コラム 「正しい」情報とは何か
ここまで、マイノリティの「つながらない権利」を保障するには、情報の正確性が欠かせないと書いてきたが、「正しい」情報とは何なのか、この連載の終わりを前に考えてみたい。
私は、情報発信における科学的な正しさを大事にし続けている。それはこれからも変わらないだろう。サイエンスコミュニケーションをやる以上、そこを欠いてはならない。
その上で、科学的に正確であるからそれが「正しい」情報であるとは言い切れない現実がある。
医学書や難病の解説のみで、アルビノ(眼皮膚白皮症)を完全に理解するのは不可能だ。実際には医学的には望まれるケアを個々の事情で回避したり、あるいは一部受けなかったりするからだ。
当事者はアルビノという属性だけで構成されているのではなく、他にやりたいことも人生において大切にしたいこともある人間だ。病気と付き合っていく上で、病気への対処のみに専念しなければならない場合もあるが、そうしなくてもいいのならそれ以外の要素を入れた人生を歩みたい。
しかし、そのような人生の実態は医学書には載っていない。
科学的に正しいアルビノの情報なら、「難病情報センター」というwebサイトに載っている。だが、それは科学的に正しいけれど、アルビノに関する正しい情報ではない。科学的に正しい情報を作るにあたり、切り捨てられた事実は存在する。
例えば、アルビノの人の目の色。実際には難病情報センターに記載された以上に多様な目の色をした人がいる。髪の色だって同じことだ。色素が薄い、あるいはないと書くけれど、色みも違えば、成長に伴って色が変化する人もいる。
そんな事実は、「科学的に正しい情報」には含まれていない。
なぜそうなるのか解明できていない部分があること、また科学的には不要と考えられた可能性があることなどが「科学的に正しい情報」から切り捨てられた理由として想定できる。アルビノは症状に幅のある疾患なので、それを考えるとより一般化しなければならないのも納得できる。
でも、その情報を「正しい」としてしまえば、記載されなかった状況の人々は存在がなかったことにされてしまいかねない。記載がなくても、存在している。真実がある。
そのことを忘れて、「正しい」情報を考えるのはよくない。
また、正しいとされる情報が過度な不安や恐怖を煽る結果を招くこともある。人は未知のものを怖がり、遠ざけようとする。それ自体は自然な反応だが、適切に怖がることを妨げる発信もあり、パニックを誘発している。
マイノリティに関する情報発信も方法次第では、「何か失礼なことをしてしまうかもしれないから関わらないようにしよう」という意識を生みかねない。
マイノリティに理不尽への怒りを表明するなと言うのではない。しかし、知らないからどうすればいいかわからないと困惑する相手に、知らないことを責めたら逃げ出すだろう。わからないままに怒りを向けられるのは誰だって怖い。私も逃げる。
説明するコストをマイノリティが払わされるのも理不尽ではあるが、正しくないと怒られたら逃げ出したいのも人だろう。逃げてしまえるのも特権なのはその通りだが、情報発信のやり方を見直すべきなのも揺るぎない事実だ。
情報はただそこにあるのではない。作り手がいて、受け手がいる。
発信する際に科学的に正しくても、それがそのまま正しいとは限らない。受け取る側ことや誰のための情報か吟味することも大事だ。
受け取る側の状況もある程度加味してこそ、「正しい」情報が作れるのだろう。