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いざ、イラン・クルディスタンへ(『クルド人を知るための55章』より)

いざ、イラン・クルディスタンへ 〜マハーバードからケルマーンシャーへ〜

 はじめてイランのクルド地域を訪ねたのは、1989年の夏だ。テヘランから夜行バスに揺られて、朝方、コルデスタン州の州都サナンダジュのバス・ターミナルに到着したのを覚えている。乗客のほとんどは、イラン西北ホラーサーン地方出身の若い兵士たちだった。前年の春にイラクとの長い戦争は終わっていたが、戦争中、自治を求めてクルド人ゲリラが活動した国境地帯にはなお緊張感が漂っていた。
 それから30年近く、毎年のようにイランのクルド地域を訪ねてきたが、その景観は確実に変わってきた。かつてのように厳しい検問を受けることもないし、ホテルに宿泊するたびに近くの革命委員会(コミテ)に出頭する必要もない。町はどんどん大きくなり、古い建物は建て替えられ、真新しい高層ビルが現れる。
 本章では、私自身がよく訪ねるマハーバード、サナンダジュ、ケルマーンシャーの町を中心にイラン・クルディスタンへの旅を紹介してみたい。まずは、空路でトルコとの国境に近いオルーミーエに飛び、そこから南へクルディスタンを縦断してみよう。
 テヘランから1時間ほどでオルーミーエに着く。到着間近、眼下には刻々と干上がりつつあるオルーミーエ湖の無残な姿が見える。イランの代表的湖だが、近年、周辺の村々での大規模な灌漑のために川から流れ込む水量が減り、くわえて、湖の中ほどを埋め立てて道路が建設されたことで湖は急速に縮小し、大量の塩が析出するようになった。ところどころ、赤く濁った水が湖面を覆う。
 空港から市内にあるバス・ターミナルに移動する。ここからはイラン国内だけではなく、国境を越えてトルコやイラクなど周辺諸国に向かう遠距離バスも発着する。国境に近い都市ならではの光景だ。こういうバスの路線を見ると、ローカルなレベルで人々がどのように移動しているか、あるいは、国境を越えてさまざまな地域がどのように結びついているかが垣間見えておもしろい。
 ここから、マハーバードを目指そう。オルーミーエ湖周辺は比較的なだらかな地形が広がり、マハーバードまで3〜4時間ほどで到着する。町は、このあたりを治めていたモクリー族というクルド系の有力部族がサファヴィー朝(1501〜1722年)後期の17世紀後半に築いたものだ。私がはじめてこの町を訪れた1980年代末には町も小さく、簡単に一周することができたが、いまでは周りに新たな住宅地が広がり、ずいぶんと大きくなっている。
 町は、もともとサーヴォジュボラークと呼ばれた。トルコ語で「冷たい泉」を意味する。その言葉通り、町の中心には夏場も水量豊かな川が滔々と流れる。ここ数十年の間に都市化が進んだとはいえ、町の中心部には、「赤のモスク」と呼ばれる金曜モスクなど、今なお古い建築物が残る。その多くが、この町を建設したモクリー族の棟梁ボダーク・ソルターンの手になるものだ。彼の棺を納めた立派な墓廟が町のはずれにあり、聖者廟として人々の崇敬を集める。

 アウラーマーン・タフト

 [写真:イラン・クルディスタンの秘境アウラーマーン・タフト]

 南に下ってサナンダジュに向かおう。バス・ターミナルで長距離バスを探してもいいし、乗り合いタクシーを乗り継いでもかまわない。はじめは、なだらかな起伏と(春から初夏にかけてなら)緑豊かな田園風景がところどころに見えるだろう。サッケズを越えディーヴァーンダッレを過ぎたあたりから、少しずつ道は険しくなる。山岳地帯をうねるように進みながら、5時間ほど車に揺られて、ようやくサナンダジュに着く。周りを高い山々に囲まれながらも、広々とした盆地の町だ。
 マハーバードより半世紀ほど早く、1630年代に建設された古い町である。かつてはそれほど大きな町ではなかったと記憶しているが、近年、周辺の村からの人口流入もあり、町の周りにどんどん新興住宅地が作られている。町の西側には、人々の憩いの場アービーダル山がそびえる。上に登って眺めてみると、町の大きさが実感できるだろう。
 サナンダジュは、アルダラーン族というクルド系部族が根城として築いたものだ。現在のコルデスタン州に相当する地域に割拠していたこの部族は、各地に山城をもって季節ごとに移動しながら領地を治めていた。サファヴィー朝に付いたりオスマン朝(1299頃〜1922年)と結んだりしながら地方豪族として勢力を誇ったアルダラーン族も、17世紀前半には最終的にサファヴィー朝の支配を受け入れ、山城を捨ててサナンダジュへと本拠地を移したのである。
 町のあちらこちらに、歴史を感じさせる建築物が残る。なかでも、青を基調としたタイルに覆われた金曜モスクは、空に向かって高く伸びた2本のミナレットがひときわ目立つ。19世紀に建てられたもので、町の象徴的存在ともいえる建物だ。旧市街に隠れるようにひっそりと建つアルメニア教会は、この町に古くからキリスト教徒が住んでいたことを物語る。
 この町の名家によって建てられた邸宅もまた、町の景観に趣を添える。なかでも、19世紀初頭、アルダラーン家の当主であったアマーノッラー・ハーンが完成させたホスロウ・アーバードの屋敷は、アルダラーン総督の政庁でもあった。やや町の中心から外れた高台に建てられ、四方を高い塀に囲まれている。なかに入ると、正面奥に三層建ての母屋が見える。手前のイラン式の中庭には十字に溝が掘られ、魚が泳いでいる。ホスロウ・アーバードのほか、今では博物館として使われている「クルドの館」や「サナンダジュの館」も、もとはアルダラーン家に仕えた有力家系の邸宅だったところであり、その伝統的な造りが往時を偲ばせる。
 サナンダジュからさらに南に下ると、ケルマーンシャーだ。バスや乗り合いタクシーで3時間ほどだろうか。途中、カームヤーラーンまでは山の谷間を縫うように進むが、この町を過ぎてしばらくすると一気に視野が広がり、ケルマーンシャーの町の立つ平野へと入っていく。
 ケルマーンシャーやその周辺一帯の魅力は、古代遺跡があちこちにあることだろう。ここは、イラクのバグダード方面からイラン高原を経て中央アジア方面へと向かう街道が通っていたところだ。アケメネス朝(前550〜前330年)やサーサーン朝(226〜651年)などの遺跡が点在するのも、そのためだ。
 まずは、町の北にあるターケ・ボスターンに向かおう。サーサーン朝時代に山の岩肌を彫って作られたレリーフがきれいに残っている。すぐそばから湧き水が流れ出し、レリーフの前に大きな池を作りながら、水路に沿って町の方へと流れる。レリーフの脇には、ガージャール朝(1796〜1925年)時代に作られた別荘址がわずかに残る。当時の人々もまた、遠い古代に思いをはせたにちがいない。
 ケルマーンシャーの歴史は古い。サーサーン朝の王たちがしばしばここに居住したことが知られ、イスラーム時代に入っても、アッバース朝第5代カリフで千夜一夜物語でも有名なハールーン・アッラシード(在位786〜809年)が宮廷を構えたとも言われる。
 だが、町が現在あるような大きな都市として発展するのは、17世紀の半ばからだ。当時、この辺り一帯を知事として治めていたザンギャネ一族、とくに後にサファヴィー朝の大宰相にもなったシャイフ・アリー・ハーンの尽力によるところが大きい。ケルマーンシャー州の統治の拠点としてのみならず、当時さかんになっていた首都エスファハーンと隣国オスマン朝下のバグダードを結ぶ国際交易の中継地として、町や周辺の開発に努めたのだ。ケルマーンシャーの東にあるハマダーンからイラク国境のガスレ・シーリーンまで、彼が建てたとされる隊商宿や橋がいまも各地に残っている。

 サファヴィー朝の橋

 [写真:ビーソトゥーンの川にかかるサファヴィー朝期の橋]

 さて、駆け足で紹介した3都市は、いずれもイラン・クルディスタンを代表する町だが、それでも、その一部に過ぎない。これらの町に滞在しながら、周辺の、もっと「ディープな」クルド世界をぜひ訪れてみていただきたい。(山口昭彦)

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著者略歴

  1. 山口 昭彦(やまぐち・あきひこ)

    聖心女子大学文学部史学科教授。
    東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻助手などを経て、2014年より現職。専門は、イラン史(とくにクルド地域)。
    主な著作:「サファヴィー朝(1501-1722)とクルド系諸部族――宮廷と土着エリートの相関関係」(『歴史学研究』885号、2011年)、“Shah Tahmasp's Kurdish Policy”(Studia Iranica 41, 2012)、「周縁から見るイランの輪郭形成と越境」(山根聡・長縄宣博編『越境者たちのユーラシア』ミネルヴァ書房、2015年)、「『イランのクルド』とサファヴィー朝の『強制』移住政策」(『アジア・アフリカ言語文化研究』93号、2017年)。

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