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夢のインド・現実のインド(『インドを旅する55章』より)

インドに深く深く関わってきた執筆陣による、これまではほとんど紹介されてこなかった多様で深遠な「ディープ・インド」に読者を誘う『インドを旅する55章』(2021年6月刊)。「インドとの関わり」に特化した執筆者紹介欄だけでもおもしろいと密かに話題です(ここから読むのは担当編集者もオススメ!)。新たなインドを見つけられること請け合いの本書から、編者のお一人宮本久義先生がインドとのディープな「なれそめ」を語る第1章をご紹介します。

夢のインド・現実のインド ~私の入印・退印歴~

私にとっての海外への旅は、数日であろうが数か月であろうが、一回一回が完結したかけがえのない記憶として残っている。とくにインドへの旅は、まるで異次元の世界に行くような感じが今でもする。日本とはまったく磁場が違うのだ。最初の旅では、コップのふちに口をつけないで水を流し込む人を見てはびっくりし、吸い終わったタバコをはだしの足裏でもみ消す人を見ては仰天した。インドへの出入国を病院の入退院にたとえるのは、インドに対して恐縮ではあるが、インドは訪れるたびに私の心身をはげしく揺さぶり、そして最後には癒してくれる特別な場所なのだ。そのような私の旅と、一部は兄の体験も交えながら、この50年間、旅の仕方がどのように変わってきたかをたどってみたい。


西インド・ゴアのコールヴァー海岸で野宿する筆者。地引網を手伝って漁師さんにいただいたイカで朝食。(筆者撮影)

1964年4月1日に海外観光渡航が解禁された。これは「第二の開国」とも言われ、晴れて一般の日本人も外国に行けるようになった。翌1965年の2月に、私の兄が仕事の関係でインドの仏跡旅行に行くことになった。当時は外貨の持ち出しが500ドル(1ドル=360円)までという制限があり[1]、飛行機はまだ長距離を飛ぶことができず、羽田から、那覇、台北、香港、バンコクで給油あるいは滞在しながらカルカッタ(現コルカタ)に到着した。カルカッタの飛行場では炎天下の滑走路で荷物が開かされ税関のチェックが行われたそうである。兄とは年齢が離れていて、当時私は中学生だったが、出発前に親戚一同が集まって壮行会を開いたのを記憶している。叔父が本来は祝い歌である「さんさ時雨」を泣きながら歌い、水杯【みずさかずき】を交わしたあと、全員連れだって羽田まで見送りに行ったが、今考えると出征兵士を送るやり方と同じであったと思う。兄が45日間の旅を終えて帰国したときには、心なしか逞【たくま】しくなっていたような気がする。

私の最初の海外への旅は1970年の夏、インドではなくて中国だった。まだ中国との国交がない時代であったが、学生の参観団に入って約一か月間、文化大革命のさなかの大陸を駆け巡った。もちろん直行便はなく、香港まで行ってから中国本土との境界の深圳河【しんせんがわ】にかかる橋を徒歩で渡った。ヴィザの代わりに紙片が挟まれただけなので、パスポートには中国に行ったという記録は残っていない。

翌1971年、いよいよインドに行くことになった。出発前には必ず予防接種を受けなければならなかったが、コレラ、マラリア、腸チフス、痘瘡【とうそう】(天然痘)など数が多かったので、一か月以上前から準備しておく必要があった。7月下旬に日本を立って、まずはマレーシアとシンガポールからの華僑留学生の里帰りに同行して、合わせて一か月半居候した。華僑の友人たちは私にいっさいお金を使わせてくれなかった。まるで富豪の商人か侠客に養われる大陸浪人にでもなったかのようだったが、いつまでも居座るわけにもいかず、インド行きの船の切符を買った。

マレーシアのクアラルンプール郊外のポート・スウェッテンハム[2](現在のクラン港)で、ラジュラ号という全長約145メートル、約8700トンの客船に乗船した[3]。この船には3等が2種類あって、甲板クラスは白線で示された通路以外はどこでも寝具を敷いて良いというもの、私のチケットは蚕棚が並ぶ船倉クラスで、一週間の航海中ずっと蛍光灯がつけっぱなしであった。合わせて3000人をはるかに超える3等客は、甲板のあちこちで勝手に調理したり子供にトイレをさせたりで、一挙にインドの日常生活に放りこまれた感じがした。ベンガル湾を横断して夜明けに西のかなた、碧い空と青い海のあいだに緑の糸のような線が見えはじめたが、やがてそれがヤシの群生だとわかったときには本当に感激した。ナーガパッティナムの港からさらに一晩かけて北上し、マドラス(現チェンナイ)港に上陸した。インド国内の移動はほとんど汽車の3等座席で、半額になる学割が利用できたので大いに助かったが、常にノミとシラミと南京虫と同行しなければならなかったのは辛かった。


南インド・タンジャーヴール駅。このような蒸気機関車でインドをまわった。(筆者撮影)

インド最南端のカニヤークマリから北のカシュミール地方まで縦断し、パンジャーブ地方の国境の街フィローズプルからパキスタンに入国した。午後遅くラーホール市に到着したとき、インド・パキスタンの国境が閉鎖されたことを知った。これはもちろん想定外である。その夜から灯火管制が始まった。映画でしか見たことのなかったことが現実に起こっていた。もうインドには戻れない。そこで予定を変更して、当時はまだ王政国家であったアフガニスタンに向かった。12月1日、ハイバル峠を越えてカーブルに逃れたが、3日に第三次印パ戦争が勃発し、一週間前に私が移動してきた印パ双方の街が爆撃された[4]。パキスタン・アフガニスタン国境も閉鎖されると、カーブルはヨーロッパからアジア・ハイウェイ[5]を旅してきた旅行者であふれかえった。私はインドから日本に帰国する予定でチケットも持っていたが、もう仕方がない。覚悟を決めて、行き所を失った若者を募ってソヴィエト大使館に交渉に行き、タシュケント(現在はウズベキスタンの首都)行きの特別便を出してもらうことに成功した。この旅は、結局、飛行機でモスクワ、ハバロフスクをまわり、シベリア鉄道でナホトカまで下り、客船で横浜の大桟橋に12月25日に到着するという時計回りの大巡礼になった。

二回目のインドへの旅は大学院時代の1975年の春、修士論文の資料集めのためであった。そのころちょうど格安航空チケットが入手できるようになり、タイのバンコクでビルマ航空(現ミャンマー・ナショナル航空)に乗り換えて、首都のラングーン(現ヤンゴン)を経てカルカッタに行くのが一番安いコースだった。専門にしようと思っていたインド哲学関係の書籍を探しつつ、ガンジス川を遡るかたちで西に移動していった。この旅で一番の経験は、ガンジス川上流の街リシケーシュでヨーガ行者に手ほどきを受けたことである。日本に行ったことがあるというので、一瞬聞き間違いかと思ったが、なんと1970年の大阪万博の太陽の塔の前で撮られた記念写真を見せられた。インド政府からヨーガのエグジビション講師として世界各地に派遣されていた行者で、普段はリシケーシュの山奥で孤高の修行生活を送っていた。

リシケーシュを離れる前に、あるヨーガ道場に出版物を買うために立ち寄ったら、何を誤解されたか老師がお会いになるからしばらくお待ちをと言われた。小一時間待っていたら、両脇を弟子に支えられた老師が目の前の虎皮が敷かれた椅子に座った。「どこから来ましたか」という定番の質問のあと、「何か悩み事はありますか?」と尋ねられた。この質問も今考えればお決まりのものだったのだろうが、そのときの私は1分ぐらい真剣に考えこんでしまった。そして、「私にはなにも悩みはありません」と答えた。すると老師は笑顔で祝福してくださった。まだ外国人もまばらで、ヒマーラヤ山麓の桃源郷のような雰囲気がただよっていた。


デリーのインド門のポスターを見つめる男性。タミル・ナードゥ州タンジャーヴール駅にて。(筆者撮影)

第三回目のインドは、留学という長期の入印生活になった[6]。インド北部のヒンドゥー教の聖地バナーラスにある大学に所属し、ガンジス川の岸辺の下宿で7年暮らした。この期間のことを書いたらきりがないが、一つだけほかの旅と違う点を挙げるなら、4月半ばから6月半ばころまでの酷暑期を体験したことである。エアコンも冷蔵庫もガスも、おまけにテレビもない生活で、毎日何時間もつづく停電のあいまに動いてくれる扇風機が唯一の頼りだった。大学は夏季休暇に入り、新聞では連日、暑さで何人死亡したという記事がでる。バーザールは夜明けから9時ころまで買い物客がいるが、そのあとそそくさと店を閉め、夕方までゴーストタウンになる。例年の最高気温は43度くらいだが、ある年48度になったときにはさすがに消耗した。それでもなぜか私はあの暑さが好きで、留学中のほとんどの夏を避暑に行かずに過ごした。蚊も死に絶える。暑さが好きというより、アラビアのロレンスが砂漠に惹かれる理由を「清潔だからだ(イッツ クリーン)」と答えたのと同じ理由かも知れない[7]。最近のバナーラスの夏は50度を超える日もあるのでかなり危険だが、私にとっては精神的にハイになれるインドで一番好きな季節であることは間違いない。

留学後、いったい何回インドに行ったのかは数えていないが、ヒンドゥー聖地のフィールドワークや、学会参加や、第二の故郷になったバナーラスへの里帰りなど、相変わらず入退印を繰り返している。最初のインド旅行は、夢のような「神秘の国」に分け入る感じがしたが、生活の仕方がわかるようになり、言葉が少しずつ通じるようになると、現実のインドはますます面白くなってくる。「平均的」なインド人は存在しないし、「普通」という言葉もインドではまったく意味を持たない。自分自身の価値基準が常に試される国なのである。インド人は古代よりいかに生きるべきか、いかに死ぬべきかについて、輪廻や解脱など多くの重要な価値観を生み出してきた。私もそろそろ、もう一度入印してそれらのことをじっくり考えてみる時期がきたようだ。


[1] 外貨持ち出し制限額は日本の高度経済成長期の歩みに連動して、700、1000、3000ドルと増額され、1978年に制限枠は完全に撤廃された。

[2] イギリス領マラヤ連邦の初代統監を務めたフランク・スウェッテンハムの名が冠された港。私が利用した1年後に、港名が変り、イギリス植民地時代の名残を消し去った。

[3] ラジュラ(Rajula)は1926年にイギリスのグラスゴーで建造された客船。シンガポールと南インドの東海岸を結んで、タミル人の出稼ぎ労働者を運ぶ航路についた。1974年、長い役目を終えて廃船になった。

[4] インドが東パキスタン独立運動(バングラデシュ独立戦争)に介入するかたちで、東西の印パ国境で熾烈な戦闘を繰り広げた。12月16日にダッカが陥落し、同日東パキスタンはバングラデシュとして独立した。

[5] 1959年に国際連合により提唱された、アジアの32か国を既存の幹線道路で結ぶ計画。1960年代後半の世界的な学生紛争が下火になると、多くの若者が世界に飛び出し、アジア・ハイウェイを往来した。

[6] このときのチケットは、西新宿の小さな旅行代理店ヒデ・インターナショナル(現在のエイチ・アイ・エス)で購入した。70年代にはインド格安旅行キャンペーンに力を入れていて、私も説明会の講師としてお手伝いした。

[7] 映画『アラビアのロレンス』中の、アメリカ人の新聞記者に対する答え。

(宮本久義)

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著者略歴

  1. 宮本久義

    みやもと・ひさよし 1950年生まれ。早稲田大学第一文学部東洋哲学科、同大学院文学研究科修士課程東洋哲学専攻を経て、1978年より7年間インドのバナーラス・ヒンドゥー大学大学院哲学研究科博士課程に留学。1985年、Ph.D.(哲学博士)取得。帰国後、早稲田大学、東京大学等で非常勤講師を務めた後、2005年より東洋大学文学部教授、2015年から2020年3月まで大学院客員教授。インド思想(特にヒンドゥー教、サーンキヤ、ヨーガの思想)、サンスクリット語等を研究・指導。現在、国際仏教学大学院大学、東方学院において教鞭をとっている。主な著書に『ヒンドゥー聖地 思索の旅』(山川出版社、2003年)、『ヒンドゥー教の事典』(共著、東京堂出版、2005年)、『インド・道の文化誌』(共編著、春秋社、1995年)、『インドおもしろ不思議図鑑』(共編著、新潮社、1996年)、『宗教の壁を乗り越える――多文化共生社会への思想的基盤』(共編著、ノンブル社、2016年)など。
    高校生のとき、金縛りのなか「インドに住め」という天の声を聴く。1971年、ベンガル湾を船で横断し、マドゥライの寺院でヒンドゥー教の強烈な息吹に触れる。1978年より運命に導かれるようにガンジス川の岸辺に7年住んでインド留学、ヒンドゥー教思想を学ぶ。
    (『インドを旅する55章』より)

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