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「人種民主主義」(『ブラジルの歴史を知るための50章』)

日本の23倍もの面積を有するブラジルは、19世紀後半以降、世界中から多くの移民を受け入れてきました。その数は総計500万人と言われ、彼らのルーツは、イタリア、ドイツ、スペイン、ポルトガル、レバノン、ポーランド、ハンガリー、セルビア、クロアチア、アルメニア、ギリシャ、中国、日本、韓国、米国などさまざまです。この多人種多民族国家ブラジルにおいて、いつからか「人種民主主義」と呼ばれる理想像が喧伝されるようになりました。今回はブラジルの人種混淆の歴史と現在の不平等を描き出す新刊『ブラジルの歴史を知るための50章』から「人種民主主義」の概念とその矛盾についての章をご紹介します。

「人種民主主義」~実像ならぬブラジル社会の理想像か、それとも虚像か~

 

「人種民主主義」の内容とその評価

「ブラジルは様々な人種の人びとが混じり合い、肌の色による分け隔てなどない社会である」――こうしたもの言いを耳にしたことはないだろうか。厳密な定義はないが、異人種間の混淆が進み、相互間の対立や差別がない(弱い)といった社会的特徴を言い表すものとして、20世紀半ば以降に定着していった語が「人種民主主義」である。ただ、この語について学ぶときには、かならずセットで知っておかねばならないことがある。それは、この「人種民主主義」は、けっして正しいブラジル社会の解釈ではなかったということである。少なくとも人種にまつわる偏見・差別がないという点に関しては、誤りであったという評価が現在では定まっている。このことを抜きにして「人種民主主義」を語ることは、かつての過ちの上塗りをすることになりかねない。20世紀終盤にその信憑性が失墜するまで、この語に対する信奉たるや絶大なものがあった。「人種民主主義」がこんにち、しばしば「神話」という語をともなって言及されるゆえんである。「民主主義」という語の持つ肯定的な響きとは裏腹に、「人種民主主義」はいまや否定的な意味づけで語られることが圧倒的に多いことを忘れてはならない。単にまちがった解釈としてのみならず、実際には存在する人種偏見・差別を隠蔽してきたウソとしても非難されているのである。

 

「人種民主主義」論の誕生

「人種民主主義」論はブラジル人の社会史家ジルベルト・フレイレ(1900~1987)により提唱されたと一般には認知されている。1933年に刊行され、のちに国外も含め広く読まれることになる有名な著作『大邸宅と奴隷小屋』のなかで、彼は自身の故郷でもあるブラジル北東部のかつての植民地社会、奴隷制社会において、白人と黒人、先住民とがいかに密接な関係をとりむすび、相互に文化的影響を与えあったかを描き出した。そうした関係性は、植民者ポルトガル人が異なる環境・文明に対する傑出した適応力を持ち合わせていたからこそであり、異人種間の混血の広まりによりさらに促進されたと説く。そして、ブラジルでは白人と黒人、先住民のあいだに憎悪や対立は生じてこなかったと主張するのである。

ジルベルト・フレイレ(1945年)

ブラジルは「人種民主主義」の国であるという認識を決定的なものとし、内外に広く浸透させた最大の立役者がフレイレであったことはたしかであろう。ただ、そのアイデアは一から十まですべてが彼の発明であったわけではない。「国民としてのブラジル人は異人種間の混血を通じて形成される」、「ブラジルでは主人(白人)が奴隷(黒人)に対し寛容である」など、「人種民主主義」論の原型ともいうべき断片の数々は『大邸宅と奴隷小屋』よりはるか前、19世紀はじめには既にみてとれる。フレイレの「功績」とは、そうした断片的な観察の裏付けとなるような異人種間関係の具体例を豊富に提示し、その上で学問的知見を動員して体系化し、「説得力ある」議論へと昇華させたことだったということもできよう。サトウキビ農園の日常生活に着目するという、当時の歴史学にあっては斬新なアプローチもあいまって、『大邸宅と奴隷小屋』は学界で高い評価を受けた。ただ、「人種民主主義」という命名に関しては同書においてなされたわけではなく、刊行を受けて他の学者たちが思い思いに用いた複数の呼称のなかから結果として定着したものであり、フレイレ自身もあとから使うようになったのだった。

 

「人種民主主義」論の起源

それならば「人種民主主義」論のもととなった見方は、いったい何に由来していたのか。「混血の国民」との見立ては、同質な国民の形成に対するブラジルのエリートや知識人の関心を背景に浮上したものと言える。ブラジルの独立にあたり中心人物のひとりであったジョゼ・ボニファシオ(1763~1838)は、真の意味で自由となり発展するためには同質な国民を生み出すことが急務であると訴えた。基本的には白人であったエリートや知識人も、当時、住民の多くを占めていた黒人、混血、先住民など非白人の存在を無視できるはずもなく、それらとの融合というかたちで国民を構想することは必然であった。一方、「寛容な主人(白人)」というものの方は、基本的に他地域との対比を内在化する外からのまなざしによって生み出された。その比較対象は他地域(出身)の奴隷主や奴隷制社会であり、とりわけ北米のそれであった。英国人ながらブラジルにも10年あまり滞在したヘンリー・コスター(1793~1820)は、その旅行記のなかで、ブラジルでは農園主が黒人奴隷を他地域にくらべ寛大に扱っているとし、(他地域ではあまりみられないような)社会的地位あるムラート(黒人と白人の混血)も散見されると綴っている。そしてこうした見方は、その後、米国の奴隷制廃止運動家によってもたびたび繰り返されることになる。ブラジルの奴隷制の「温情」を強調すればするほど、自国の奴隷制の残虐さを際立たせ、反奴隷制の気運へとつなげることが期待できたからである。「異人種間の調和」という解釈は、やがてブラジルにも「逆輸入」されていく。

 

政治性をはらむ概念

このようにみてくれば、「人種民主主義」論の形成過程は客観的な現実認識として以上に、特定の立場からの望ましい、都合のよいブラジル社会像の投影として積み重ねられてきたことがわかる。フレイレによる「完成版」が広く受け入れられた事情もじつは例外ではない。その「学術性の高さ」もさることながら、この20世紀前半という時期、奴隷制という共通の過去を持つ国ながら米国とブラジルが示していた対照性も、「人種民主主義」論支持へと世間を傾かせた。米国では南部を中心に異人種間の分離を定めたジムクロウ法と黒人に対するリンチが波乱を巻き起こしていた一方、ブラジルではそのどちらも認められず、そのことは「人種民主主義」の証しであると受けとめられたのである。だが、そこには米国の対外戦略も関与していたことが最近になって指摘されている。世界恐慌やファシズムの台頭といった国際情勢に直面し、米国は隣接するラテンアメリカ地域との関係強化を望んだが、その非民主主義的な政治のありようが障害となった。そこで同地域では異人種間の混血が進み、人種問題が顕在化していないことに着目し、それを(政治面でなく)社会面の民主主義と見なして自陣営に引き入れる大義名分に仕立て上げることにしたというのである。米国政府は、自国およびラテンアメリカ諸国の黒人問題専門家たちが交流する機会を設け、後者の社会について望ましい人種間関係の実例としての認知が高まるよう仕向けた。第二次世界大戦後、その悲劇の一因となった人種主義を克服する鍵を握る国としてユネスコはブラジルを選定し、調査プロジェクトを実施したが、その立案に主導的な役割を果たしたブラジル人学者アルトゥール・ラモス(1903~1949)も、米国政府肝いりの交流に参加したひとりであった。

 

装いと内実の矛盾

ブラジル国内の権力者にとっても、「人種民主主義」は好都合な自国像であった。人種主義思想の影響により悪しきものと見なされていた異人種間の混血をプラスの価値へと転換させ、国民形成の核に据えるという発想は、エリートや知識人に、彼らが長年さいなまれてきたヨーロッパ諸国に対する劣等感を払拭することを可能にしたばかりか、非白人との理想的な関係を築いてきたという優越感さえ抱かせた。そして、1930~40年代のヴァルガス独裁体制がアフリカ由来の文化であるサンバを国民を代表するものと位置づけ、精力的に普及させる文化政策を実施したように、「混血の国」というアイデンティティを浸透させる取り組みがおこなわれることもあった。しかしその反面、体制はヨーロッパ人移民の招致に躍起となり、露骨ではないものの社会に根を下ろしていた黒人への因習的な差別には見て見ぬふりをしたのであった。日常生活のなかで差別を肌で感じながらも、教養ある黒人のあいだでは当初、あくまでも到達すべき理想としてであるが「人種民主主義」に期待をかける向きもあった。だがそうした望みも、1960年代半ばに誕生した軍事政権が、体制や現状への批判や不満を封殺する大義として「人種民主主義」を振りかざすようになると、あえなく潰えてしまう。黒人運動家にとって、それはもはや白人支配層のホンネである「白色化」(白人の血を注入し混ぜ合わせることで国民を徐々に白人に近づけていくこと)や人種差別をカモフラージュする表面的なタテマエ、偽善以外の何ものでもなかったのである。黒人運動家のみならず、進歩派の知識人・活動家からも攻撃されることとなった「人種民主主義」は、軍政の終焉とともに1980年代には威信を失った。

 

したたかな生命力

しかしながら、「人種民主主義」の生命力はけっしてあなどることはできない。どんなに反駁されようと、神話と認定されようと、隙あらばその分身や亡霊が顔をのぞかせる。「ブラジルにも人種偏見・差別が存在しないわけではない。でも……」――「米国や南アフリカほど苛烈なものではなかった」、「米国のように暴力的な対立には発展しない」等々、その後にどのような言葉が続こうと、結果として、黒人や先住民が体験してきた差別の重みを不当に目減りさせてしまうことになりかねない。われわれはそのことにけっして無頓着であってはならない。

(矢澤達宏)

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著者略歴

  1. 矢澤 達宏

    上智大学教授
    主要業績:『ブラジル黒人運動とアフリカ――ブラック・ディアスポラが父祖の地に向けてきたまなざし』(慶應義塾大学出版会、2019年)、『ポルトガル語圏世界への50のとびら』(上智大学出版、2016年)。

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