明石書店のwebマガジン

MENU

エリア・スタディーズ 試し読み

シェルパの変容(『現代ネパールを知るための60章』より)

シェルパの変容 ~ヒマラヤ観光を生きる人々~

 「シェルパ」という言葉は、エベレスト(ネパール語名:サガルマータ、シェルパ語名・チベット語名:チョモランマ)をはじめとするヒマラヤ登山のガイドとして、日本でも比較的よく知られているだろう。シェルパとはチベット語で「東の人」を意味し、もともとはエベレストの南麓にあたるネパール東部のソルクンブ郡を中心に居住する民族(ジャート)の名称であった。シェルパの祖先となった人々は、16世紀に東チベットのカム地方からヒマラヤを越えてネパール側へ移住してきたと伝えられている。ヒマラヤの南面に定着したシェルパの人々は、チベット仏教に基づく生活スタイルを保持しつつ、標高差に応じて多様な生業体系を発展させてきた。以下では特にソルクンブ郡の北部、トレッキング観光で有名なクンブ地方に暮らすシェルパの生活とその変化について見てゆきたい。

 クンブ地方はヒマラヤ山脈を境にチベットと接する、標高3000メートルを超える高山地帯である。クンブに住むシェルパたちは19世紀の半ばまで、オオムギやソバの栽培、ヤクやウシおよびその一代雑種であるゾプキョ(雄)とゾム(雌)の飼養、そしてヒマラヤ南面の中間山地帯とチベットとを行き来するヒマラヤ越えの交易によって生計を立ててきた。クンブ地方では19世紀の半ばごろにジャガイモが導入されたことで人口が急増し、新天地を求めたシェルパたちの一部は、英領インドの避暑地として当時開発が進められていたダージリンへ出稼ぎや移住に向かうようになる。20世紀初頭に英国を中心とする西洋諸国がダージリンを拠点にヒマラヤの高峰登頂プロジェクトを推進すると、ダージリンに居住していたシェルパの人々がポーターとして雇われるようになる。すると彼らは登山隊のなかで目覚ましい活躍を果たし、シェルパはヒマラヤ探検に不可欠の高所ポーターとみなされるようになった。そして1953年、エドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイ・シェルパによってエベレスト初登頂がなされたことで、「シェルパ」の語はヒマラヤ登山を支援する職業を指すものとして世界中に広まっていった。1960年代のはじめにチベット動乱の影響からネパール―チベット国境が閉ざされたことで、ヒマラヤ越えの交易は衰退する。その一方で1951年にネパール政府がそれまでの鎖国政策を改めて外国人に門戸を開くと、はじめは登山隊が、やがて一般のトレッキング客もクンブ地方に入るようになり、シェルパの人々の生活は観光産業に依存するものへとシフトしていった。


トレッキングの拠点ナムチェ村(2019年3月)

 現在のクンブ地方はヒマラヤの山々を眼前に望むトレッキング/登山観光の名所として知られ、年間3万人を超える外国人観光客がこの地域を訪れている。車道のないクンブへは、南隣するパラック地方の斜面に開かれたルクラ飛行場がアクセスポイントとなる。特に乾季となる春と秋の観光シーズンには、カトマンズから観光客を満載した小型飛行機がひっきりなしに到着し、ガイドに連れられたトレッキング客のほか、物資を運ぶポーターや荷役獣によって細い山道は渋滞の様相を呈する。トレッキングの主要な目的地まではルートの整備が進み、沿道ではロッジやレストランが英語の看板を掲げて観光客を待ち構えている。トレッキングの拠点となる主要な村にはロッジや土産物屋がひしめき、シーズンになると、首都と比べても遜色のない洒落たカフェやバーから歓声や西洋音楽が夜遅くまで漏れ聞こえてくる。さらにはネパール各地からもさまざまな出自の人々が収入機会を求めてクンブを訪れ、「シェルパ」を名乗ってガイドなどの仕事に携わっている。

 こうした観光化への対応は、クンブ地方でも村ごとに大きく異なっている。ナムチェなどトレッキング・ルート沿いに位置する村の住民たちは、近年は危険な登山の仕事からは手を引いて、トレッキングやロッジの仕事に専念したり、他地域から流入してきた人々に家屋を貸して自らはカトマンズに暮らす人も多い。裕福になった家庭では子弟を首都や海外の学校に送り、観光とは無関係の職に就かせることも珍しくなくなった。

 他方でルートから少し外れたターメやポルツェなどの村では、いまも多くの人々が登山の仕事に携わっている。私が住み込んでいたおよそ90戸400人のポルツェ村には50人以上のエベレスト登頂者が居住しており、ほぼすべての世帯が何らかの形で観光産業から収入を得ていた。村人たちは、普段は農作業やヤクの世話を行ない、観光シーズンが来ると男性を中心に登山やトレッキングに出かけてゆく。

 
農作業をするポルツェ村の人々(2016年9月)

 クンブの観光化はこの村の景観も大きく変えることになった。訪れるトレッキング客はさほど多くないとはいえ、村内には10軒のロッジが営業している。この村ではまた、1990年代にトレッキングで訪れた海外の篤志家の支援により診療所やゴンパ(チベット仏教のお寺)が建てられ、水力発電ポンプが設置されて電気もつくようになった。2000年代になるとアメリカのNGOが入り、冬季にネパール人向けの登山学校を開催している。村人たちはこうした生活の変化をおおむね肯定的に捉えており、ある古老は「昔はチベットまで荷物を運んでお金を稼いだ。いまは観光客の荷物を担げばお金がもらえる」と語る。またある若者は、「オフシーズンにはヤクを追い、シーズン中は観光客を追うんだ」と述べた。こうした語りからはまた、観光による変化もそれ以前の生活と連続的なものと捉えられていることがうかがえる。

 2015年のネパール大地震では、クンブ地方の人的被害は相対的に少なかったものの、ほとんどの建物が大きな被害を被った。だがクンブには観光のなかで生まれた海外の顧客や組織とのつながりを通じて、政府の援助に先駆けて大量の支援物資や義援金が届き、他の地域と比較すると極めて迅速な復興を果たすことになった。地震後のソルクンブ郡では郡政府の予算によって車道の建設が急ピッチで進められるようになり、現在は郡庁のあるサレリの町からルクラ方面へと工事が進んでいる。完成後はナムチェまでの延伸計画もあるという。車道は物資の流通を容易にして物価を下げ、医療や公共サービスへのアクセスを向上させるだろう。その反面、歩くことに価値を置くトレッキング/登山観光には大きな影響を与えることが予測される。予定地沿道の人々は車道の延伸をおおむね歓迎しつつ、ガイドやポーターの仕事が減ったら運転手にでもなるしかないなどとも言い交わしている。

 とはいえ、そこにエベレストがそびえ続ける以上、この地域から観光客の姿が消えることは考えにくい。そしてすでに見たとおり、500年ほど前にチベットからやってきたシェルパの人々は、常に時代の流れに対応しながら変わり続けてきたのであった。シェルパの社会は、これからも柔軟に変容を続けてゆくことだろう。

(古川不可知)

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 古川 不可知(ふるかわ・ふかち)

    九州大学大学院比較社会文化研究院講師。
    1982年生まれ。大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程修了、国立民族学博物館機関研究員を経て現職。専門は文化人類学、ヒマラヤ地域研究。
    著書に『「シェルパ」と道の人類学』(亜紀書房、2020)、訳書に『ソウル・ハンターズ――シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』(奥野克巳・近藤祉秋との共訳、亜紀書房、2018)、主な論文に「インフラストラクチャーとしての山道」(『文化人類学』83巻3号、2018)など。

関連書籍

閉じる