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ホイアンの日本町の今昔(『現代ベトナムを知るための63章【第3版】』より)

現在では、多くの日本人が観光目的でベトナムを訪れたり、逆に多くのベトナム人が留学や就労を目的に来日したりしていますが、みなさんコロナ禍以降のベトナム観光地の現状をご存知でしょうか。今回はベトナムの多様性や社会問題に焦点を当て、前版から大幅にボリュームアップした新刊『現代ベトナムを知るための63章【第3版】』(岩井美佐紀編著)から、日本風デザインが特徴の国際都市、ホイアンの華麗な歴史と観光問題に関するコラムを豊富な図版とともにご紹介します。

 

ホイアンの日本町の今昔

ホイアン市はトゥーボン川の河口部の左岸に位置している。この地域では早くから人々が居住していた。ホイアンで出土したサーフィン文化(紀元前1千年紀~紀元後2世紀)の遺跡で、中国、インド、西アジアなどの遺物があることから、当時の住民が多くの地域と交流関係を有したことが判明される。その後成立した林邑国家の「林邑浦」、そして7世紀から建国したチャンパ王国の「国港」が築かれ、東西交易が発展した。10~15世紀に、ホイアンがヴィジャヤ国都に近接しながら、チャンパ王国の北にある重要な国際港として活発になった。

ヴィジャヤ滅亡の1471年以降、この地域は大越国の監視の支配下に属するようになった。1558年に阮潢(1524~1613年)がフエに拠点を移し、ダンチョンと呼ばれる現在のクァンビン省にあるザン川以南の地域を開拓するために南進した。阮氏は、国内の農業強固、工業開拓、手工業、商業の発展とともに、外国との貿易の拡大に力を入れていた。以前のチャム港は、ダンチョンの貿易開発一帯の港システムの重点であり、「フェイフォー」として外国の商人の間で有名となった。また、アジア交易の重要な国際貿易港の1つともみなされた。16世紀~17世紀に、アジア諸国のみならず、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスのようなヨーロッパの貿易大国の商人もホイアンに商売に訪れた。阮氏は日本や中国の商人に日本町、唐人町を設立することだけでなく、町の自主管理や頭領を自ら選出することをも許可した。1633〜1672年に6人の頭領が日本町を管理していた。商人たちは、アジア、ヨーロッパの商品をもたらすとともに、ホイアンから生糸、絹織物、陶器、象牙、胡椒、角、鹿革、貴重な木材、森林資源、銀、銅、錫などを買い取っていた。それにより、ホイアンが中心となった海岸から高地、中部から北部に至る交易ネットワークが組織された。この頃、ホイアンを舞台にして、チャム人や現地の少数民族とキン族、そして、中国、日本などの外国との接触をきっかけに、文化交流が積極的に行われた。

18世紀後半から河川の変流や阮朝の制限政策、内戦などにより、ホイアンは貿易港の役割を失った。フランス植民地時代(19世紀後半~20世紀後半)に、ダナンはフランス直轄地となったが、クアンナム省がフランスの保護制度に置かれた。ホイアンにはフランスの公使が派遣された。フランスやヨーロッパの文化要素が多くみられた。

タムタムカフェ(グェン・タイ・ホク通り110番)

ベトナム戦争終結後、ホイアンは当時のクアンナム・ダナン省に直属していた。1996年からダナン市はクアンナム省から分離され中央直轄市に昇級したが、ホイアンはクアンナム省内に残り、2008年に中央政府から人口10万人以上の規模を示す3級都市に認定された。 現在、ホイアン全市には19寺、43廟、23集会場、38祠堂、5会館、11井戸、1橋、44墓地と1000以上の古い民家など、合わせて1300以上の遺跡もある。1999年にホイアン旧市街地の60平方キロメートルを占める町並みは世界遺産としてUNESCOに認められた。町並みは東西方向に細長く、南側はトゥーボン川で、北側は1930年代に造られたファンチューチン通りである。街並みの真ん中にあるチャンフー通りは18世紀に建てられ始め、その東には華僑の会館や関公廟があり、西には日本橋でグエンティミンカイ通りと交わる。南にあるバクダン通り(1878年)とグエンタイホック通り(1840年)はフランス植民地時代に開発された。チャンフー通りの北部、日本橋の周辺とグエンティミンカイ通りは17世紀ごろに建設され始めた。

レロイ通り

日本橋は屋根付き橋で、「橋」と「寺」の両機能を兼ねる世界に1つしかない形式であると思われる。橋は日本町時代に建造されたと伝えられるが、18世紀初頭に阮氏により「来遠橋」と命名された。2021年に3年間の保存修理工事が開始された。町並みで日本橋以外、約400軒の古い町家もあり、木造平屋で、前屋と後屋の間に橋屋と中庭が設けられた特徴がみられる。

ホイアンの日本橋(夜)

ホイアンの日本橋(昼)

ホイアンには住民の記憶や信仰、農業、漁業、町人生活に関わる祭り、伝統芸能、伝統手工業など、多くの無形文化遺産も保存されている。2019年にホイアンを含む中部の古い伝統音楽ゲームの「バイチョイ」がUNESCOに無形文化遺産として認められた。ホイアンの周辺にあるキムボン村の大工、タンハー村の陶器、フォックキェウ村の青銅鋳造なども有名である。町人は川や海、森林、農村から集まった素材を生かし、ベトナム、中華、ヨーロッパの調味法を合わせて豊富な食文化をクリエイトしている。バレー井戸の水で作ったカウラウ麺、中部の辛味の鳥ご飯以外、米で作った中国風のホワイトローズや揚げワンタン、茶飯、西洋風のプリン、フランスパンなどはホイアン特有の料理である。

伽羅線香の専門店(チャフー通り26番)

ランタン専門店

ホイアンは生きている遺産であるが、その保存と生活環境改善や地域の経済開発を実施することは簡単ではない。観光の圧力で町の景観や人々の生活が変容している。2008年にホイアンの観光客向け店舗のおよそ80%がテナントであり、その借主や従業員の約85%は旧市街地出身者でも在住者でもないのである。このような傾向により、ホイアンはフェイクタイプの建物やお土産が増加し、特有の文化価値とその伝統継承を失う危機に直面している。また、2019年にホイアンで迎えられた観光客数は250万人だったが、2020年と2021年はコロナ禍で80%も減少した。今後、コロナ後の対策や、生きている町の保存と開発を両立するために、ホイアン市が遺産の本来の価値と魅力を正確に認識し、適切な開発政策を行うべきである。

【参考文献】

1.内海佐和子「観光地化に伴う景観の変化とコントロール」、藤木庸介編『生きている文化遺産と観光』学芸出版社、2010年

2.菊池誠一『ベトナム日本町の考古学』高志書院、2003年

3.桜井清彦、菊池誠一編『近世日越交流史 日本町・陶磁器』柏書房、2002年

4.日本ベトナム研究者会議編『アジア文化叢書・10:海のシルクロードとベトナム』穂高書店、1993年

 

(ファン・ハイ・リン)

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著者略歴

  1. ファン・ハイ・リン(Phan Hải Linh)

    ハノイ人文社会科学大学東洋学部日本研究学科准教授、博士(歴史学)

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