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【アーカイブ】高井ゆと里×能川元一×堀あきこ×松岡宗嗣「トランスヘイト言説を振り返る」

素朴な疑問は素朴ではない~トランスヘイト言説に触れたら~ 高井ゆと里

 この記事は、2023年9月8日にwezzy主催で行われた、「トランスヘイト言説を振り返る」というイベントにて高井ゆと里から報告した内容を簡単にまとめたものです。当日は短い時間(10分ほど)でざっと話したものですが、記録としてここに残します。

 記事の構成は以下の通りです。

(目次)
1. 素朴な疑問は素朴ではない
2. なぜヘイトなのか?
3. ヘイト的な質問に触れたら

初出:wezzy(株式会社サイゾー)


記事1(周司あきら) 高井ゆと里×能川元一×堀あきこ×松岡宗嗣「トランスヘイト言説を振り返る」出演者発表
記事2(高井ゆと里) 高井ゆと里「素朴な疑問は素朴ではない~トランスヘイト言説に触れたら~」
記事3(周司あきら) 高井ゆと里×能川元一×堀あきこ×松岡宗嗣「トランスヘイト言説を振り返る」クロストーク


1. 素朴な疑問は素朴ではない

 最近、トランスジェンダーについて話題にする人が増えました。そのなかには、一見すると「素朴な疑問」や「素朴な不安」のかたちをとっているものも多くあります。しかし、そうした「素朴さ」を文字通りに受け取ることはできません。なぜなら、そうした「疑問」や「不安」が簡単に口に出されている現状、つまり言葉として発信されている現状には、おびただしい背景が存在しているからです。問われるべきは、まさにその背景です。

 次のスライドを見てください。

素朴な疑問は素朴ではない~トランスヘイト言説に触れたら~の画像2

 乱発される「素朴な疑問」に、いくつもの背景があることを描いてみました。紫色の矢印は、そうした「疑問」を生み出している背景的な要素(かんたんに言えば原因)だと理解してください。ここでは、それらを4つに分けています。とはいえ、厳密にこれらを線引きすることはできませんから、便宜的な区別だと思ってください。

差別的偏見:

 1つ目の背景要素は「差別的偏見」です。ただしこの言葉も、ここではかなり緩やかな意味で使われていると思ってください。たとえばトランスジェンダー女性という言葉を聞いて、スカートを履いた大男のようなイメージを思い浮かべる人は多いです。実際には、トランス女性にはさまざまな人がいて、当然なかには子ども(トランスガール)もいるわけですが、そうした多様なトランス女性たちの状況は、そこではすっ飛ばされることになります。

 他にも、誰かがトランス女性であると知ったときに、すぐにその人の外性器がどうなっているのか詮索しようとする人は多くいます。それは、トランス女性という言葉や概念が、陰茎(ペニス)の存在と直結するように、頭のなかの連想ゲームができあがってしまっているからです。あるいはトランス男性について、「せいぜいスカートが嫌な女の子でしょ」くらいの認識で止まっている人も、この社会にはまだまだいます。

 このように、「トランスジェンダー」という言葉・存在に対しては、トランスの人たちの多様な現実を無視した、おかしな連想ゲームが働いてしまうことがよくあります。しかもその連想ゲームは、現在の社会で周縁化されがちなトランスジェンダーという集団にとって、明らかに不利になるよう機能しています。トランスに対する社会的な周縁化や構造的抑圧を後押しし、是認するような偏見が、世の中にはびこっているということです。

 そのような差別的偏見は、なぜ世間に流通しているのでしょうか。それは、そもそもトランスの人たちが社会的周縁化や構造的抑圧のターゲットにされているからです。自分たちの状況をただしく伝える機会を奪われ、マジョリティの思い込みと適当な解釈にさらされ、実態からかけ離れたイメージだけが流通してしまうように、はじめから世の中ができているから――つまりこの社会がトランス排除的にできているから――、そうした差別的な偏見が流布してしまうのです。つまりここには、循環があることになります。構造的な排除・抑圧が、差別的な偏見の流布を可能にし、そうして流布した差別的偏見が、今度はその構造的な排除・抑圧をますます強めてしまうという循環です。

 そして、ここからが重要なのですが、いま「素朴に」発信され、「素朴に」語られている「疑問」や「不安」には、しばしばそうした差別的偏見が大量に流れ込んでいます。

合理性の否定:

 2つ目の要素は「合理性の否定」です。これは、トランスジェンダーの人たちを「合理性のない存在」として解釈し、そのような存在として一方的に想定することを指します。

 ここでは、二つのことを同時に理解しておく必要があります。一つは、トランスジェンダーの人たちは確かに数が少なく、トランスジェンダーではない人たちとは「違っている」面があると言うことです。

 典型的には、出生時に指定された性別に沿ったアイデンティティを形成していなかったり、そうして指定された性別にありがちな身体の特徴に、苦痛や違和を経験したり、結果としてそのいくつかを人工的に変えたり、また生きていくうえでの生活上の性別を変えたりします。これは、世の中の圧倒的なマジョリティであるシスジェンダーの人たちとは「違っている」ことです。

 しかし、もう一つ忘れてはいけないことがあります。それは、トランスジェンダーの人たちは、それ以外の点ではただの人間だということです。もちろんトランスであることによって、就学や就労、人間関係の形成をはじめ、人生の道行きが大きく変わってしまうことはあります。しかし、人生や生活のさまざまな状況で、そのつど自分にとって最善の・合理的な判断を下そうとしているという点では、トランスではない人と違いはありません。あるいはより正確に言えば、トランスの人たちがそのように自分にとって最善の・合理的な判断を下そうとしていないと想定することには、なんらかの不当な操作が働いているはずです。

 例えば、世の中の多くの人は、車で買い物に行ったり、電車で遊びに行ったりするときに、周囲の人とトラブルになることを望んでいません。移動をする、買い物をする、遊ぶといったそれぞれの目的(行為)にとって、「周囲とトラブルになること」は、その目的の達成をいちじるしく遅らせてしまうからです。もちろん、偶然トラブルに巻き込まれることはありますし、ときにはそれは避けられないことです。しかし、基本的にはそれは望ましいことではありません。他方でまた、煽り運転を繰り返すなどして、自分からよくトラブルを起こす人もいます。しかしそれは、少なくとも標準的に想定されるタイプの人ではありません。

 にもかかわらず、トランスジェンダーとなると、トランスの人たちを「トラブルを起こしても平気な人たち」とか、「自分にとって最善の・合理的な判断を下そうとしない人たち」といった仕方で、一方的に想定するといったことがしばしば起きています。繰り返しになりますが、意図せずトラブルに巻き込まれることは誰にでもありますし、トラブルを起こしがちな人も、世の中にはいます。しかしそれは、トランスジェンダーだろうがシスジェンダーだろうが、同じことです。むしろたいていの場合、私たちは自分にとっての重要なことがら・生活や人生の目的をもっとも効率的に追求できる選択肢をそのつど判断しようとしています。これが、合理性ということです。

 いま、トランスジェンダーという集団を念頭において「素朴に」口に出されている、「疑問」や「不安」のなかには、そもそもトランスの人たちをそのような合理的存在とは見なさないことによって可能になっているものが多くあります。つまり、トランスジェンダーという集団に対する「合理性の否定」が、乱発される「素朴な疑問」の背景として機能しているということです。

誤解・無理解:

 「素朴な疑問」が乱発されることの背景的要素、3つ目は「誤解・無理解」です。これはそれほど難しいものではなく、単純にトランスの人たちがどんな人たちで、どんな風に生きているかを理解していない、あるいは誤解している、ということです。

 ただ、そうした誤解や無理解は、依然としてニュートラルなものではありません。なぜなら、そのような誤解や無理解は、先ほど説明したような、トランスジェンダーの人たちについての情報の流通に圧倒的な偏りがあるという、そのような差別的な社会のありかたに由来している面があるからです。そのような情報の偏りは、文化的剥奪と呼ぶこともできるでしょう(ただしこの名称にはとくに意味はありません)。現在の日本は、まだまだこの文化的剥奪を埋め合わせなければならない段階にあります。

 すぐに分かると思いますが、そのような文化的剥奪に由来する、トランスの人たちに対する誤解や無理解が、昨今乱発されている「素朴な疑問」にはたくさん流れ込んでいます。これはつまり、そもそもトランス排除的に設計され、維持されてきた社会における、トランスジェンダーの文化的剥奪が、「素朴な疑問」の背景として機能しているということです。

知りもしないことに首を突っ込んでもいいという雰囲気:

 背景的な要素、最後は「知りもしないことに首を突っ込んでもいいという雰囲気」です。こちらも、文字通りの意味で理解してください。私たちはふつう、自分の知りもしないことは簡単に口出しをしないようにしよう、と考えます。間違ったことを言えば恥をかくかもしれないし、適当なことを言って誰かを傷つけたいとは、誰も思わないからです。

 しかし昨今のSNSでは、トランスジェンダーのことについて、知りもしないことに首を突っ込んでもいいという雰囲気が形成されています。そうした雰囲気は、そもそもトランスの人たちに対する差別的な偏見があったり、トランスの人たちの現実に対する誤解・無理解があったりするから生まれているのですが、それだけでなく、トランスジェンダーに絡めた冗談や軽口がたくさん振りまかれ、拡散されるということによっても広まっています。

 例えば、「俺も心が女だから女子大に入学しちゃおっかなー」といった発言は、誰がどう見ても、その発話者の真意(本気の思い)を表現してはいないわけですが、こうしたトランスジェンダーを念頭においた冗談が量産され拡散されることによって、トランスジェンダーにまつわるトピックに軽々しく口出しをしてもよいのだ、という雰囲気が醸成されていきます。それは当然、そうした発言によってどのような差別構造が維持され、どのように当事者の人たちが傷つくことになるのか、といったことを不可視化していきます。

 現在、トランスジェンダーにまつわることで「素朴な疑問」や「素朴な不安」が乱発されていることの背景には、そのような「知りもしないことに首を突っ込んでもいいという雰囲気」が存在しています。「ほかの人もどんどん発言しているし、自分も適当に思いついたことを書いて発信してもいいや」という仕方で、ほんらいは慎重に扱い、慎重に考えるべきトピックを、軽んじる人たちが増えているのです。

 ここで再び、先ほどのスライドを見てみます。

素朴な疑問は素朴ではない~トランスヘイト言説に触れたら~の画像3

 今度は、赤い矢印に注目してください。これは、「素朴な疑問」が乱発されることによって、トランスジェンダーについて知りもしないことに首を突っ込んでもいいという雰囲気がますます増幅してしまっていることを表現しています。

具体例への応用:

 ここで、具体例を通して、この構造を確認してみます。次のスライドを見てください。

素朴な疑問は素朴ではない~トランスヘイト言説に触れたら~の画像4

 「女湯でペニスを見たくないのですが?」という「素朴な疑問」を例に挙げてみました。もちろん、こういうことを平気で他人に向かって口にする人とは会話を打ち切ってかまわないと思うのですが、今回はこうした発言にどのような背景があるのか、考えるために持ってきました。

 こうした「素朴な疑問」あるいは「素朴な不安」には、先ほど説明した4つの背景的要素が、互いに絡み合いつつ機能しています。

 第一に、こうした「女湯とトランスジェンダー」についての発言は、トランスジェンダーの権利回復や、LGBTに関連する法律が話題になっているときに、突然やってきます。トランスジェンダーの人たちがこの社会でどのような困りごとを抱えているのか、どのような法制度によってその困りごとは解消できるのか、諸外国ではどのような取り組みがされているのか……。そうした議論にいきなり割って入るのが、この「素朴な疑問」です。

 なぜこのような「割り込み」が平気でなされるかというと、トランスジェンダーの人たち、この事例ではトランス女性の人たちの存在を、すぐに「陰茎(ペニス)」の存在と結びつけるという「連想ゲーム」が働いているからです。そして、日常生活におけるほぼすべての時間において、私たちには他人の外性器を目視する機会がない一方で、そのほとんど唯一の例外が公衆浴場だからです。つまり、「トランスジェンダーと言えば性器!」という軽薄な「連想ゲーム」を、「性器と言えば公衆浴場!」というもうひとつのマジカルバナナと組み合わせることで、この「素朴な疑問」は生まれています(……「マジカルバナナ」の意味が分からない方には、すみません)。

 トランスの人たちを、生活する生身の人間として考えることをせず、マジョリティが蓄えた文化的な慣行に従って「連想ゲーム」の材料におとしめることを、この記事では緩やかな意味での「差別的な偏見」と呼んできました。「女湯でペニスが……」というタイプの「素朴な疑問」には、そうした差別的な偏見が背景として機能していることになります。

 この「素朴な疑問」の背景には、トランスの人たちに対する誤解・無理解もあります。そもそも、トランスジェンダーは現在もっとも公衆浴場を利用しづらい集団のひとつです。もちろん、すでに移行後の性別にさまざまな水準で適合している人は、移行後の性別のお風呂をすでに使っているのですが、そうした人はどちらかと言えば全体では少数派です。

 他方で、現実にはどうなっているかというと、例えばトランスジェンダーの人には、ほかの人と身体の特徴が違うため、生活上の性別に沿った浴場を使うこともできず、かといって生活上は性別移行をしているために出生時に割り当てられた方の性別のお風呂は選択肢になり得ない、という人がいます。あるいは社会的には性別移行をしていない人であれば、ほんらい「異性」である(同性ではない)はずの集団との入浴は耐えがたいという理由で、お風呂に入らない人も多くいます。もちろん、社会的な性別移行が進んでいない状態で、出生時に割り当てられた性別ではない方の性別の浴場に入るなどということは、選択肢として浮上しようがありません。

 そうしたお風呂の困難は、さまざまな形で浮上します。例えば学生寮に入っていて、浴室が共同であるため入浴ができない、というトランスの学生がいます。水道の蛇口で髪をずっと洗っていたというエピソードは、たまに聞くもののひとつです。修学旅行も、お風呂という困難が理由で、トランスの子どもたちが教育・交遊の機会から排除されてしまう代表的な場面のひとつです。ほかにも災害時の避難にあたって、避難所の浴室を使えないという判断から「避難しない」という選択をせざるを得ない人もいます。ちなみに観光で温泉宿に泊まる場合なら、家族風呂や個室風呂を借りるか(多くは有償)、宿の人と交渉して30分~1時間だけ大浴場を貸し切りにするなどの合理的配慮を受けるか、あるいは自分はお風呂に入らない、といういずれかを選択している人が多くです。とはいえ、トランスジェンダーという集団は圧倒的な経済的剥奪に苦しめられていますから、温泉宿に泊まるという選択肢自体がない人も、少なくありません。

 観光目的の温泉宿なら深刻さは低いかもしれませんが、学生寮や修学旅行、避難所での浴室利用の困難は、大きな不利益をトランスの人たちにもたらしうる問題です。とはいえ、ここではひとまず「トランスジェンダーはそもそも公衆浴場から排除されがちな集団である」という事実を覚えておきましょう。

 さて、先に挙げた「女湯にペニスが……」という「素朴な疑問」を発信している人は、こうした現実をどれくらい知ったうえで、その話をしているのでしょうか。トランスジェンダーにまつわる話題にいきなり割り込んで「お風呂は~」と語り出す奇妙さもさることながら、こうした「公衆浴場からの排除」をどれだけ理解して、そうした「疑問」を出しているのでしょうか。

 「トランスジェンダーとお風呂」は、決して矮小な問題でも、どうでもよい問題でもありません。子どもの教育の機会や、命と尊厳、健康に関係する問題です。そうしたことをまじめに考える用意は、あるのでしょうか。残念ながら、「女湯にペニスが……」と言っている人たちには、その用意がないでしょう。なぜならそれは、トランスの人たちが現実でどのような生活上の排除を経験しているかを知らないからこそ生まれる「疑問」であり、そのような誤解や無知・無理解がベースになっている限り、まじめにものごとを考えることはできないからです。

 「女湯にペニスが……」という疑問には、合理性の否定も機能しています。ふつうに考えて欲しいのですが、人が公衆浴場に入る理由は「清潔さを保つため」です。観光目的の温泉宿なら、ここに「疲れを癒す」とか「温泉を味わう」という目的も加わるでしょう。それらの目的は、トランスの人たちも当然もつことがあります。清潔でいたいと考えるからです。そうすると、そのような目的を果たすための最善の手段、合理的な選択を、トランスの人たちは探し求めることになります。当然、その目的の追求にあたって、周囲とトラブルになることは避けようとします。それは目的の達成を遅らせるからです。ここで、トランスの人たちがどのようにお風呂に入っているか、あるいは入っていないか、入れていないかという現実を思い出してください。現状、様々な水準での性別移行が進んでいなければ、移行後の性別の公衆浴場を使うことは困難です。それは、たんに陰茎を切ればいいというものでもありません。性差は、もっと複雑に現象し、認識されているからです。

 ですから、トランスの人たちは先に見たようなさまざまな工夫、交渉、判断、我慢をしながら生きています。自分の身体の特徴が典型的でないという理由で、望まない注目を集めたり、周囲とトラブルになったりすれば、「清潔さを保つ」という公衆浴場の利用目的の達成が困難になるからです。それが、与えられた状況のなかで自分の目的を合理的に果たそうとする、トランスの人たちの合理性です。あるいは、正確には次のように言うべきでしょう。清潔さを保つという目的を抱くにいたったトランスジェンダーの人たちが、その目的のスムーズな達成を可能にする選択肢ではなく、わざわざ周囲とトラブルになる可能性の高い選択すると想定する根拠など、どこにもないのだと。

 しかし、先の「女湯にペニスが……」という「素朴な疑問」の背景には、まさにその「合理性の否定」が機能しています。裸体にぎょっとされながら入浴したいとは思わないとか、周囲とトラブルになることを望まないといったありふれた合理性を、トランスの人たち(ここではトランス女性たち)からわざわざ剥奪することによって、この「素朴な疑問」や「素朴な不安」は生まれているのです。

 最後に、このようなひどい背景を持つ「素朴な疑問」や「素朴な不安」が、にもかかわらず乱発されてしまう背景には、知りもしないことに首を突っ込んでもいいという雰囲気が関係しています。これについては、説明は不要でしょう。

 以上で、具体例の解説は終わりです。いまや明らかなように、トランスジェンダーにまつわる「素朴な疑問」は、まったく「素朴」ではありません。それが乱発されてしまっている背景には、そもそもトランスの人たちの存在を周縁化し、構造的に抑圧する社会が生み出している、複数の要素が機能しています。差別的な偏見があり、誤解・無理解があり、合理性の否定があり、軽んじる雰囲気があります。こうした背景的な要素を無視してはいけません。「素朴な疑問」は0から生まれているのではありません。その「疑問」の発信者が、そうした背景にどれだけ自覚的であろうと、なかろうと、そのような背景からそれらの「疑問」が生み出され、乱発されている事実は否定されません。「素朴な疑問」は、断じて素朴ではないのです。

 ちなみに、ここまで読んだ方は「女装した犯罪者とトランスジェンダーの区別はどうやってつけるのか?」という「素朴な疑問」が、どのような意味で「素朴」でないか、考えてみてください(宿題)。

2. なぜヘイトなのか?

 つづいて、素朴ではないそれらの「素朴な疑問」を乱発することが、なぜヘイト言説として機能するのかを説明します。まずは次のスライドをみてください。

素朴な疑問は素朴ではない~トランスヘイト言説に触れたら~の画像5

 先ほどのスライドに、いくつか書き足しました。「素朴な疑問」に背景的な要素があることは、繰り返し書いてきた通りです。それらの要素が、トランスジェンダーという集団が被っている文化的剥奪や、トランスの人たちの合理性の不当な引き下げ、また馬鹿にして軽んじてよい雰囲気などにあることも、書いてきた通りです。それらの背景的な要素は、ようするにトランスジェンダーたちが構造的に差別を受け、社会で周縁化されているからこそ生まれているのです。ですので、つまるところ「素朴な疑問」が乱発される状況は、そうした差別や排除、抑圧や周縁化に由来しているということになります。

 そして、ここからが重要なのですが、そうした背景をもった「素朴な疑問」が乱発されることは、今度はまた、そうした背景において前提とされてしまっている事実誤認や、差別的な偏見、合理性の棄損などを、あたかも事実であるかのように見せかけるよう機能します。それだけでなく、それらの背景がそもそも差別的な構造にあることを不可視化する(分からなくさせる)ように、機能します。

 ここでも「女湯にペニスが……」という「素朴な疑問」や「素朴な不安」を例にとってみましょう。こうした「疑問」や「不安」が、あたかもまっとうな疑問や不安であるかのように乱発されることは、どのような結果をもたらすでしょうか。

 第一に、LGBTの関連法制や様々な領域における差別解消の取り組みは、結局は「お風呂に関係することだ」という思い込みが、広がります。トランスジェンダーと言えば性器!性器と言えばお風呂! という連想ゲームが、固定化されていくわけです。今年の6月、LGBT理解増進法に絡めてずっとお風呂の話をしていた人たちは、このような稚拙な連想ゲームを繰り返し、同じ話をし続けることで、それがあたかも真実味のある連想ゲームであるかのように演出していたわけです。

 誤解・無理解についても同じです。ひとたび「女湯にペニスが……」というタイプの「素朴な疑問」や「素朴な不安」が拡散されてしまえば、トランスの人たちが実際にはどのように公衆浴場から排除されているか、といった現実には誰も興味を持たなくなります。多くの人が興味を持つのは、「そんな未来が来るのは怖い」という想像上の(空想上の)未来でしかなく、トランスの人たちが置かれている(しばしば非常に過酷な)現実など、興味の対象から外れていくからです。こうして、現実に存在しているトランス排除的な社会の仕組みは不可視化され、温存され続けます。

 合理性の否定も、同様です。そしてこれが、もっとも危険でもあります。トランスの人たちにまともな合理性を帰属することをせず、その合理性を不当に引き下げることによって生まれる「素朴な疑問」や「素朴な不安」が乱発される環境は、次第に「トランスジェンダーの奴らはこんなにも荒唐無稽なことを要求している危険な集団だ」という思い込みを強化させていきます。たとえそれが、トランスの人たちが実際に求めている社会変革や合理的配慮とはかけ離れていたとしても、合理性の否定に基づく「疑問」や「不安」が繰り返し口にされることを通じて、「どうやらあいつらはこういう世界を望んでいるらしい」とか「どうやらあいつらはこんなにも常識が通用しない奴ららしい」という身勝手なレッテル貼りが、真実味を帯びてくるのです。

 そうして、トランスジェンダーという集団に対する敵意が醸成されていきます。そしてその敵意は、すでにこの社会に満ちているトランスジェンダーへの憎悪にお墨付きを与え、トランスの人たちが求める社会変革をあらゆる領域にわたって否定するための原動力へと変換されていきます。ヘイトが増幅するということです。

 かくして、「素朴な疑問」や「素朴な不安」の乱発は、最終的にヘイトの扇動としての機能をもつことになります。トランスジェンダーに対する差別的な偏見に真実味を与え、偏見を強化し、すでにある構造的な排除や差別を覆い隠し、憎むべき敵としてトランスの人々を指さすとともに、すでにあるトランスジェンダーへの蔑視や憎悪をますます扇動していきます。言ってしまえば、それらはヘイトスピーチとなってしまうということです。

 トランスジェンダーにまつわる「素朴な疑問」や「素朴な不安」に、安易に同調してはいけない理由がここにあります。実際には、上のスライドで描いたような全体的な構図を意識している人など、ほとんどいません。しかし、あなたの「素朴な」思いや、あなたが「素朴に」発した一言は、このような危険な構図のなかで生み出されており、そしてこのような構図のなかで、ヘイトの扇動としての機能を果たしてしまいます。それは「素朴に」生まれたわけでも、「素朴に」消えていくわけでもありません。憎悪や差別から生まれた「素朴な疑問」は、差別を再生産し、憎悪を加速させ、敵意を増幅させるためのパーツになっているのです。

3. ヘイト的な質問に触れたら?

 これまで、トランスジェンダーにまつわる「素朴な疑問」や「素朴な不安」がどのように「素朴」ではないか、そして乱発されるそれらの言葉がどうしてヘイト言説として機能するかを説明してきました。しかし、そうしたヘイト言説は今の日本ではありふれたものになってしまいました。ここ数年での変化です。

 そうしたなか、本書でも例に挙げたような「素朴な疑問」を身近な人が口にするようになって困っている、という人も多いことでしょう。そうしたときには、どうすればよいのでしょうか。次のスライドを見てください。

素朴な疑問は素朴ではない~トランスヘイト言説に触れたら~の画像6

 「素朴な疑問」を口にするようになった友人・知人に対して、どのように対応すればよいのかは、最終的にはそれぞれの関係性や相手の状況によります。ですので「こうすれば解決」という処方箋は、存在しません。そんなものは絶対にありません。

 しかし、これまで書いてきたような構図を頭に入れておけば、できることはおそらく増えるはずです。まずは、「素朴な疑問」がいったいどのような前提から生まれたものであるのか、その友人・知人に確認してみるとよいでしょう。その種の「疑問」や「不安」は、これまで見てきたように差別的な偏見や合理性の否定、誤解・無理解に由来しているわけですから、そのような背景を確認し、指摘してみるというのはひとつの手段かもしれません。そこに差別的偏見が(つまり不当な「連想ゲーム」が)混入していないかどうか、合理性の否定がなされていないかどうか、誤解や無理解がないかどうか、丁寧に見ていくとよいでしょう。

 大切なのは、「素朴な疑問」を「素朴な」ままにしておかないことです。だいたいにおいて、こうしたことを口にする人は「なんとなく心配」だったり「なんとなく疑問」に思っていたりすることが多く、しばしば「海外では大変なことになっているらしい」などと、真偽不明の情報を前提に置いています。そうしたとき、その「海外のこと」がデマかどうかを調べるよりも前に、やるべきことがあります。それは、トランスジェンダーの人たちを取り巻く現実(現在)へと、時計の針を引き戻すことです。

 先ほども書いた通り、「素朴な疑問」や「素朴な不安」は、これから訪れるかもしれない未来の変化に対する漠然としたイメージから生まれています。そうした想像上の未来には、現実の状況を無視して、なんでも投げ入れることができてしまいます。「トランスジェンダリズムの危険性」などといったワードで憎悪の扇動にいそしんでいる人たちがやっているのは、おおかたそのような行為です。ですから、そうやってなんでも放り込めてしまう(漠然とした)未来から、時間を引き戻す必要があります。

 現在、トランスの人たちはどのような状況に置かれているのか。どのような法律があり、どのような制度があり、どのような困りごとがあるか。集団として置かれている抑圧や排除を知るためには、データを参照するのもよいでしょう。人口全体の0.5%ほどを占める一方で、失業率や貧困率が一般人口の2~3倍に上り、自殺未遂の経験率が4割を超えるような集団に対して、私たちはいったいどのような議論を進めていくべきでしょうか。

 また、そうしたデータにも表れている圧倒的な排除と差別の現実を変えるために、求められているのはどのようなことでしょうか。性別別スペースの利用だけが、話すべきテーマでないことは、すぐに分かるはずです。

 もちろん、性別別スペースの利用に困難を抱えているトランスの人は少なくなく、それは教育や就労など、生活の重要な領域からの排除に繋がりうる問題です。だとしたら、なにが必要なのでしょうか。あらゆる性別別スペースの利用基準を「性自認」を基軸としたものへと一元的に変更することで、ただでさえ弱い立場に置かれがちなトランスの人たちの困難が簡単に解消するとは、誰も考えないはずです。現在の建物や設備、そしてそれらの利用に関するルールの運用が、圧倒的にシスジェンダーの男女を基準に作られたものである以上、それらの建物・設備・ルール運用をトランスジェンダー包摂的なものへと変えていくことこそが求められる社会変革であることは、まじめに考えれば理解できるはずです。

 とりわけ、トランスジェンダーコミュニティの少なくない割合を占めるノンバイナリー・ジェンダークィアの人々にとって、シス男女のみを前提として作られた空間は、非常に利用が面倒なものです。しかし現状、トランスの人たちは各人の工夫や個人的な努力を通じて、あるいは周囲の人々との心細い交渉を通じて、自分たちの存在を想定していない社会でサバイブせざるを得ません。「性自認至上主義」といった雑なワードでは、トランスの人たちが何に困難を経験し、どのような社会変革を求めているのかは、一向に見えてこないのです。

 これまで書いてきたことを、最後に「押さえたいポイント」としてまとめておきます。

 このスライドにも書いた通り、「素朴な疑問」を口にする友人・知人に対して、その「素朴さ」を解きほぐせるようになるためには、現実社会がどのようにできているか、そしてトランスジェンダーの人たちがどのような困りごとを抱えているかを、知る必要があります。抽象的で漠然とした未来に対する「不安」や「懸念」が口にされるとき、議論を「現在」へと着地させるためには、なによりも現実を知る必要があります。

 そのために、様々な情報源を活用してください。今回のwezzyのイベントは、『トランスジェンダー問題』(ショーン・フェイ(高井ゆと里訳)、明石書店2022年)の翻訳刊行から1年、そして『トランスジェンダー入門』(周司あきら&高井ゆと里、集英社2023)の刊行を同時に記念して開催されました。オンライン上にも多彩な情報源がある一方で、議論を現実へと着地させ、そこから改めて考えるべき未来のあり方を知るために、これらの書籍はあなたの役に立つはずです。

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著者略歴

  1. 高井 ゆと里(たかい・ゆとり)

    群馬大学情報学部准教授。専門は倫理学。趣味は研究。著書に『極限の思想 ハイデガー 世界内存在を生きる』(講談社選書メチエ)。

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