問題提起編 3.マイノリティの「つながりたくない」も尊重してほしい(1)
マイノリティだからこそ、つながることを強いられている?
私には、他のアルビノ当事者と「つながる」ことを医療関係者に勧められた経験がある。当時、私は幼く、藁にもすがる思いだった保護者は、他の当事者やその家族とコンタクトを取ってみることにしたのだった。
会ってみて実際どうだったかについて、私はあまり記憶していない。ここでもまた、誰かと「仲良くならなければいけない」のだと静かに絶望したことはぼんやりと覚えている。
他の当事者とのつながりを持つことを勧めた医療関係者を責めるつもりはない。医療の立場から言えること、できることには限りがあるし、他の当事者やその家族からしか得られない情報の存在を意識していた点で、その方は広い視野を持つ医療関係者であったといえるだろう。
何らかのマイノリティ性のある子どもを育てているわけではなくても、子育ては保護者にとってわからないことだらけで、似たような状況の保護者達との交流が支えになる事実はある。ただ、マイノリティ性のある子どもを育てていて、そのマイノリティ性が珍しければ珍しいほど、「つながる」必要性は増す。
書店に行けば、数多の育児雑誌が出ているし、通信教育教材にも保護者向けの情報が載っている。幼児教室や幼稚園、保育園では子どもと関わる仕事をしているプロから、アドバイスももらえる。「ふつう」の子どもについてなら、「つながる」以外の選択肢もいくらかあるのだ。
ところが、私が生まれた当時、1995年のアルビノを取り巻く状況はそんなものではなかった。生まれてすぐには診断が出ず、どうして色素が薄いのか、どういった疾患なのかを知るために病院を巡るしかなかった。やっと得た診断名を詳しく調べようにも、書店を探し回って、分厚い医学書にたった一行の記載があっただけ。スマホどころか、インターネットも普及していない頃の話だ。
アルビノゆえに視力が低い私には育児雑誌にも母子手帳にも書いていないことが起こり、日焼け対策を理由に保育園を断られたことさえあったという。
手探りの状況で、保護者の取れる選択肢は狭まっていっただろう。こんな状況では、「つながる」ことを選んだのか、選ばされたのか、判然としない。
幼い頃だけではない。成長し、今に至るまで、状況はそこまで大きく変わっていない。
インターネットの発達で少しはましになったけれど、情報を得るには、他の当事者と「つながる」必要がどこかで出てくる。外に向けた情報発信をしている当事者コミュニティもあるが、皆そうだというわけでもない。
多くの情報から、私はずっと疎外されている。
ファッション雑誌、就職活動に向けた情報、恋愛について書かれた特集など、挙げればきりがないほどに、「私」を想定していない情報はある。
何もこれはアルビノに限った話ではない。情報が溢れている社会だなんて言うけれど、溢れているのはマジョリティ向けの情報だけだ。マイノリティ向けの情報は、相変わらず、偏在し、限られたところでのみ流通している。
そんななかで、マイノリティがよりよい暮らしをしようと思ったら、他の当事者と「つながる」しかないのだ。現状、そういうことが起こっている。
私は、「つながる」ことがいけないと言いたいのではない。でも、「つながる」か否かの選択肢をマジョリティと同程度に与えられていない現状をどうにかしなければならない、と考える。
差別とはまさに、選択肢を奪われることから始まるからだ。車椅子ユーザーはそうでない人ほど気軽に電車に乗れない現状も、障害や疾患などのマイノリティ性ゆえに居住地域が限られることも、選択肢を奪われていることそのものだ。
それらすべてを今すぐ何とかするのは実現可能性が低い。でも、「今は解決できていないけど、いずれ解決すべき問題」として意識されるべきだ。
マイノリティは「つながらない」を選べない。あるいは、選ぶと生活の質が下がるから、仕方なく、「つながる」ことにしている。そういうマイノリティがいることを忘れて、「つながる」ことを手放しに称賛するのは危ういと思う。
「つながりたい」マイノリティが「つながる」ことも、「つながりたくない」マイノリティが「つながらない」ことも、マジョリティにとっての二択と同様に尊重される必要がある。
自分で望んで「つながる」のと、そうするしかなくて仕方なく「つながる」のとでは行動は同じでも、意味が全然違う。後者の状態は問題だし、改善に向けて考えていかなければいけない。