ジャンヌ・ダルクとそのイメージ(『フランスの歴史を知るための50章』より)
2016年3月、ある指輪がロンドンのオークションに出品された。指輪はジャンヌ・ダルクの遺品と紹介され、フランスで歴史テーマパークを運営する財団が30万ポンドで落札した。この指輪は銀製で、五つの十字とイエスとマリアの銘が彫られており、たしかに裁判時にジャンヌが語った指輪の描写と一致する。また、オックスフォードの研究所の分析では、ジャンヌの活躍した15世紀の製造であるという。しかし、この種の指輪は当時ありふれたもので、出品された指輪の来歴を辿れるのは1900年代以降でしかない。落札された指輪をジャンヌが所持していたという史料的根拠を欠いたまま、財団はジャンヌの指輪のフランスへの帰還を祝うイベントを盛大に催したのである。
ジャンヌ・ダルクを巡る伝説は、指輪一つとっても、今なおフランス人の心をとらえて離さない。なぜ人々はジャンヌに惹きつけられるのだろうか。小村の農民の娘でありながら、オルレアンを解放し、シャルル7世のランスにおける成聖式を実現させ、聖職者と対決し、火刑台の上で最期を遂げたジャンヌの生涯は非凡であり、英雄を求める人々の心性に合うのかも知れない。中世史家コレット・ボーヌの指摘によれば、今日でもジャンヌにまつわる伝説が多様かつ根強いのは、ジャンヌは存命時から伝説化され、ある者からは聖女として崇められ、ある者からは魔女として謗られた人物であり、預言者・戦士・羊飼いなど複数の多義的なイメージを纏ってきたからである。
中世末期には預言が影響力を持っており、当時は少なくとも4~5人の預言者が国王シャルルの周囲にいた。ジャンヌはオルレアンの解放やイギリス人の駆逐などを預言したが、他の預言者と異なり、その預言の達成という使命を国王に押し付けず、自ら引き受けた。1431年の処刑裁判の時点では、その使命全てが果たされたわけではなく、審理では彼女の預言はペテンだと結論づけられた。その後、国王がイギリス人に勝利し、ジャンヌの予告全てが成就した。そのことは彼女が真の預言者であった証拠となり、1456年の無効裁判では彼女の預言が神の思し召しに対応していたと理解された。
彼女の業績の中で最も驚くべきことの一つは、女性でありながら、兵士を指揮し、オルレアンを解放へ導いたことであろう。騎士道ロマンのような想像の世界には戦う女性が多く登場するが、現実には稀少であった。しかし、兵士の大部分はジャンヌを信じ、アランソン公は彼女によって大砲の弾の直撃から救われたと証言した。
ジャンヌ騎馬像(オルレアン)[撮影:加藤玄]
彼女が実際には羊飼いではないにもかかわらず、国王は彼女を羊飼いと呼んだ。それは、羊の群れを守る女羊飼いと、臣民の羊飼いである国王というイメージを重ねて流布させるという政治的な理由のためであった。
19世紀にナポレオンによってジャンヌが称揚されたことはよく知られている。近代史家ミシェル・ヴィノックが詳らかにしたように、彼女は、ミシュレのような共和主義者には「民衆の代表」であり、カトリック教会には「聖女」であり、民族主義者には「愛国の乙女」であった。
1920年代には、服装による女性の解放、抵抗や地位向上の言説が、男装を非難されたジャンヌに重ね合わせられた。その後もフェミニズムの文脈でしばしば引き合いに出され、彼女のイメージは今もアクチュアルな価値を失ってはいない。
(加藤 玄)