序
わたしが死ななければならないのなら(If I must die「二〇一一年初出」)という詩がある。
わたしが 死ななければならないのなら
あなたは、生きなくてはならない
リフアト・アルアライール
(増渕愛子、松下新土 訳)
二〇二三年十二月六日、この詩を書きのこした、ガザの詩人のリフアトさんは、イスラエル軍の空爆の標的となって、殺害された。
ふしぎな縁で、私たちがこの二〇行の翻訳にあたることになったとき、「あなたは、生きなくてはならない」の「あなた」とは、うけとってくださった方——今この文章を読んでいる「あなた」のことである、という願いをこめた。
本書はその作業のつづきだ。
*
ほんとうは知っているのだ。もっと多くの人が。
パレスチナで今、何が起きているのかを。
この地上で、まさに今、大量殺戮に見舞われている人たちがいるということを。
ほんとうは、知っているのだ。
私たち自身の町の、路上で生活する人の姿から。削りとられ、要塞化する島と海の姿から。
私たちは感じている。
私たちの耳には、無数の叫びが届いている。
それなのに、私たちは、じぶん自身が滅ぼされそうになっているせいで、ときに他者の手をとることができなくなってしまう。
ある彫刻家は、「個人はみな絶滅危惧種という存在」といった。
生きているだけで、息をするだけでも必死だ、という人たちが、じつはこの社会の大半ではないだろうか。
私もその一人だ。
私は自死と戦っている。私の友だちも、家族も、自死と戦っている。私はこの戦い、この抵抗を、恥ずかしいことだとまったく思わない。
*
約一世紀にわたって、イスラエルが行なってきたのは、『滅ぼす』という言葉が、現実の形をもった暴力だ。
パレスチナを——地上にまだ存在している——それはあなたの中にもある——なにかかけがえのないものを、『滅ぼす』ということ。
いつも私にそれを教えてくれるのは、生きている痛みである。貧困であり、性の痛み、抑圧された痛み。
「わたしが死ななければならないのなら(If I must die)」という詩は、じつは、ガザのジェノサイドがはじまってから、リフアトさんが遺書のように書きのこしたものではない。
この詩は二〇一一年に、娘のシャイマにむけて、書かれたものだった。
リフアトさんにとって、「あなたは、生きなくてはならない」と呼びかけた、そのもっとも身近にいたかけがえのない存在こそが、娘のシャイマであり、彼のこどもたちだった。
二〇二四年三月二〇日。私は、ころされる前のシャイマと話し、この詩を託された。
彼女はそのあと、生後二ヶ月の赤ちゃんと、夫とともに、イスラエル軍によって殺害された。
わたしの仕事は、はっきりしている。
『生きなくてはならない』と、これを読む「あなた」に書きつづけること。
そしてガザに、そう願われて、生きていた人がいたという真実を——『回復』させること。