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マイノリティの「つながらない権利」

問題提起編 2. 当事者コミュニティの功罪(2)

心理的安全性の確保された居場所が持てる

 マイノリティは日々、偏見や差別にさらされている。見聞きしてすぐそれとわかるような、あからさまなヘイトスピーチだけではなく、悪意なく発される無意識の差別、マイクロアグレッションもある。

 ヘイトスピーチについては説明するまでもないだろう。「〇〇人は国に帰れ」「障害者は街に出るな」などと差別的な発言をしたりインターネットに投稿したりすることだ。ところが、マイクロアグレッションとなると、理解が難しくなってしまう。ヘイトスピーチの場合は対象者に対して悪意がある場合がほとんどだが、マイクロアグレッションの場合は褒めているつもりということも少なくない。

 例えば、アルビノゆえに色素の薄い私の容姿を「美しい」と褒める人がいた。その言葉それだけでマイクロアグレッションとは思わないが、私とその人の関係性、その言葉が出てきた文脈、後に続く言葉などの言葉そのものの外にある要素によっては、「美しい」は誉め言葉にもマイクロアグレッションにもなりうる。

 自身のマイノリティ性に対して、ヘイトスピーチをする人から離れたいと思い、そうするのは当然だ。これを読んでいるあなたが、現在自分のマイノリティ性に対してヘイトスピーチをする人と近くにいて、苦痛を感じているなら、あらゆる手段を講じて、逃げることをおすすめする。あなた自身が安心できる場所で生活する必要がある。

 しかし、マイクロアグレッションに関しては、そうはいかない側面がある。ヘイトスピーチをしないように気をつけている人であっても、それどころか、マイノリティの支援に携わる人々でさえも、マイクロアグレッションを行ってしまうことがある。これを書いている私自身にも、他人のマイノリティ性に対して、マイクロアグレッションを含んだ発言をしてしまって、“幸運にも”相手に指摘されて改めた経験がある。

 マイクロアグレッションはこれほどまでに日常に蔓延していて、それらを避けて暮らすことはほぼ不可能だ。悲しいことだが、マイクロアグレッションにまったく触れないで生きるためには、生活において他人との交流を相当少なくしなくてはならない。そんな生活を実現したい人ばかりではないだろうし、実現したくても収入を得る手段の問題などで実現できない人も多いだろう。

 結果として、マイノリティはヘイトスピーチをする人からは逃げ出せても、友人や家族、支援者、知人など、自分を気遣っていたり、生活上関わらなければならなかったりする人々から、ある瞬間に無意識にマイクロアグレッションで刺される日常を送ることになる。

 これは非常にストレスフルなのだ。概ね味方で、自分のことを支援しようと思って動いている人に対してすら、気が抜けない。マジョリティとマイノリティに見える世界は、心地よいそよ風が吹く、端に緑が植えられた歩道と、いつ攻撃されてもおかしくない戦場くらい違う。

 先ほど私自身のマイクロアグレッションを含んだ発言について指摘してもらったことを”幸運”と表現した。マイクロアグレッションを受けたマイノリティにとって、「その発言は自分やそのマイノリティ性に対して侮蔑的で、よくないものだから、改めてほしい」と伝えるのは、非常にストレスフルで、今度から相手がまったく味方になってくれなくなるのではないか、指摘で不快にさせて離れていってしまうのではないか、などの恐怖を克服しなければできない芸当なのだ。端的に言えば、怖いし、辛いし、面倒くさい。

 マイクロアグレッションを含んだ発言を指摘するよりも、相手との関わりを減らしたり聞き流したりして、相手に伝えることを諦める方が楽。私自身も含め、マイノリティがそう判断するシーンは少なくない。

 そのような現状を踏まえると、私がマイクロアグレッションを含んだ発言について指摘してもらえたのは、本当に幸運でしかない。説明すれば理解する人間で、なおかつその人にとって説明のコストをかけるに値する相手だと判断されたから、指摘してもらえたのだ。本来、他人のマイクロアグレッションを指摘するのは、ひどく疲れるのだ。

 

 ヘイトスピーチによるダメージは言うまでもなく、マイクロアグレッションによるダメージ、そして説明の面倒くささが、精神を削り取ってくる。ヘイトスピーチだけでなく、マイクロアグレッションにも取り囲まれて生きているマイノリティにとって、それが日常だ。そこではマジョリティが感じるほどの安心や安全を望んでも、実現の望みは薄い。

 マイノリティが一時的にでも攻撃されない場所に行きたいと考え、辿り着く先が当事者コミュニティだ。

 当事者コミュニティにおいては、“そこで取り扱っている”マイノリティ性に対する攻撃を受ける確率はかなり下がる。

 安心、安全に関して、「心理的安全性」なる概念が存在する。これは、ハーバード大学教授のエイミー・C・エドモンドソンが1999年に打ち立てた概念で、「チームの心理的安全性とは、チームの中で対人関係におけるリスクをとっても大丈夫だ、というチームメンバーに共有される信念のこと」と定義されている。(出典:『心理的安全性のつくりかた 「心理的柔軟性」が困難を乗り越えるチームに変える』石井遼介著、日本能率協会マネジメントセンター、2020年)

 当事者コミュニティは職場ではなく、必ずしも何かを生み出さなければならないチームではない。そのため、この概念をそのまま当事者コミュニティに適用するとずれが生じる。当事者コミュニティに適用するならば、「相手が古株だったり年上だったり、社会的に自分より優位な立場にあっても、その場にいる誰かと異なっていたり相容れない可能性があったりする意見を口にするリスクをとることができる状態」だろうか。

 多くの当事者コミュニティはこの心理的安全性の概念を意識したグランドルールを設定している。人の話を遮らない、人の意見を変えさせようとしない、差別的な発言をしない、が主に心理的安全性を意識したグランドルールとして見られる。

 これらのグランドルールが心理的安全性を極限まで高めきっているとまでは私は思わないが、当事者コミュニティの外よりも当事者コミュニティがはるかに安全な場所になるのに有効な役割を果たしている事実はある。

 少なくとも“その場で取り扱っている”マイノリティ性に関しては、当事者コミュニティの外よりずっと、マイノリティが安心できる場所が当事者コミュニティによって作られてきた。ヘイトスピーチやマイクロアグレッションといった攻撃を逃れ、一息つける場所として、当事者コミュニティはマイノリティのシェルターのように機能しているといえる。

 実際にシェルターに逃げこめること自体が逃げこむことそのものよりも、過酷な日常を生きるマイノリティの心に光を灯す。そんな側面もあるだろう。

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著者略歴

  1. 雁屋 優(かりや・ゆう)

    1995年、東京都生まれ。生後数ヶ月でアルビノと診断される。高校までを北海道の普通校で過ごし、関東の国立大学理学部に進学、卒業する。卒業とほぼ同時期に発達障害の一つ、自閉スペクトラム症(ASD)とうつ病と診断され、治療しながら就職活動をする。病院勤務、行政機関勤務を経て、現在は札幌市を拠点にフリーランスのライターとして活動。科学、障害に関するインタビュー記事、ジェンダー、障害、セクシュアルマイノリティに関するコラムの他、さまざまな執筆業務を手がけている。誰かとつながることが苦手でマイノリティ属性をもつからこそ、人とつながることを避けて通れないという逆説的ともいえる現状に疑問を抱いてきた。日本アルビニズムネットワーク(JAN)スタッフ。視覚障害者手帳4級、精神障害保健福祉手帳2級。

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