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砂糖プランテーションはどのように始まったか(『カリブ海の旧イギリス領を知るための60章』より)

カリブ海の大小の島々は、いずれもかつて欧米列強の植民地だった過去をもちます。南北アメリカの黒人(奴隷)というとアメリカ合衆国を想起する人が多いと思われますが、カリブ諸島のうち(旧)イギリス領に着目した新刊『カリブ海の旧イギリス領を知るための60章』で指摘されているように、「アフリカ黒人が奴隷として最も大量に輸送されたのは、カリブ諸島」「現在もイギリス領カリブの多くの地域で、人口の9割以上がアフリカ系」(第8章「イギリスの奴隷貿易」)なのです。ここでは本書より、イギリスがカリブ海の植民地から利益を得るべくアフリカ系黒人奴隷を移入して砂糖プランテーションが始まった経緯を記した章をご紹介します。

砂糖プランテーションはどのように始まったか~バルバドスとジャマイカ~

1647年9月初めにこの島に上陸したとき、私たちはここで砂糖製造工場が新たに開業されたことを聞いた。一部の最も勤勉な者たちがペルナンブッコから植物を入手して試し、それがここで育つことを知ってもっとたくさん植え、小規模なengenho〔ポルトガル語 機械、製糖所の意〕が操業でき、どんな砂糖がこの土地で作れるか試せるくらいの量を得られるようになった。(中略)ブラジルから新しい情報もくる。外国人がもってくるときもあるが、自分が知りたいことについて知識を増すためには旅もいとわぬバルバドス人自身によっても、もたらされる。――リチャード・ライゴン『バルバドス島の真の正確な歴史』1657年

イギリス領で最初に砂糖生産を始めたのはバルバドスであり、上記の引用のように、その技術を、当時ペルナンブッコ(現ブラジルのレシフェ)を征服していたオランダ人から学んだとされている。最初にサトウキビを植えたのは、イギリスのバルバドス征服事業を最初に行ったウィリアム・カーティンが派遣したジョン・パウエル船長率いる船団のメンバー、ジェームズ・ホルディップであり、本格的に栽培に成功したのはやはりこのメンバーの一人ジェームズ・ドラックスであった。カーティンは16世紀後半のスペインの迫害から逃れて渡英してきたオランダ人であり、彼のグループはブラジルのオランダ人と知人だった可能性がある。

章冒頭に引用したライゴンはピューリタン革命期の王党派で、1647年に議会派(革命派)の圧迫を逃れるためバルバドスにやって来た。彼は、バルバドス人はサトウキビの作付け方法、収穫時期、木製の圧搾ローラーに鉄板を巻く方法、搾り汁を濾過する方法、搾り汁を入れた銅鍋を炉に正しく設置する方法など、様々な具体的な知識をブラジルから学んだと述べている。またドラックスは、直径30センチから1・5メートルまで様々な大きさのローラーを試すなど研究熱心で、彼の息子ヘンリは、動物や人間の糞尿による施肥やバガス(サトウキビ搾りかす)の燃料としての利用などをプランテーションの管理人に書き残した。このヘンリ・ドラックスのインストラクションは、手稿のままオックスフォード大学に保管されている。またドラックス家の領地ドラックス・ホール・エステートは、17世紀のグレート・ハウスとともに現存し、現在もドラックス家が所有しているが、一般公開されていない。ドラックス家の現当主はイギリスで保守党の下院議員である。

セントニコラス・アビー 現在公開されているバルバドスの17世紀建造のグレート・ハウス

セントニコラス・アビーの砂糖工場跡

こうしてバルバドスは、1640年代後半から50年代半ばの間に、砂糖プランテーションを急速に発達させ、50年代後半にはイギリスにかなりの砂糖を輸出するようになっていた。その一方で急速な開発により地価は10倍になり、資本のない者はもはやこの土地で砂糖生産を開始することはできなくなった。

また以上の急激な開発は、バルバドスの自然環境を大きく変えた。ライゴンは1647年にバルバドスにやってきたとき「今まで見たこともないような木々、その多くは非常に大きくて美しい」と述べている。しかし1649年にバルバドスで未開地を含むプランテーションを購入したトマス・モディフォードは、早くも1655年には「木がなくなってしまった」時この島は没落すると警告を発した。そして、71年には、「バルバドスではすべての木が破壊され、砂糖を煮詰めるのに木が不足しているので、イングランドから石炭を輸入するのを強いられている」といった記述も現れた。

ライゴンによるバルバドスの地図(1657年)(大英図書館オンライン・ギャラリー)

この頃始まるのが、バルバドスから他の島への移住である。1664年には、トマス・モディフォードが、ジャマイカ総督に就任するとともに、約700人の移住者を伴ってジャマイカに移住した。また、 1674年にはやはりバルバドスの大地主クリストファ・コドリントンは、アンティグアに広大なプランテーションを得たほか、バーブーダ島全島を領有して、食料の生産農場とした。そのほか、様々な地域にバルバドスから人々が移住した。1670年バルバドスの総督は、同島では富裕者の大土地所有が進展する一方で、1万2千人もの中小地主が、ニューイングランドやヴァージニア、セントキッツ島、オランダ領ギアナ、その他フランス領などに移住してしまったと述べている。確かに、バルバドスの人口は1680年代からその後百年の間ほとんど増加せず、白人1万8千人、黒人奴隷5~7万人くらいの規模にとどまっており、砂糖の生産量も伸びていない。

一方ジャマイカは、18世紀にはイギリス領で最も繁栄した砂糖植民地となる。ジャマイカでは、最初から極端な大土地所有が進展した。1676年には、すでに全島で耕作面積が21万エーカー(8万4千ヘクタール)にまで広がっていたが、千エーカー以上を所有する者が47人いた。トマス・モディフォードは6千エーカー、彼の弟のジェームズは3500エーカーを所有していた。ジャマイカの大地主として有名になるベックフォード一族も、『ジャマイカ史』(1774年)を著したエドワード・ロングで有名となるロング一族も、すでにそれぞれ2千エーカー以上を持っていた。モディフォードの次の総督トマス・リンチは、1655年ジャマイカ征服に参加した時には少年であったが、彼も17世紀末には2万エーカーを所有していた。

ただこうして得た土地も、開発しなければ何にもならない。しかし、熱帯雨林の繫茂する未開地を開墾し、そこで植え付けや伐採に手のかかるサトウキビを栽培し、その加工をするための工場、水路や道路、要塞や港湾、そして住居も建設し維持していくためには、膨大な人手が必要だった。そこで初期にはアイルランド人などの白人労働者、17世紀後半からはもっぱらアフリカ黒人が奴隷として連れてこられた。

バルバドスでは、1630年頃までは白人地主と白人契約労働者合わせて人口が1500人程度だったと推定されているが、1645年には白人地主が1万1千人、白人契約労働者が数千人、それに対して黒人と少しの先住民からなる奴隷は6千人近くにまで急増した。その後黒人奴隷の数は急速に増え、1683年には白人地主1万7千人、白人労働者2300人、黒人奴隷は4万6千人くらいになる。白人労働者の中には、クロムウェルのアイルランド反乱鎮圧時の捕虜が多数含まれており、1655年までに1万2千人がカリブに送られたともいわれる。アイルランドは16世紀以降イングランドの植民地と化しており、イングランドがアメリカ世界を植民地化した後は、黒人奴隷制が定着するまでアイルランド人が重要な労働力となっていた。本書では詳述できなかったが、今でもイギリス領カリブ世界にはアイルランド人の子孫や文化が残存する。またアイルランド人とカリブの人々には共有された帝国批判の心情がある(41章、42章に出てくる歌手オコナーなど)。

バルバドス以外のイギリス領に黒人奴隷が送られるようになるのは、1650年代以降である。奴隷貿易の研究者フィリップ・カーティンの計算によると、1651~75年に、ジャマイカには1万2500人、バルバドスには4万8千人、リーワード諸島には1万2千人近くのアフリカ黒人が送られた。その後イギリス領に送られる黒人は年々増加し、18世紀初頭には毎年1万人、18世紀後半には毎年2万人以上の黒人奴隷が送られた。

(川分圭子)

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著者略歴

  1. 川分 圭子(かわわけ・けいこ)

    京都府立大学教授。文学博士(京都大学)。
    イギリス近世・近代史専攻、ロンドン商人、西インド貿易を主に研究。
    主要著作・翻訳書:『ボディントン家とイギリス近代 ロンドン貿易商1580--1941』(京都大学学術出版会、2017年)、『商業と異文化の接触』(編著、吉田書店、2017年)『歴史の転換期7、1683年 近世世界の変容』(山川出版社、2018年)、『フランス革命を旅したイギリス人』(翻訳、春風社、2009年)。

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