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「グレート・ゲーム」の時代におけるアフガニスタン(『アフガニスタンを知るための70章』より)

2021年8月15日、外国軍の撤退期限を目前に控えて攻勢を強めていたタリバンが、アフガニスタンの首都カーブルを制圧。2001年12月に成立した「アフガニスタン・イスラム共和国」は20年足らずで事実上瓦解し、情勢は新たな局面に入りました。部隊撤退を決めたアメリカの「失態」も取り沙汰されるなか、長年にわたり大国の事情に振り回されてきたアフガニスタンの歴史がいつまで繰り返されるのかと思わずにはいられません。元来は日本との国交樹立90周年を記念し平和と復興を願って企画された新刊『アフガニスタンを知るための70章』から、19~20世紀のアフガン情勢を概観する章をお読みいただきます。

「グレート・ゲーム」の時代におけるアフガニスタン ~19世紀から20世紀初頭の政治動態~

アフガニスタンは19世紀以降、内陸アジアをゲームの盤面に見立てたイギリスとロシアによる勢力圏抗争「グレート・ゲーム」の舞台となり、ヨーロッパ列強間の国際関係に基づく影響を多大に受けることとなった。本章では、19世紀から1919年のイギリス保護国からの独立に至る期間におけるアフガニスタンの状況を当時の国際関係を踏まえつつ概観する。

現在のアフガニスタンの原形と捉えられているドゥラニ朝(1747~1973年)は、19世紀に入ると統治者が短期間で交代するなど、国内が非常に混乱する状態に陥っていた。また、この当時アフガニスタンを取り巻く国際環境は大きく変化しつつあった。北側からはロシア帝国が中央アジアを経由して勢力圏の拡大を続け、他方南側ではインド亜大陸に進出したイギリス東インド会社がインドの地方勢力を圧倒しつつあった。また、ヨーロッパでも1789年のフランス革命後にナポレオン率いるフランスによるヨーロッパ大陸での覇権と、海を挟んでフランスと唯一対抗することとなったイギリスが対峙する状況が発生した。イギリスはフランスのインド侵攻についての懸念を抱き、その侵攻ルートとなるアフガニスタンにフランスの影響力が及ぶことを回避する必要性に迫られた。

このため、イギリス東インド会社の使節としてエルフィンストンが派遣され、当時の統治者であったシャー・シュジャーと夏の離宮であったぺシャワルで面会し会談をおこなった。これがヨーロッパとアフガニスタンが本格的交渉を持った初の機会であった。使節として派遣されたエルフィンストンが滞在中に見聞した内容についての記録『カーブル王国紀行』は、その後のアフガニスタン認識に多大な影響を及ぼした。

その後、イギリスは第一次アフガン戦争(1838~1842年)を通じて、アフガニスタンに傀儡政権を設立し、実効支配することを目論んだ。ただ、その後の国内状況の混乱を収拾することができず、多大な犠牲を払ってアフガニスタンから撤退した。戦争後、アフガニスタン・イギリス間の国交回復のため1855年に締結されたぺシャワル条約において、カーブルにイギリスの「代理人」が駐在することになったが、この「代理人」は非ヨーロッパ人のインド・ムスリムに限定すると規定された。これは、明らかにアフガニスタン側の強い警戒感を示したものであったといえよう。

ナポレオン失脚後のイギリスの脅威となったのは、北部から勢力圏を拡大していたロシアであった。この動きには、ロシアがクリミア戦争での敗北後アジア方面への進出をさらに強化したことも影響している。特に、1867年タシュケントにトルキスタン総督府が設立されると、直後からロシアとアフガニスタンの統治者であったシェール・アリーとの間で相互の交流が頻繁におこなわれることとなった。アフガニスタンの国内事情については不干渉の姿勢を貫いていたイギリスに対し、シェール・アリーは自らを積極的に支持していないとして不信感を募らせていた。

この間隙をついて、中央アジアへの進出をさらに本格化しつつあったロシアは、軍事同盟を含めた連携を秘密裏に呼びかけることとなる。イギリス側機密文書資料によると、シェール・アリーはロシアの提案を受諾した上で、将来的にロシアがイギリス統治下のインドに侵攻した際には、ロシア軍への協力と引き換えに、かつてドゥラニ朝統治下にあったインド諸地域の割譲を受けることを約束されていたという。

この同盟関係はイギリス側にとっての現実的脅威となり、イギリス側がアフガニスタンに侵攻する形で第二次アフガン戦争(1878~1881年)が始まった。戦争が始まると、イギリス側は破竹の進撃を続け、シェール・アリーは首都から北部に逃れ同盟にもとづく支援をロシアに要求し続けた。しかし、ロシア側はこれを黙殺し、シェール・アリーは直後に逃亡先で死去した。シェール・アリーの長男で後継のムハンマド・ヤァクーブ・ハーンとイギリスとの間でガンダマク条約が締結され、これによりアフガニスタンはイギリスの保護国となった。イギリスはその後、アフガニスタンの分割統治を構想し実行に移したものの、抵抗と混乱により断念し、サマルカンドに亡命していたアブドゥル・ラフマーン・ハーン(在位1880~1901年)を「北部アフガニスタンの統治者」として選定した上で、軍をインドへと撤退させた。


カーブル中心部のアブドゥル・ラフマーン廟(筆者撮影)

アブドゥル・ラフマーンは、イギリスからの補助金や軍事支援を得て国内を平定しつつ領域を拡大し、結果的にアフガニスタン全土を掌握することとなった。さらに、イギリス主導下で周辺国との間の国境画定が実施され、この時期に概ね現在のアフガニスタンの領域が形成されるに至った。その一環として、1893年にアフガニスタンのアブドゥル・ラフマーンとイギリス領インド外相デュアランドとの間で交わされた両国間の境界設定のための取り決めが、いわゆるデュアランド・ライン合意であった。同合意にもとづき設定されたデュアランド・ラインは現在のアフガニスタンとパキスタンの国境線となっているが、アフガニスタン側はこのラインを国境線とは認めていない。国境をめぐる問題は両国の主要対立軸となっており、地域の政治的不安定の源泉ともいえる。

20世紀に入り、ハビブラ・ハーン(在位1901~1919年)の治世に入ると、1905年に締結された両国間条約にもとづき、イギリスとの関係を維持しつつ、それ以前から進められていた官営工場や発電所の建設、新聞発行などさらに中央集権的近代国家建設事業が進展した。ただ、イギリスのインド支配に抵抗する亡命政権インド臨時政府のカーブルにおける設立、ロシア革命を経て成立したソビエト連邦からの共産主義流入と交流の出先機関としての役割を果たすなど、アフガニスタンは激変する世界と地域動向の影響を強く受けた。しかし、ハビブラは1914年から始まった第一次世界大戦においては、イギリスとの関係を重視する観点から中立を貫いた。

1919年のハビブラ暗殺と親族内の権力闘争を経て即位したアマヌラ・ハーンは、世界大戦で疲弊したイギリスの間隙をついてインドに侵攻し第三次アフガン戦争が勃発した。この戦いの後、アフガニスタンはイギリスの保護国下から脱して独立を果たした。独立した8月19日は独立記念日として現在も最も重要な祝日となっている。

以降のアフガニスタン政治史を振り返ると、かつてのグレート・ゲームの時代と非常に似通った状況が継続していることに気がつく。米ソ冷戦下、冷戦終結後、そしてタリバンの時代から現在に至るまで、アフガニスタンは常にその時代ごとの世界と地域の事情を反映した上で、各国の勢力争いの場となっているのである。

(登利谷正人)

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著者略歴

  1. 登利谷 正人(とりや・まさと)

    上智大学アジア文化研究所客員所員
    2003年 大阪外国語大学外国語学部卒業
    2006年 慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了
    2007年10月~2010年3月 パキスタン国立ペシャーワル大学地域研究センター博士課程留学
    2013年3月 上智大学大学院グローバル・スタディーズ研究科地域研究専攻博士後期課程単位取得満期退学。博士(地域研究)
    専攻:アフガニスタン・パキスタン地域研究、パシュトゥーンの言語・文化
    主な著書・論文:
    “Afghanistan as a Buffer State between Regional Powers in the Late Nineteenth Century: An Analysis of Internal Politics Focusing on the Local Actors and the British Policy,” Comparative Studies on Regional Powers, No.14, Sapporo: The Slavic Research Center, Hokkaido University, pp. 49-61, 2014.
    「アフガニスタンにおけるパシュトー文学史形成の一側面―パシュトー詩人
    伝『隠された秘宝』の分析を中心に―」高岡豊、白谷望、溝渕正季編著『中東・イスラーム世界の歴史・宗教・政治―多様なアプローチが織りなす地域研究の現在―』明石書店、105~120頁、2018年。
    「ターリバーンによる攻勢拡大と「南アジア新戦略」の発表」『アジア動向年報2018』アジア経済研究所、589~610頁、2018年。

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