。そして7月、マッキンレー大統領が併合決議に署名し、8月12日、ハワイ併合の式典がイオラニ宮殿で挙行されたわけである。併合の是非を一般ハワイ人に問う人民投票はついになされなかった。自らの国土で政治的「声」を失っていたハワイ人は、合衆国への「併合」に対して正当に反対する術を封じられていたのである。

 

【追記】

ハワイ王国最後の女王リリウオカラニの銅像(写真2)は、イオラニ宮殿の裏手にある。1893年1月、上陸したアメリカの兵隊たちを前に、女王は降伏の道を選んだ。そして1894年7月ハワイ共和国が設立された。その後1895年1月、王党派が反乱を起こしたが失敗に終わる。リリウオカラニ女王はその首謀者の疑いで拘束され、イオラニ宮殿に幽閉された。

写真2 リリウオカラニ女王の銅像

幽閉中、女王は側近とともに当時流行したというクレージー・キルト(crazy quilt)を作成した(写真3)。9枚の異なるパターンを縫い合わせたキルトの中心には、女王の人生の重要な出来事が年号とともにステッチ刺繍で縫い取りしてある。今、イオラニ宮殿に所蔵されているこのキルトは、王国の歴史を静かに語っている。

写真3 1895年にイオラニ宮殿に幽閉された女王が、幽閉中に側近とつくったハワイアンキルト(イオラニ宮殿所蔵)

1897年、ハワイ共和国がアメリカ議会にハワイ併合の協議を求めた時、反共和国派のハワイ人グループが併合反対の署名運動を展開した。その署名が写真4である。ここには3万8000もの署名が集まった。しかし本文では書き落としてしまったが、実は重複するものや未成年の子供の名前を書いたものなどがあり、結局署名として有効なのは2万1000あまりだったことが知られている。

写真4 併合に反対したハワイ人の署名 (1897年)

 

(高木[北山]眞理子)

*参考文献

中嶋弓子『ハワイ・さまよえる楽園—民族と国家の衝突』(東京書籍、1993年)

山中速人『ハワイ』(岩波新書、1993年)

よしだみどり『白い孔雀――ハワイ王朝最後の希望の星 プリンセス・カイウラニ物語』(文芸社、二〇〇二年)

Coffman, Tom, Nation Within: The Story of America’s Annexation of the Nation of Hawaii, EPI Center, 1998.

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著者略歴

  1. 高木(北山) 眞理子(たかぎ きたやま まりこ)

    愛知学院大学文学部
    専攻:アメリカ研究、社会学
    主要著書:吉田亮編著『変容する「二世」の越境性―1940年代日米布伯の日系人と教育』(共著、現代史料出版、2020年)細川周平編著『日系文化を編み直す 歴史・文芸・接触』(共著、ミネルヴァ書房、2017年)北米エスニシティ研究会編『北米の小さな博物館「知」の世界遺産』1、2、3(共著、彩流社、2006、2009、2014年)

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