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マイノリティの「つながらない権利」

問題提起編 2.当事者コミュニティの功罪(8)

当事者コミュニティのなかの人にしか心を開けなくなるリスク

 社会はマイノリティに対して特に冷たい場所だ。教育や就労をはじめとする、収入を得るために必要な営みにも、巧妙に、あるいは堂々と差別が存在する。

 特別支援学校高等部の大学進学率は一般の高校のそれより低い(参考:atGP)し、障害者の平均賃金はそうでない人々のそれよりずっと低い(参考:厚生労働省)。平均値を用いると、極端に大きな値や小さな値に引っ張られて実態とかけ離れた数値になることもあるため、収入や賃金の実態を知るには中央値を取るのが適切である。しかし、障害者の賃金の中央値は公的なデータになかったために、ここでは平均値を用いている。

 そういったことを知らない、あるいは何となく知っていて傍観しているマジョリティが大半の社会がマイノリティに優しいはずはない。

 アルビノゆえに色素の薄い私の髪の色を見て、アルバイトを不採用にした人々のなかに、自分が差別をしていると自覚していた人はほとんどいないだろう。

 「社会は冷たいし、無条件で味方になってくれる人なんかいるはずもない」と私が結論したのも、無理もないことだ。私の持つ社会に対する信頼は、ほぼゼロだ。

 生存に直結する部分だけでなく、社会にはありとあらゆる差別が存在する。

 友人だと思っていた相手が、無自覚に、あるいは目の前に当事者がいると知らずに、もしくはそれが相手を傷つけると思いもせずに、差別的なことを言う。そんなことはマイノリティの日常なのだ。

 いついかなるときも、他者からの攻撃に備える必要がある。自分の心身を守るために、警戒を怠るわけにはいかない。少なくとも私は、マイノリティとして、そういう世界を生きている。

 

 そんな日常を送っていれば、攻撃が飛んでこない、マイノリティ性について説明を求められることの少ない、当事者コミュニティは、砂漠におけるオアシスにも見えるだろう。

 前回書いたような危うさを感じることのない当事者コミュニティは居心地のいいものだ。

 居心地がいいなら、それでいいのだろうか。

 安心や安全のない当事者コミュニティは論外だけれど、快適な場を作れているからそれでよしとするのは少し軽率に思える。当たり前かもしれないけれど、マイノリティ性のある当事者の多くは、当事者コミュニティの外でも生きなければならない。参加する当事者も、運営する側も、時折忘れてしまっているように見える。

 当事者コミュニティに参加してから、当事者コミュニティの外――冷たく、優しくない社会で生きる日常に戻ると、いい気分はしない。温泉で体をあたためた矢先に、暴風雪に襲われたような落差がある。

 平然と行われる差別、それを当然のものとし、怒る人を奇異の目で見る空気。

 

 当事者コミュニティの居心地のよさを思えば、できることならずっとそこにいたい、外では生存のために最低限のことだけしていよう、と当事者コミュニティの外に対して消極的になってしまうのも頷ける。できることなら傷つきたくない。そう考えれば当然の帰結だ。

 私自身、うつ病で療養していた時期に当事者コミュニティに気持ちの多くを置いていた。ただでさえ傷ついて療養しているのに、さらに傷つきたくない。自分とマイノリティ性の近い当事者としか連絡を取らず、遊ぶ相手も当事者や関係する活動をしている人のみだった。

 意識してそうしていたわけではないのだが、自分がつらくない相手を選んだ結果、自然とそうなっていった。

 

 あの時期は私に必要だったけれど、そのままのスタンスで生きていくと別の問題が生じることを今の私は知っている。

 当事者コミュニティをはじめとした、当事者や支援者だけの世界で生きていくことは、できないし、おすすめできることでもない。収入を得るために、当事者コミュニティの外にある社会との接触が必要になるということもあるが心を許せる相手が当事者コミュニティのなかの人のみであるのは、それはそれでリスクだ。

 私は個人事業主で、複数の取引先がいる。当事者コミュニティに居場所を限定し、そこの人にしか心を許せない状態は、個人事業主で言えば、取引先を一つに限定しているようなものだ。その取引先が定期的に発注してくれているうちはいいが、そこが事業縮小を決めるなどして発注してくれなくなったら大変だ。だからこそ、私は個人事業主として常に複数の相手と取引することを心がけている。

 人間関係もそういうものだ。ここがダメになったら何もない、後がない状態はハイリスクだ。ここがダメになってもあちらもこちらもある状態なら、一つ失うことも前者の場合よりダメージが少ない。

 

 繰り返しになるが、当事者コミュニティのなかは基本的に楽だし、社会は冷たい。

 生存のためだけに仕事をして、他の時間は当事者コミュニティにずっといる、関わっている。そういう生き方も尊重されるべきものではある。でも、それが合わない人もいるだろうし、それでは共生社会から遠ざかってしまう。

 たしかに、マイノリティ性のある当事者が当事者だけで固まって、楽しく過ごす場も必要だ。しかし、そこに留まって、出てこないのであれば、「無理に共生しないで、そっちはそっち、こっちはこっちで楽しくやっていればいいよね」と考える人がマジョリティにもマイノリティにも出てくるかもしれない。

 分離と聞いて、思い出すものは人それぞれだろう。悪名高きアパルトヘイトかもしれないし、ハンセン病患者の隔離かもしれない。あるいは、障害児の分離教育のことを考える人もいるのではないか。

 当事者コミュニティでしか安心できないことは、当事者自身の生活に影響するだけでなく、分離へとつながっていく可能性をはらんでいるのだ。

 

 マイノリティ性のある当事者が社会において安心を感じられない、信頼できないのも、私は本当によくわかる。その責任の多くは、社会、そしてマジョリティの側にある。

 しかし、私は仕事を展開させていくため、人間関係のリスクヘッジのために、当事者コミュニティのみで人間関係を完結させないことを意識している。

 私には創作物を楽しむことや自身が創作をすること、ゲーム、読書、カフェ巡りなどさまざまな趣味があって、それぞれで程々の距離感の人間関係がある。

 差別的な言動に出くわすこともあるけれど、心を許せる相手に巡りあうこともある。試してみなければ、出会える確率はゼロのままだ。傷つきたくはないけれど、安全な場に閉じこもっていても味方が増えることはない。

 傷ついたら都度撤退して、休んで、傷が癒えたら新しいものを試す。そういうことも必要な営みなのだろう。

 

 当事者コミュニティは、共生社会を意識して、安心で安全な場の提供と同時に、社会に対して、団体としてだけではなく、当事者達が“開いて”いくことを考える局面に来ているといえる。

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著者略歴

  1. 雁屋 優(かりや・ゆう)

    1995年、東京都生まれ。生後数ヶ月でアルビノと診断される。高校までを北海道の普通校で過ごし、関東の国立大学理学部に進学、卒業する。卒業とほぼ同時期に発達障害の一つ、自閉スペクトラム症(ASD)とうつ病と診断され、治療しながら就職活動をする。病院勤務、行政機関勤務を経て、現在は札幌市を拠点にフリーランスのライターとして活動。科学、障害に関するインタビュー記事、ジェンダー、障害、セクシュアルマイノリティに関するコラムの他、さまざまな執筆業務を手がけている。誰かとつながることが苦手でマイノリティ属性をもつからこそ、人とつながることを避けて通れないという逆説的ともいえる現状に疑問を抱いてきた。日本アルビニズムネットワーク(JAN)スタッフ。視覚障害者手帳4級、精神障害保健福祉手帳2級。

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