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教わることに頼らないための自学自習法

「学ぶ」とは何か? 目的と手段、そして対話。

柳原浩紀

 あなたはこれまでに、「『学ぶ』とは何か」を誰かに詳しく教わったことはあるだろうか。あなたはきっと多くのことを「学んで」きた、ひょっとすると「学ばされて」きたはずなのに、肝心のそこのところを教えてくれる大人は少ない。だからここではまず、そこから話を進めたい。

 

 「はじめに」で話したとおり、学ぶことは短期的な目標のためでも、大人のリクエストに応えるためでもない。あなたが学ばないといけないのは、それがあなたの一生を支えるものだからだ。

 そんな大切なもののはずなのに、「『学ぶ』こととは何か」を教えないまま教育らしきものはどんどん進んでいってしまう。学校や塾では、授業を聞いて宿題やテストをこなすことを、なんとなく「勉強」と呼んでいる。授業、宿題、テスト。こうした「型」をなぞらせることには熱心なくせに、その一つ一つがあなたの学びに本当につながっているかどうかには大人たちはけっこう無頓着だ。

 

 もしかしたらあなたは今、自分のことを勉強が苦手だと思っているかもしれない。しかし、それは、今まで教わってきた方法が、あなたの学びにはつながらないような方法だっただけだ。一律に押し付けられた方法ではうまくいかないだけで、「自分は頭が悪いから勉強ができないんだ…」と思い込まされてはいけない。必要な方法を知らないだけのあなたが今勉強が苦手でも、それはあなたの可能性を否定する証拠には決してならないからだ。

 それに、今まで努力していてもうまくいかないからといって、「努力が足りないんだ…」

と思うのもいけない。それだって、あなたに合っていない方法を押し付けたのを棚に上げて、教える側があなたの努力不足と決めつけてるからそう思い込まされているだけかもしれない(残念なことだが、自分の教え方やサポートの仕方がうまく機能していないことを疑わずに、ただ「もっと頑張れ!」と言うだけですませてしまう大人も多い)。

 あなたが今勉強が苦手なことも、あなたのせいだけかどうかはわからないのだ。だから、あなたが自分の可能性を否定しないよう、まずは気をつけないといけない。

 

 そもそも「何のために学ぶのか」とたずねても、「勉強しないと生きていけなくなるけど、いいの?」と答える大人もいるだろう。けれどそんな返事は、生きること自体に疑いを持てなくなった大人の目線からの単なる脅しにすぎない。生きるかどうか自体に、あなたは悩んでいるというのに。学ぶ目的を聞けば真正面から答えずに脅され、学ぶ手段についても一律なやり方がまるで唯一のものであるかのように疑いもなく押し付けられる。そのくせ努力だけは大量に求められたあげく、その結果は全て「あなたの努力不足だ」と自己責任にされる……そんなテキトーな状況に置かれている以上、学ぶことに乗り気になれないあなたの方がむしろ健全だろう。

 

 そのような中でも、あなたはこれまで「学び」のイメージをなんとなくは抱いてきたはずだ。よくあるところだと、学ぶとは覚えること、なんて思っているかもしれない。ほかにも、学ぶとは問題を解くこと、もあるだろうか。学ぶとはわかること、なんて言うとちょっとかっこいい。多くの人は、大別するとこの3つのどれか、イコール学ぶことだと思っている。

 しかしここであなたに分かっておいてほしいのは、「覚える」ことも「問題を解く」ことも、「わかる」ことでさえ、学びのための手段の1つでしかないということだ。これら3つとも、教科の内容を自分が少しずつ使いこなせるようにしていくために役立つことはまちがいない。けれども同時に、3つのうちどれも、唯一の手段でもなければ、万能の手段でもない。そこを間違えてはいけない。

 学ぶとは、これら3つの手段を組み合わせつつ、教科の内容を今よりもっと使いこなそうとしていくことである。

 

 さて、この3つの手段はまったくばらばらのものというわけではなく、相互につながっている。「わかる」ことは、「覚える」ことにも「解く」ことにも役立つし、「覚える」ことは、「解く」こと、「わかる」ことにつながる。あるいは「解く」ことで、「覚える」ことや「わかる」ことにつながってくるということもある。

 お坊さんがどうしてあんなに長いお経を覚えられるのか、ふしぎに思ったことはないだろうか。その方法の1つに、「ストーリーを感じる」というのがあるらしい。「ストーリー」というのは、人間の「わかり方」の代表的な形式の1つだ。つまりお坊さんは、「わかる」ことを使って「覚える」ことをやっている。わざわざお坊さんの話を持ってこなくても、「バラバラに覚えていた地名が、地図をじっくり見たらつながってきた!」「問題を繰り返し解いていただけなのに、そこで使った知識が覚えられた!」というような経験なら、あなたもしたことがあるんじゃないだろうか。このように3つの手段はお互いつながっている。

 

 もしかするとあなたは今、「お互いつながってるなら、たとえば『解く』だけで、『覚える』『わかる』もできちゃうんじゃない?」と思ったかもしれない。けれど、そのように学び続けてしまうと、実はすぐに限界が来てしまう。

 

 そのことをわかりやすく想像するために、植物の話をしよう。ある植物が育つためには、A、B、Cという3つの栄養素が必要だとする。あるとき、Aの栄養素だけが不足すると、植物はAが与えられた量にしたがってしか成長しなくなる。代わりにB、Cの栄養素をたくさん与えてみたとしても、Aが不足しているかぎり、十分に育つことはできないのだ。つまり、「成長は、必要な栄養素のうち、与えられた量が最も少ないものによって決まる」ということになる。これは有名な話で、ドイツのリービッヒさんという人が気がついたので、「リービッヒの最小律」という。

 そして、まさにこの「リービッヒの最小律」のように、あなたの学びの成長は、3つの手段のうち、あなたに最も足りていない手段によって決まる。教科の内容を使いこなそうとするときにあなたの足を引っ張るのは、決まってあなたの一番苦手なものだからだ。「問題を解いていればいいんでしょ」「わかればいいんでしょ」「覚えればいいんでしょ」といった偏った学び方をしていると、あなたに足りない栄養素はいつまでも補われないままになってしまう。

 

 にもかかわらず、「教科書の英文を全部覚えなさい!」「英語の文法問題をたくさん解きなさい!」「数学の問題集やワークをたくさん解きなさい!」「理解すれば、暗記なんて必要ないんだよ!」と、偏った手段が万能であるかのように言い切ってしまう大人は多い。だいたいそういうアドバイスは、本人の成功体験の押しつけだったり、“有名な教材”という権威に頼っているだけだったり、教える側が説明しやすいところだけ説明して溜飲(りゅういん)を下げることだったりする。しかし、偏った手段を一律に押し付けるだけで、各々足りない栄養素が違うはずのあなた達の学びが一律に進むはず!と期待するなんて無茶な話だ。まあ、ときには、そうやって押しつけられた手段がうまくいくケースもあるだろう。しかしそれは、たまたまその偏った手段があなたに足りないものと合致したときだけだ。その幸運を期待しつづけるのはバカバカしい。

 

 ここから言えるのは、あなたは、先生や先輩や親から「これがいいよ!」と聞いたという理由で偏った手段を唯一のものと信じていてはいけない、ということだ。あなたが学んでいくということは、「覚える」こと、「問題を解く」こと、「わかる」こと、といった全ての手段の中で、自分に今最も足りない「栄養素」は何かを目ざとく見つけ、たえずそれを補っていくということなのだ。だからこそ、もらったアドバイスがたとえ多くの人にとって有益なものであっても、それがあなたに今足りていないかどうかをチェックしなければならない。これが、100人いれば100通り以上の学び方、というものがある、ということだ。

 それはまた、仮に本当にすばらしい先生に出会えたとしても、習うだけではあなたの学びが進まない、ということでもある。すばらしい先生でも、どの手段が今のあなたに最も足りていないのかをリアルタイムで全て把握することは、とうてい不可能だ。すばらしい先生ほどそれがわかっているから、あなたの今の状況を聞きたがるはずだ。あなたの状況を聞かずに持論を押し付けるだけの先生なら、あなたの学びの邪魔にしかならないと言える。

 

 さて、ここまでを整理しよう。

●「学ぶ」とは、3つの手段を組み合わせつつ、教科の内容をもっと使いこなそうとすることである。

●その3つの手段とは「覚える」「解く」「わかる」である。

●3つの手段のうちあなたの成長を決めるのは、あなたに最も足りないものである。

●だから、あなたは今の自分になにが最も足りないか、自分自身でチェックしつづけないといけない。

 

 これらを踏まえれば、自学自習こそが実は学びの本筋であり、王道であることになる。あなたのことを、あなた以上に詳しく知り続けられる人はいないからだ。いち早く自学自習を始めたあなたは、他の子たちよりも早くからその王道を歩み始めた、ということになる。逆に、授業からしか学べないうちは、所詮は補助輪をつけて走っているようなものだ。いずれひとりできちんと走れるようになるために、補助輪を外す練習をしないといけない。これはあなたへの慰めでも励ましでもなく、確かな事実である。

 

 もちろん、ひとりで学ぶからこその厳しさもある。人の言いなりに「努力」するだけなら、失敗を他人のせいにもできるだろうが、自学自習ではそうはいかない。また、自分に最も足りないものを探しつづけるためには、知りたくない自分を知ろうとする勇気も必要となるだろう。しかし、あなたが、「覚える」「解く」「わかる」のどれもが決して万能ではない1つの手段にすぎないこと、その3つの中で自分に足りない部分を鍛えていくことがあなたの学びを進めるために必要だ、と、正しく認識することは、まずは試行錯誤への大切な一歩となる。

 

 言い換えれば、このような学びのプロセスは自分と絶えず対話をしていく、ということでもある。そしてそのような対話を通じて、押しつけられて身につけてきた学びの手段を一つ一つ疑い、自分に最も足りていない学びの手段を絶えず選び取ることが大切だ。それはまた、すばらしい先生から教わったアドバイスの価値をあなたが自分で再発見することにもつながるだろう。これらは、あなたがたったひとりでもできることだ。いや、たったひとりのあなたにしかできないことなのだ。

 

 唯一のものだと信じ切った手段ではうまくいかない現実があることを見つめるのには、とても勇気がいる。大人もそこで、日々自分の心の弱さに苦しんでいる。だからこそ、あなたがその勇気を出して自分と対話しながら学び始めることは、あなたの学びに今必要な手段を見つけてくれるとともに、1つの手段に依存して現実を見失っていないかを考える習慣も鍛えていく。それはやがて、誰に聞いても棚上げにされていた「何のために生きるのか」という目的についてもあなたに考えさせてくれるかもしれない。ある手段をあくまで1つの手段にすぎないと正しく捉えれば、それと目的とをごっちゃにできなくなるからだ。わたしはこの文章をあなたに向けて書きながら、そうなっていくことをなによりも願っている。

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著者略歴

  1. 向坂 くじら(さきさか・くじら)

    詩人。「国語教室ことぱ舎」代表。Gt.クマガイユウヤとのユニット「Anti-Trench」朗読担当。著書に第一詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)、エッセイ集『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)。現在、百万年書房Live!にてエッセイ「犬ではないと言われた犬」、NHK出版「本がひらく」にてエッセイ「ことぱの観察」を連載中。ほか、『文藝春秋』『文藝』『群像』『現代詩手帖』、共同通信社配信の各地方紙などに詩や書評を寄稿。2022年、ことぱ舎を創設。取り組みがNHK「おはよう日本」、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞などで紹介される。1994年名古屋生まれ。慶應義塾大学文学部卒。

  2. 柳原 浩紀(やなぎはら・ひろき)

    1976年東京生まれ。東京大学法学部第3類卒業。「一人一人の力を伸ばすためには、自学自習スタイルの洗練こそが最善の方法」と確信し、一人一人にカリキュラムを組んで自学自習する「反転授業」形式の嚮心塾(きょうしんじゅく)を2005年に東京・西荻窪に開く。勉強の内容だけでなく、子どもたち自身がその方法論をも考える力を鍛えることを目指して、小中高生を指導する。

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