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ギュンター・グラス(『ポーランドの歴史を知るための55章』より)

先月、ノーベル文学賞が発表され、今年はアメリカの詩人ルイーズ・グリュックが受賞した。1999年の受賞者、ギュンター・グラスはドイツ語で執筆活動を行ったが、自由都市ダンツィヒ(現ポーランドのグダニスク)の出身。映画化された名作『ブリキの太鼓』もダンツィヒを舞台に描かれているので、ご存知の方も多いかもしれない。ドイツ語作家グラスはポーランドではどのように受け止められてきたのか。ポーランド側から見たグラスについて『ポーランドの歴史を知るための55章』(2020年9月刊)の中から紹介します。

ギュンター・グラス 〜ポーランドにおける受容〜

作家ギュンター・グラス

 「第二次世界大戦後、ポーランドで最も注目を集めたドイツ語作家は誰ですか」――もしそんなアンケートをとったら、リストの上位には間違いなくギュンター・グラスの名前が挙がるだろう。

 グラスは1927年バルト海沿岸の港町ダンツィヒ(現ポーランド領グダンスク)に生まれた。中世よりハンザ都市として栄え、交通・軍事・産業の要衝だったダンツィヒは、第一次世界大戦後ヴェルサイユ条約によりドイツ領から切り離され、「自由都市」になった。住民の大半はドイツ系だったが、ポーランド系、ロシア系、ユダヤ系のほか、「カシュブ」というスラヴ系少数民族が混在していた。グラスの家系もまた多民族的かつ多文化的だった。雑貨商を営む父親はドイツ人で、宗教的にはプロテスタント、1936年にはナチス党に入党した。母親は「カシュブ」出身のカトリックで、母のいとこにあたる伯父はドイツ軍侵攻(1939年9月1日、ドイツ軍はグダンスク沿岸ヴェステルプラッテ岬のポーランド海軍基地を砲撃し、第二次世界大戦が勃発した)の折、激戦区となった旧市街のポーランド郵便局の局員で、7日間の抵抗ののち降伏し、処刑された。

 典型的な軍国少年として育ったグラスは、武装親衛隊装甲狙撃兵となり負傷、アメリカ軍の捕虜収容所で終戦を迎えた。戦後、詩作・彫刻・グラフィックアート・ジャズ演奏など多彩な活動を行う一方で、戦後のドイツ語文学の中核をなす文学者集団「47年グループ」との交流を深めた。冷戦体制が整うにつれ、西側では反共主義が濃厚となり、ナチズムや戦争に対する深い反省もないまま戦前の秩序の回復と経済復興が目指された。「47年グループ」は、そうした動向に異議を唱える作家・批評家たちが集い、議論を戦わす場となった。1958年グラスは彼らの前で『ブリキの太鼓』の一部を朗読し、グループ賞を受賞している。

ギュンター・グラス[撮影:Abuinov / CC BY-SA 3.0]

 1958年以降、グラスはたびたびグダンスクを訪れ、個人的な交流を深めた。「『ブリキの太鼓』はドイツ人だけでなくポーランド人に向けて書いた作品であり、もし自分があのままダンツィヒ/グダンスクに留まっていたなら、ポーランド語で書いたかもしれない」という言葉には、市井の人々を通して歴史を観ようとするグラスの姿勢が垣間見える。

 1950年代末から60年代初頭、『ブリキの太鼓』(1959年)、『猫と鼠』(1961年)、『犬の年』(1963年)が発表されたことにより、作家グラスの名前はドイツ語圏を超えて知れ渡った。戦前・戦中・戦後のダンツィヒを舞台とするこれらの作品は「ダンツィヒ三部作」と呼ばれる。ポーランド語訳は、『猫と鼠』(チテルニク、1963年)、『ブリキの太鼓』(政府出版協会、1983年)、『犬の年』(モルスキェ、1990年)の順であった。

 『ブリキの太鼓』は瞬く間にポーランドで3万部を売り上げた。ワルシャワ大学の学生・職員を対象とする文芸クラブで毎月開かれていた本の定期市でも、初版は250部売れた。翻訳刊行年だけを見れば、たしかに原作の出版から20年以上の歳月を要しているのだが、書評は1960年代初頭から国内の反体制文芸誌や亡命文芸誌に掲載されており、水面下の反響は大きかった。1979年フォルカー・シュレンドルフ監督により映画化されたことで、議論はますます白熱した。

 1981年グラスは文学者マリア・ヤニョンによる企画で、グダンスク大学の学生セミナーに招かれた。「歴史上の出来事をどう経験し理解するべきか」という問いに対し、グラスは歴史の運行は「神の霊(摂理)」によって導かれるというヘーゲルの歴史哲学を批判し、「宗教の世界であれ政治の世界であれ、権力はただ一つの真実、ただ一つの現実しか認めない」が、現実や真実は無数にあり、たとえ互いに重なり合い排除し合うときでさえも共存する権利をもつという自身の信条を述べている。グラスにとっては「対象への距離を生み、均衡を変えうる」皮肉の力こそ最大の武器だった。

ドイツ・ポーランドの架け橋として

 1980年代のポーランドにおいて、グラスの受容はもっぱら知識人による。彼らにとってグラスは、社会主義体制下のポーランドにおける民主化運動、とくに1980年代の「連帯」運動のよき理解者であり、支援者だった。作家アダム・ザガイェフスキはのちに当時を振り返り、1980年代ポーランドの反体制派知識人にとって、グラスはいわば「名誉反体制派知識人」だったと述べている。原語以外で彼の作品を読む選択肢が限られていた時代、それらは現実に存在する本というよりむしろ神話に近かった。ポーランドの文学者は当時「なぜ検閲機関はグラスのポーランド語訳の刊行を許さないのか」というテーマで好んで議論したそうだ(日刊紙『ガゼタ・ヴィボルチャ』1999年12月11日)。

 1990年以降、グラスの名前はポーランドの新聞雑誌にたびたび登場するようになった。旧ドイツ東部領回復運動を批判する『鈴蛙の呼び声』(1992年)は、ドイツの現状に対する「注意深い観察者・批判者」というイメージを不動のものとし、グラスの文学や言動はドイツ/ポーランドの和解の礎として受容されていった。加えて、1990年代初頭のポーランドでは、とくに辺境各地で、多民族的多文化的伝統を再生する運動が広がっていた。運動の発祥地だったグダンスクではおのずと「グラス熱」に拍車がかかった。

 1993年グダンスク市は、グラスの功績を称えて名誉市民の称号を贈った。グダンスク大学からも名誉博士号が授与された。こうしてグラスはグダンスク/ダンツィヒの作家として公認された。1999年グラスがノーベル文学賞を受賞した際、作家チェスワフ・ミウォシュ(1980年ノーベル文学賞受賞)は、グラスを「20世紀の歴史の記憶を作品に保存しようと試み、現在と過去の橋渡しをした作家のひとり」と称えた。「私たちのグラス」と題された記事では、グラスによってグダンスク/ダンツィヒが世界文学に場所を得たと記されている。

 『蟹の横歩き』が刊行された2002年、グラスの小説はポーランドで再び注目を集めた。この作品は、第二次世界大戦終結直前ドイツ避難民を乗せた大型船ヴィルヘルム・グストロフ号がロシア潜水艦に撃沈され、1万人の死者を出した事件を扱っている。半世紀以上にわたって語られず、人々の記憶からも抹消されたように見えるこの事件を、グラスは現在と過去を重ね合わせながら、世代の異なる複数の語り手を用いて繊細かつ大胆に語り紡いだ。ポーランドの新聞雑誌は、本小説のテーマが引き揚げの犠牲者の追悼よりも、ドイツ人の集合的記憶におけるタブーを複眼的に描くことにあったとし、その語りの見事さを評価した。しかし、作者らしき人物が語り手の背後からたまにチラリと顔をのぞかせる書き方は、「グラス本人の解釈を押しつけ、他の解釈を容認しない態度の表れだ」とする声もあった(『ジェチュポスポリタ』2002年3月16日)。

スキャンダルをこえて

 ノーベル文学賞を受賞した7年後、グラスは自伝『玉ねぎの皮をむきながら』(2006年)で、「戦時中、武装親衛隊に所属していた」という事実を告白した。当時のポーランドの大統領レフ・ヴァウェンサ(ワレサ)は「グダンスク名誉市民の称号を返すべきだ」と批判し、右派政党はこの告白を利用して国内の反ドイツ感情を煽ろうと試みた。しかし、ポーランドの作家や評論家の多くは、60年間グラスがこの事実を語らずにきたという事実によって、グラスのそれまでの言動、たとえば1985年のビットブルク事件(終戦40周年の記念に西独首相コールと米大統領レーガンが、武装親衛隊も埋葬されているビットブルクの軍人墓地を訪問し、物議をかもした事件)に対する抗議やファシズム撲滅をめざす闘いの信憑性を損う恐れがあると指摘しながらも、政治家の攻撃からグラスを擁護した。なかには、グラスの予期せぬ告白は「被害者としてのドイツ人」の対抗言説になっている、という指摘もあった(『ポリティカ』2006年8月19日)。たしかに1999年以降、ドイツ・ポーランド関係は対立の色を濃くしており、被追放民の急進勢力「プロイセン信託会社」の活動はポーランド世論の反発を招いた。2006年には、ドイツの「追放に反対するセンター」(2000年設立)で展示「強制された道。20世紀ヨーロッパの逃亡と追放」の準備が進んでいた。グラスの長い沈黙に対し理解を示したのがドイツよりもむしろポーランドだったという結果は、ドイツの現状に対するポーランド側の警戒心の裏返しと言えるかもしれない。

オスカルとグラスの銅像[撮影:井上暁子]

 今日グダンスク郊外のヴジェシチ地区へ行くと、小さな公園の中に『ブリキの太鼓』の主人公オスカルと、それに並んで腰かけるグラスの銅像がある。オスカル像は2002年に設置されたが、作家の像が設置されたのは2015年のことだ。これはグラスが「死後、銅像は不要」という遺言を残したせいだという。二人の銅像は雨風に晒されあちこちかなり痛んでいるが、気に留める人もいない。多民族的多文化的都市の伝統を再興するブームは去ったということだろう。難民流入やポピュリズム抬頭にゆれる今日のヨーロッパにおいては、ドイツ/ポーランドの和解の象徴としてただ称賛するのではなく、グラスのグローバルな視野の価値を見直す必要がある。

(井上暁子)

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著者略歴

  1. 井上 暁子(いのうえ・さとこ)

    熊本大学准教授。
    主要業績:『東欧地域研究の現在』(共著、山川出版社、2012年)、『東欧文学の多言語的トポス』(編著、水声社、2020年)。

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