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「津久井やまゆり園事件」が問いかけるもの ――元職員の被告接見録にもとづく検証

19歳女性公表の背景にあるもの

2016年7月に起こった「津久井やまゆり園事件」が問いかけるものはあまりに大きく重い。優生思想、「生産性」をめぐる議論など、われわれの社会を根底から揺さぶるこの事件の思想的課題について、被告との面会記録を踏まえて検証していく。


第12回 19歳女性公表の背景にあるもの

1.19歳女性遺族の手記について

 初公判直前に19歳女性遺族の手記が公表された。何故、このタイミングなのか。その経緯は、「公判前整理手続き」にまで遡る。公判前整理手続とは、適正迅速でわかりやすい公判審理(刑事裁判)を実現するために、第一回公判期日前に裁判における事件の争点および証拠を整理する準備手続きである。裁判員制度に伴い、2005年の刑事訴訟法改訂で導入された。公判を前に、裁判所、検察官、弁護人が、争点を明確にした上で、これを判断するための証拠を厳選し、審理計画を立てることを目的とする手続きである。こうした「公判前整理手続き」の最中、美帆さん遺族は、昨年2019年11月16日、4枚の写真と成長過程に従った12枚の写真の説明を「上申書」(「写真添付報告書」)として作成して提出したのだ。検察側は直ちにこの証拠請求をした。しかし、弁護側は、「争点ではない」として同意せず、裁判所が説得もしなかったので、12月13日、裁判には証拠として出ないこととなったのである。この「公判前整理手続き」の一連の過程のなかで遺族は、事件直後から付き合いのある代理人弁護士と不和になり、新たな代理人弁護士を選定したのだ。
 事件発生の2016年10月16日、園と家族会主催の「お別れ会」が開かれ、男性2人、女性1名の計3人だけは名前も遺影もなかったが、その女性が、実は、美帆さんなのである。被告は、女性が入居する東棟1階「はなホーム」の窓ガラスを割って園に侵入したが、その居室にいて《最初の犠牲者》が、美帆さんなのである。この事実に驚かされる。遺族が住所・氏名を出さなかったのは、いわゆる「メディアスクラムが恐ろしかったこと、何より世の中には怖い人がいることを実感し、とても心配だったから」だという。「障害のことを知られたくないから匿名にしたのではない」のである。遺族は、裁判で被告の責任能力や有無程度とか量刑を定めれば足りるものだとは考えてはいない。被告人の考えそのものを、社会や国においても論ずる契機として克服してほしいと強く念願している。そのため、「甲A」には名前も人生もあるのだということを示す必要があり、何よりも遺族として、美帆さんの「生きた証」を残したく、写真と説明書を公開したのである。遺族は、「裁判員や被告人にも見てもらい、美帆のこと、美帆が一生懸命生きていたことを知ってほしかった」のである。
 遺族が匿名を望むのは様々な理由があり、決して一言で片づけられる問題ではない。偽名で葬儀をした遺族もいるし、施設に預けていることを近所に公表していない遺族もいる。だが、美帆さん遺族は、敢えて名前を公表する決断をしたのである。遺族の手記にはこう綴られている。

2.報道が司法を動かす

 「津久井やまゆり園には、事件の4か月ほど前に入所しました。何か所か見学した中で、やまゆり園の方だけが『今度は娘さんを連れてきてくださいね』と言ってくれ、本人を尊重してくれるように感じて決めました。事件後は、誰に言われるわけでもないけれど、『私があそこに決めなければ』と、いまも自分を責め続けてしまいます。娘は成長するにつれ、落ち着いて過ごせるようになり、多くのいい先生や友達に恵まれました。障害ゆえに本当に大変な時もありましたが、その分、何かできたときの嬉しさは倍増し、信じて待つことの大切さも教えてもらいました。何より、嘘偽りのない笑顔に助けられてきました。そんな思いで育ててきた娘を『不幸をつくる』と勝手に決めて奪われたことに、やり場のない思いを抱えています。全然、不幸なんかじゃなかったのです。娘が私のもとにうまれてくれて本当に幸せでした」。「美帆は一生懸命生きていました。その証を残したいと思います。恐い人が他にもいるといけないので住所や姓は出せませんが、美帆の名を覚えていてほしいです。どうして今、名前を公表したかというと裁判の時に『甲さん』『乙さん』と呼ばれるのは嫌だったからです。話しを聞いた時にとても違和感を持ちました。とても『甲さん』『乙さん』と呼ばれることには納得いきませんでした。ちゃんと美帆という名前があるのに。どこに出しても恥ずかしくない自慢の娘でした。家の娘は甲でも乙でもなく美帆です」。
 裁判直前になって報道陣に公表された「美帆さん」という名前は、日本社会を驚嘆させ、司法をも突き動かした。そして裁判所は、「美帆さん」という名前を公表するという判断をしたのである。いや、むしろ、それを認めなければ批判されるという判断になったからではないかと思われる。

3.主権の締め出しの構造による「匿名審理」

 代理人弁護士によると「公判前整理手続き」において「フルネイムか匿名か」と問われ「お母さんは名前の『美帆』さんを希望していたが認めないとのことであった」という。すなわち、二者択一を迫られ、名前だけの公表は認められなかったのである。法の外に追いやり、法の及ばない境界を設け、排除したものを合法的に置く。これは「主権による締め出しの構造」に他ならない。法権利のなかで法権利を守られているように見え、法権利から置き去りにされ、法的政治的に宙吊りにされたのである。匿名と称して、記号としてしか扱われていない今回の異例の事態に困惑する。裁判を傍聴しても、年齢も性別さえもわからない。犠牲者は甲、被害者は乙、職員は丙と記号化されアルファベッドが割り当てられる。何故、そうなるのか。司法の説明によると「被害者特定事項秘匿制度」があるからである。「被害者特定事項秘匿制度」とは、2007年の改正刑事訴訟法で新設された。性犯罪被害者の保護を目的とするが、「被害者や遺族の名誉または社会生活の平穏が著しく害される恐れがある事件」にも適用されている。つまり、「氏名及び住所その他の当該事件の被害者を特定させることとなる事項」(刑事訴訟法290条の2第1項)である。だが、面会時に被告自身に確認すると起訴状には実名が記されていたという。起訴状に犠牲者の名前があるか否かも重要な争点になる。刑事訴訟法256条3項には、「公訴事実は、訴因を明示してこれを記載しなければならない。訴因を明示するには、できる限り日時、場所および方法を以て罪となるべき事実を特定しこれをしなければならない」と規定されている。公訴事実とは、起訴状に訴因として明示される犯罪事実のことである。訴因とは、検察官の主張する具体的な犯罪事実のことを指す。訴因は、裁判所が審理判断する対象範囲と、被告人の防御の範囲を特定する機能をもっている。これを実現するためには、実務上は、被害者の氏名も起訴状に記載することが必要とされているのだ。仮に被害者の氏名を記載しなかった場合は、起訴状に不備があるとして公訴棄却が言い渡され(刑事訴訟法338条、同339条)、裁判が打ち切られたり、上級審に進んだとしても一審に差し戻される可能性もある。
 法廷内のモニターは被害者家族や被告、裁判員には見えるものの、傍聴人には見えない。傍聴席には、白い遮蔽板(パーテーション)が設けられ、遺族や被害者家族らが他の傍聴者から見えないようになっている。出入口も他の傍聴者と分けられている。裁判所までの移動も地検のバスを使い、一般傍聴者と報道関係者らと接触しないようにする配慮がされている。これは、刑事訴訟法157条の3に基づくものである。「秘匿」は、被害者の申し出により裁判所が判断する。最高裁の統計によると、2009~2018年に秘匿が認められた被害者は3万8929人。一方で、秘匿が認められなかったのは562人である。今回の事件でも、美帆さん含む2人を除いて大半が匿名を希望し、横浜地裁は「秘匿」を決定したのだ。これが、いわば「主権の締め出しの構造」による「匿名審理」となった経緯である。遮蔽板の向こう側には何が見えるのか。大勢の被害者家族が席についていることを想像する。関係者によれば、1月8日の初公判は28人であったが、10日の2回目の公判は8人、15日の3回目は6人、4回目の1月16日は3家族5人、そして17日の5回目は7人である。初公判時に新たに発表された裁判日程は20日間に及び、遺族らがそのすべてに参加するのは身体的にも精神的にも容易なことではない。検察側の後ろの席には遺族の弁護士が大勢座っているが、裁判に参加する遺族は、そのほとんどが弁護士に任せており、初公判を除いては、そう多くはないのである。津久井やまゆり園職員には、特別席が一席割り当てられている。園の職員はローテーションで毎回裁判所に足を運んでいるという。初公判時に新たに発表された裁判日程は20日間。初公判では、26席に対し1944人の希望者が詰めかけ、倍率は約75倍であった。そのうち、3分の2が報道機関のアルバイト、3分の1が関係者であることは想像できる。裁判傍聴という『掟の門』は、狭き門である。

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著者略歴

  1. 西角 純志

    1965年山口県生まれ。専修大学講師(社会思想史)。津久井やまゆり園には2001年~05年に勤務し、事件の犠牲者19人のうち7人の生活支援を担当した。被告とは、2017年9月以降、手紙のやりとりをし、これまで10回以上接見している。著書に『移動する理論――ルカーチの思想』(御茶の水書房、2011年)、『開けられたパンドラの箱』(共著、創出版、2018年)などがある。

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