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モスタルとスタリ・モスト(『ボスニア・ヘルツェゴヴィナを知るための60章』より)

モスタルとスタリ・モスト 〜都市のシンボルとしての橋〜

  ボスニア・ヘルツェゴヴィナ南部、ヘルツェゴヴィナ地方の中心都市モスタルは、ユーゴスラヴィアの縮図であるボスニアの縮図といいうる都市であった。1991年の国勢調査によれば、自治体人口約12万7000人のうち、ムスリム人(その後のボシュニャク)が約34.6%、クロアチア人が約34%、セルビア人が約18.8%、そして「ユーゴスラヴィア人」が約10%となっている。主要三民族の民族比が比較的拮抗し、「ユーゴスラヴィア人」と申告する人の割合も多かったことがわかる。アドリア海まで50キロ弱ほどで地中海性に属するモスタルの気候は比較的温暖で、サラエヴォなどの他のボスニアの主要都市とは異なり、冬の降雪もまれである。ただし近年では、地球温暖化の影響か夏の酷暑、冬の厳冬といった極端な気候も見られるようになっている。

 モスタルは、かつても現在も観光都市であり、都市とその近郊の観光資源には事欠かない。近郊の小村ブラガイは、今に残るイスラム神秘主義教団の「道場」(テッケ)の存在で知られる。また、1981年のメジュゴーリェの「奇蹟」により、一種の「宗教観光都市」となったメジュゴーリェまでも約25キロに過ぎない。また、モスタルを含むこの地域は、第二次大戦中のパルチザン戦争の主要な舞台であった。戦後の1965年には、モスタル西岸の街を広く見渡す高台に、広大なパルチザン墓地が建設され、社会主義期を通して都市のシンボルの一つであり続けた。また、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したモスタル出身の詩人アレクサ・シャンティチも、この都市の文化を代表する人物である。シャンティチ自身はセルビア人だったが、「エミーナ」に代表されるその抒情詩は、節をつけられ、民族を問わず、モスタルにとどまらず、ボスニア、そしてユーゴスラヴィアの多くの人々に愛唱されている。

写真:ネレトヴァ川両岸に広がるモスタル[出所:Mostar u slici i riječi, Mostar, 2013, str.13.]

 

 そして都市モスタルの最大のシンボルは、疑いなく「スタリ・モスト」(「古い橋」の意)の名で知られる石造りの橋であろう。モスタルは、ネレトヴァ川沿いの盆地に発展したが、その発展はネレトヴァ川と川に架かる橋の存在なくしては考えられないものだった。そもそもモスタルが都市として成立したのも、ボスニアが15世紀中葉にオスマン帝国の支配下に入って後、ネレトヴァ川に橋(当時は吊り橋であったともいう)が架かる交通の要衝であったこの地が、商業や行政の中心として位置付けられたことを契機としている。「モスタル」という都市の名は、「橋(モスト)の守り手」を意味するもので、1474年のドゥブロヴニク共和国の文書にその名が現れている。そして、オスマン帝国の史料によれば、スレイマン一世の命により、吊り橋に代えて石の橋の建設が1557年に始まった。石造りの橋の建設には9年余りの歳月を要し、美しいアーチをみせる石の橋が完成した。橋脚間の距離は28.7メートル、夏の水面からの高さが20メートル強あり、当時最先端の技術により建設されたことがうかがえる。

写真:スタリ・モスト

 

 モスタルを統治する政治主体が、オスマン帝国、ハプスブルク帝国、王政ユーゴスラヴィア、社会主義ユーゴスラヴィアと変遷しても、スタリ・モストは、常にこの都市の象徴であり市民の誇りであり続けた。いつしか、若い男性が度胸試しにスタリ・モストからネレトヴァ川に飛び込む習慣も生まれ、1968年からは飛び込みの競技会も組織された。

 1992年に勃発したボスニア紛争は、都市モスタルにあまりに大きな傷跡を残した。都市の民族共存は破壊された。セルビア人の多くはモスタルを後にし、都市の東部にはボシュニャクが、西部にはクロアチア人が陣取り、街の目抜き通りを境に市街戦が展開した。そして戦闘が激しくなる中、1993年11月9日、クロアチア人勢力の砲撃によりスタリ・モストは破壊された。

 ボスニア紛争は1995年に終結したが、モスタルの民族分断はその後も続いた。それは、ボシュニャクとクロアチア人の民族主義政党の対立という政治的分断にとどまらず、居住地域の分断と(ボシュニャクは東部に、クロアチア人は西部に主に暮らすようになった)、さらには学校教育の民族ごとの分断につながっている。同じ学校建物において、民族ごと(より正確には「母語」ごと)に学校が分断される「同じ屋根の下の二つの学校」はモスタルでもみられる。さらに民族間の分断は、文化団体の分断やスポーツクラブの分断にまで及んだ。1922年創立の歴史あるサッカークラブ「ヴェレジュ・モスタル」は、主としてボシュニャクの集うクラブとなり、クロアチア人は「ズリンスキ・モスタル」を自らのクラブと考えるようになった。こうした分断は、都市のトップクラブから、各街区の少年スポーツクラブにまで及んでいる。スポーツやスポーツの応援は、ナショナリズムを強く反映するもので、クロアチアとトルコのサッカーの国際試合が行われた際に、試合開催地から遠く離れたモスタルで、トルコ代表を応援するボシュニャクとクロアチア代表を応援するクロアチア人の小競り合いが起こるという事態も生じた。

 紛争の後、国際社会の支援のもと、破壊されたスタリ・モストと橋につながる旧市街を再建しようとの試みが1999年に始まった。再建にあたっては、創建時と同様の材料や技術を用い、破壊前の形を可能な限り忠実に再現することに注意が払われた。そしてスタリ・モストの再建は、単なる文化財の再建というだけのものではなく、戦後も民族間の分断が続くモスタルにおいて、この橋を再び多民族共存の象徴としようという意図も持っていた。再建は2004年に完了し、翌2005年にはユネスコの世界遺産に登録された。スタリ・モストの象徴する多文化的、多宗教的な都市のあり方、そして和解の象徴としてのスタリ・モストの持つ意味が評価されてのことであった。

 平和の到来と世界遺産登録を契機に、モスタルには多くの人が観光に訪れるようになった。民族間の分断は、紛争後20年が経過してもいまだに継続しているが、それでも少しずつ人々の意識に変化が生じてきている。民族を超えた草の根の組織も増えてきた。モスタルはボスニアの縮図であり、いかにモスタルで民族間の壁を取り払ってゆけるかが、ボスニアの将来を占うことにもつながるだろう。(山崎信一)

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著者略歴

  1. 山崎 信一

    東京大学大学院総合文化研究科・地域文化研究専攻博士課程単位取得。1995~97年、ベオグラード大学哲学部歴史学科留学。現在、東京大学教養学部非常勤講師、明治大学兼任講師。
    専攻は旧ユーゴスラヴィアを中心とするバルカン地域の現代史。
    主な著作:『スロヴェニアを知るための60章』(編著、明石書店、2017年)、『セルビアを知るための60章』(編著、明石書店、2015年)、『アイラブユーゴ―ユーゴスラヴィア・ノスタルジー』(全3巻、共著、社会評論社、2014~15年)、「文化空間としてのユーゴスラヴィア」(大津留厚ほか編『ハプスブルク史研究入門―歴史のラビリンスへの招待』昭和堂、2013年)、「イデオロギーからノスタルジーへ―ユーゴスラヴィアにおける音楽と社会」(柴宜弘ほか編『東欧地域研究の現在』山川出版社、2012年)、『映画『アンダーグラウンド』を観ましたか?―ユーゴスラヴィアの崩壊を考える』(共著、彩流社、2004年)。

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