明石書店のwebマガジン

MENU

マイノリティの「つながらない権利」

マイノリティの「つながらない権利」を再定義する

 ここまでの執筆、3人の方へのインタビューを通して、私は、マイノリティの「つながらない権利」をより深く、明確に捉え始めている。他の当事者とつながらなくても、情報面で不利益が生じない状態が実現されるべきとする主張に変わりはない。しかし、さらに現実に即した権利として提示するために、マイノリティの「つながらない権利」をここで再定義する。

マイノリティの「つながらない権利」を構成する要素

 マイノリティの「つながらない権利」は以下のような要素に分けられる。

● 他の当事者や支援者と「つながる」か「つながらない」かの二択ではなく、つながる期間やつながる頻度など、コミットのしかたを選ぶことができる

● 障害年金の受給や生活保護の受給、医療機関とのつながりなど、生存に最低限必要な「つながる」は行う

● 「つながる自由」も「つながらない自由」も等価の選択肢として存在し、選択は個人の好みくらいの重さでなくてはならない

● 「つながらない権利」を行使しても、当事者の経験による体系化されていない情報も含め、情報面での不利益が生じず、経済的に損失を招かない

 当初、「他の当事者や支援者とつながらなくても困らない環境が必要」と考えていたものの、飯野由里子さんへのインタビューで、つながる/つながらないの二択なのかを問い直すに至った。

 身近なところで言えば、休む間もなく友人とテキストメッセージを送りあっているのが楽しい人もいれば、相手のことは好ましいが自発的にメッセージを送るのは後回しにしがちな人もいる。また、ある一時期は活発に連絡を取りあっていても、数年連絡が途絶えることもあるだろう。

 つながる距離感やつながる期間にもグラデーションを持たせ、適切な距離を選ぶのも、マイノリティの「つながらない権利」だ。今、その人が求める距離感、つながり方を選択することを妨げられない権利ともいえる。

 

 人は食べなくては生きていけない。それと同様に、最低限の「つながる」を拒否することは生の放棄に等しいともいえる。マイノリティの「つながらない権利」は生の放棄を推奨しない。

 しかし、現在、生存や情報面における不利益を回避するためにマイノリティはマジョリティよりもはるかに多くつながらなければならないのも事実だ。そのため、理想とする状態が実現されるまで生き延びるために、仕方なく最低限の「つながる」を行いつつ、理想の実現を目指すこととする。

 

 どのような「つながる」あるいは「つながらない」を選んでも、そのことが情報面での不利益や経済的損失に結びつかず、個人の好みの差でしかない。そんな状況を目指している。

つながり方の選択肢をより豊かにする必要性

 また、つながり方の選択肢はもっと広く、豊かになる必要がある。

 マイノリティ同士で集まる場であっても、ジェンダー、年齢、職業、収入、障害の程度やマイノリティ性のあり方、重なり方によって、マイノリティのなかでも安心して発言できる人、できない人が出てきてしまう。マイノリティであることは同じかもしれないが、互いに違う人間であることを都度確認し、インターセクショナリティの視点を持って、場の安全性を維持する必要がある。

 それぞれに適したコミュニケーション手段も違っている。対面しなければいけない、すぐに応答できなければいけないなどと、コミュニケーション手段を限定されてしまえば、それもバリアになりうる。

 マイノリティだから皆同じなのではない。それぞれに違っていて、その違いをこそ尊重すべきなのだ。私も苦手とするところだが、マイノリティの状況を改善するために作られる場には、違うからこそ起きるコンフリクトへの対処も欠かせない。

 

 さらに、本田秀夫先生が指摘したように、マイノリティ性だけをトピックにしてつながろうとすることにも限界はある。マイノリティ性をトピックにした場に安心を感じる人もいるが、マイノリティ性がトピックだからこそ、足を運びたくない人もいる。

 マイノリティ性以外にも、好きなものでつながれる場があれば、もう少し「つながる」の選択肢は増えるだろう。

マイノリティの「つながらない権利」は、広義の情報保障

 私のマイノリティの「つながらない権利」なる発想が、対面コミュニケーションや、明確な目的のないコミュニケーションや共感を目的としたコミュニケーションからの逃避願望から始まっていることは、嘘偽りなく事実だ。

 しかし、私が個人的に嫌がっているに留まらず、マイノリティ向けの情報の少なさという不均衡な構造は存在する。私が上記のようなコミュニケーションを嫌がっている事実も、当然、尊重されるべきニーズではある。

 マイノリティに必要な情報が届いておらず、その結果、他の当事者や支援者とのつながりを選ばされている現状は、個人のニーズの問題で終わらせられるものでは到底ない。

 なお、権利獲得の過程で、マイノリティ性のある当事者同士が「つながる」ことを妨げられてきた歴史もある。マイノリティが連帯し、社会に訴えていく力を持つことを、社会はよしとしなかった。そこに抵抗し続けてきた運動があり、その成果があってこそ、私は「マイノリティばかりにつながる必要性が高いのはおかしい。マジョリティであれば回避できるものもある」と主張できた。マイノリティの「つながらない権利」は、数々のマイノリティの運動の結果、存在できるようになった発想である。

 

 マイノリティの「つながらない権利」とは、何なのか。

 それは、自分に適さないコミュニケーション手段や望まないコミュニケーションから解放されるだけではなく、自分に適したコミュニケーションの形態を選んでも、あるいは選ばなくても、情報面において不利益がなく、経済的損失がないと約束されることだ。

 私の愛読書の一つに、永田カビさんによるコミックエッセイがある。『膵臓がこわれたら、少し生きやすくなりました。』(イースト・プレス、2022年)で、著者の永田さんは自身が酒に依存した原因を分析し、コミュニケーションの不全を挙げている。

 永田さんは「立ち向かわねば…人に…コミュニケーションに…」(同書133ページ)と嫌がりながらもコミュニケーションを試みようと決意する様子を描いており、私はそのシーンが忘れられなかった。

 今の社会構造では、生存のためにやらねばならない「つながる」があまりにも多い。体系化されていない経験による情報も含め、マイノリティの生存に必要な情報が的確に届いていれば、私にも、永田さんにももっと多くの選択肢がフラットに存在したのではないか。

 永田さんの場合は、私の言うマイノリティの「つながらない権利」――広義の情報保障――が完全な解決策ではないかもしれない。それでも、嫌がっている人が生存や生活のためにコミュニケーションを強いられるシーンは、減らすべきだ。

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 雁屋 優(かりや・ゆう)

    1995年、東京都生まれ。生後数ヶ月でアルビノと診断される。高校までを北海道の普通校で過ごし、関東の国立大学理学部に進学、卒業する。卒業とほぼ同時期に発達障害の一つ、自閉スペクトラム症(ASD)とうつ病と診断され、治療しながら就職活動をする。病院勤務、行政機関勤務を経て、現在は札幌市を拠点にフリーランスのライターとして活動。科学、障害に関するインタビュー記事、ジェンダー、障害、セクシュアルマイノリティに関するコラムの他、さまざまな執筆業務を手がけている。誰かとつながることが苦手でマイノリティ属性をもつからこそ、人とつながることを避けて通れないという逆説的ともいえる現状に疑問を抱いてきた。日本アルビニズムネットワーク(JAN)スタッフ。視覚障害者手帳4級、精神障害保健福祉手帳2級。

閉じる