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変貌した2010年代の社会(『現代メキシコを知るための70章【第2版】』より)

 アメリカの新大統領ジョー・バイデン氏の就任式が、憲法の規定に基づいて今月20日に行なわれます。トランプ大統領とは対照的に国際協調の重視を強調するバイデン新政権の行く先に注目が集まるなか、トランプ政策の「国境の壁建設」に象徴される移民問題や、北米自由貿易協定(NAFTA)改定において大きな影響を被った隣国メキシコとの関係がどのように変化していくかは、とりわけ注目度が高いといえるでしょう。

 そのメキシコでは、およそ2年前の2018年12月に中道左派のロペスオブラドール(通称AMLO)政権が誕生。新自由主義体制の変革を唱え、アメリカへの不法移民の原因のひとつとされていた低水準の最低賃金をこの2年で約1.6倍にも引き上げています(それでも、アメリカには及びませんが)。そんなAMLO政権発足前夜を描いた『現代メキシコを知るための70章【第2版】』(2019年1月刊)から、超大国の隣でしたたかに生き抜くメキシコ社会の様相をお届けします。

 

変貌した2010年代の社会 ~グローバリズムがもたらした生活環境の変化~

 1990年代から自由主義経済政策に基づくグローバル化が急速に進んだメキシコでは、2000年の歴史的な政権交代後の国民行動党(PAN)政権による2期12年間を経たのちに返り咲いた制度的革命党(PRI)政権(2012~18年)を合わせた18年間に、社会経済の様相が大きく変化した。

 国全体でみると、首都圏だけでなく地方都市部のインフラの整備が進み、バスターミナルや官公庁舎の近代化、病院・学校・文化施設・公園などの整備も進んでいる。同時に、外国資本の進出は、庶民の日常生活に欠かせないスーパーマーケット、ガソリンスタンド、商業施設から娯楽施設にまで及び、近代的な設備とサービスによって都市部における生活環境は激変したといっても過言ではない。本書ではメキシコの国立統計地理情報院(INEGI)の定義に沿って人口2500人以下の集住地点を「地方」と呼び、それ以上の人口集住地区を「都市部」とするが、大・中規模の都市部ではショッピングモール、大型ショッピングセンター、コンビニエンスストア、ハンバーグやピザのチェーン店、スターバックスに代表される洒落た開放的なコーヒー店があちこちに出現している。使い勝手の悪い伝統的な食品・雑貨店も残っているが、大・中規模の都市部に進出した外資系ウォルマートのような大型スーパーチェーン店の店内は広く、日本の小さなカートからは想像もできない大きなカートを押してさまざまな加工食品・生鮮食品・雑貨商品を客が手に取って選んで購入する様子は、米国のスーパーストアとあまり変わらない。これらの店舗の生鮮食品は伝統的な店の商品より質がよく、値段もあまり違わない。

 同時に、情報革命の波は地方にまで届いている。電気は世界の国のほぼ過半数がそうであるように国民の100%に届いており、家電製品はもとよりテレビの普及率も高い。インターネットやスマホの普及率はこの数年で急速に伸びた。人口のほぼ90%が所有するという携帯電話の普及率は高止まりである一方で、スマホの普及率もこの3年ほどの間に倍々ゲームで普及してきた。ゲームセンターのような娯楽ビジネスが定着し、奥地集落や都市部の貧民街を歩かない限り、メキシコ国民の半分が貧困層に属すると分析する統計を信じることは難しい。

メキシコ市内の地下鉄でスマホに夢中になっている女性通勤者(筆者撮影 2018年)
メキシコ市内の地下鉄でスマホに夢中になっている女性通勤者(筆者撮影 2018年)

 しかしこのような先進諸国に劣らぬ生活環境の魅力的な側面を享受するのは人口の半分ほどであろう。なぜなら2017~18年の国民のほぼ半数は生活必需品が買えるぎりぎりの収入で暮らしているからである。また同じ資料によると、2016年の推定人口(1億2232万人)の約23%は過疎地である人口2500人以下の地方の集落で暮らしているため、携帯電話やテレビの普及が進んでいるとしても、外資による新しいタイプの商業施設や娯楽とは程遠い生活環境にあるはずである。

 それでも、少なくとも首都圏の庶民の服装にも大きな変化をみることができる。数年前までは普通にみられた、幅の広い地味な色柄の大きな布でできたレボソで朝夕の肌寒さをしのぎ、小さな子供をすっぽりと包んで背負う伝統的な女性の姿は、ほとんどみかけなくなってしまった。そして最も象徴的な変化は、先住民の伝統的な衣装を身に着けた女性たちの姿が首都圏ではめったにみられなくなったことである。ジーンズにシャツやブラウスといったラフなスタイルとデイパックという姿に変わっている。庶民が利用する地下鉄では、男性のスーツ姿や女性のスカートとヒールの姿はほとんどみかけない。市場にあふれている安い外国製の衣料品が庶民の姿を変えてしまっている。

 しかし急速なグローバル化は社会構造そのものにも大きな影響を与えている。かつての中間層は二極に分割され、中間層の下位グループが限りなく貧困層に落ち込んでいるからである。急速に進化する高度な技術と専門知識を持たない者たちは最低賃金レベルの生活に追い込まれ、経済的な格差社会が21世紀に入って拡大し続けている。四半世紀にわたって停滞し続けた経済成長と実質最低賃金の推移がこの格差社会を示している。かつて中間層に属し、それなりの豊かさを実感していた人々の中でも競争力を持たない者は、たとえ大卒であっても低賃金の職場で働かざるを得ず、さらに中年期にある程度の豊かさを経験して高齢期に入った者たちは、予想もしていなかった生活環境の悪化に直面している。中間層の50代と60代の年齢層は長寿化した社会の中で5~6名の兄弟姉妹が分担して老親の介護を引き受けているが、平均2.2人の子供しか持たない自分たちの世代が老後を子供に託すことはほとんど不可能な時代になったことを実感できないでいるからだ。自分たちの老後の設計もままならぬ中で2~3名の子供たちに教育・生活資金の援助を続け、子供たちが中間層にとどまるよう支え続けている。一方、この中間層に属する若い世代の約3割が「ニィーニィー族」とも呼ばれる学業を放棄しながらも働かず親に依存して暮らしており、政府や専門家たちは若者たちの自立に向けたプロジェクトを企画して、将来を担う世代の自己責任に警鐘を鳴らし続けている。

 他方、外資が進出したさまざまな分野の商業施設では、サービスの在り方が驚くほど大きく変わった。客が商品を手に取り、品質を確認して選ぶことを認め、広いスペースに多種多様の商品を並べた店内は開放的である。同時に、地域社会への貢献と客へのサービスとして導入している買った商品を袋に入れるサービスに、高齢者を積極的に活用する政策が首都圏だけでなく地方でもこの数年で目立つようになった。チップをはずむのが常識の社会では、年金で暮らしていけない高齢者がかつては子供たちがやっていたこの作業を引き受けているのだ。首都圏の大手チェーンスーパーストアでは男女とも制服は支給されるが手当は一切出ない。しかしこの作業は高齢者の間で人気があり、順番待ちの状態である。丁寧に買い物袋に入れる作業は1日3時間ほどだが、その間に得られるチップは最低賃金(2018年の最低賃金は1日83ペソ=約500円)の半分以上になるという(※)。店舗側は募集に際して「近隣に住む60歳以上」であることを証明する公的書類の提出を求め、仕事の順番が来ると一定の訓練を与えて店内で働くことを認めている。高齢者が子供に老後を託すことの不可能さを認識した結果であるのか、企業側の低賃金の使い捨てのサービス労働力としての制度なのか、あるいは民間企業の社会的使命として採用しているのか、おそらくこれらの要素が合致して採用された仕組みなのであろう。

(国本伊代)

※編集注:2021年の最低賃金は1日141.70ペソとなった。

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著者略歴

  1. 国本 伊代(くにもと・いよ)

    中央大学名誉教授。(公財)海外日系人協会評議員。歴史学博士(テキサス大学オースティン校)、学術博士(東京大学)、日本ラテンアメリカ学会理事長(1998-2000年)。歴史学・ラテンアメリカ近現代史専攻。主な著作・翻訳書:『パナマを知るための70章【第2版】』(編著、明石書店、2018年)、『カリブ海世界を知るための70章』(編著、明石書店、2017年)、『コスタリカを知るための60章【第2版】』(編著、明石書店、2016年)、『ラテンアメリカ――21世紀の社会と女性』(編著、新評論、2015年)、『ビリャとサパタ』(世界史リブレット・人、山川出版社、2014年)、『ドミニカ共和国を知るための60章』(編著、明石書店、2013年)、『現代メキシコを知るための60章』(編著、明石書店、2011年)、ジョン・ヘミング『アマゾン――民族・征服・環境の歴史』(共訳、東洋書林、2010年)、『メキシコ革命とカトリック教会――近代国家形成過程における国家と宗教の対立と宥和』(中央大学出版部、2009年)、『メキシコ革命』(世界史リブレット、山川出版社、2008年)など。

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