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教わることに頼らないための自学自習法

コラム:なぜ学習法が大切なのか? 努力に逃げないことを頑張る

柳原浩紀

  ここまで様々な学習法の説明をしてきたが、学習法にこだわることについて、胡散臭さをあなたは感じるかもしれない。「頑張れば何とかなる!」「できていないのは頑張ってないからだ!」「方法にこだわっている暇があれば努力しろ!」といった大人たちからかけられる言葉はあなたの心を奮い立たせるだろう。それに対して「うまくいく方法を考えよう!」というのは胡散臭い。「魔法のような学習法」でも買わされるのかも? と警戒するかもしれない。

 実際、部分的には「うまくいく方法なんて探してないで努力した方がいい!」と言える状況もある。たとえば英単語の良い覚え方をさんざん説明されても、それを実行しないのであれば、実力がつくはずがない。効率の良い覚え方なんか知らなくても、とにかく根性で繰り返していれば、覚える系の勉強なら何とかなる部分もある。もちろん、覚えることですら、分量が増えたり範囲が広くなったり、長期になったりすれば途端に通用しなくなってしまうわけだが、たとえば目前の定期試験や小テストの勉強くらいなら乗り切ることぐらいはできる。すると、眼の前の結果だけを見れば、そうした「とにかく努力が大事!」という姿勢も案外悪くないように思える。

 そして大人の側にもあなたに学習法にこだわらずに「頑張れ!!」と言いたくなる動機がある。なぜならあなたの実力がつかない理由についてあれこれ分析して解決策を探すのは本当に難しいことである一方で、激励なら多くの場合、喜ばれるからだ。一人ひとりに的確に学習法のアドバイスをするのは本当に難しい。その子が今何に困っているかを丹念に聞いていかねばならない。あるいはそもそも自分が現在行っている指導自体も、その子の今のレベルに合っているかどうかまで疑わねばならなくなる。それに比べて「頑張れ!!」は間違えることの少ないアドバイスだ。そりゃ誰だってもっと頑張った方がいいわけだから。もちろんあなたのことを本気で心配して励ましてくれる大人もいるだろう。しかし、「頑張れ!!」はハズレの少ないアドバイスでもあるので、言いやすいというのもまた、事実だ。

 こうして、「頑張れ!」「頑張ります!」という言葉のやりとりだけが続けられていく。そして、あなたは自分にとって適切な学習法を考えることから目を背けることになる。「とりあえず今の方法を続けて頑張れば大丈夫!」と思いたいあなたと、「頑張れ!」と言っておけばいいという大人との双方が、あなたに必要な学習法とは何かについて深く考えずに既存の方法で頑張ることへと、あなたを駆り立てていく。

 しかし、この結果はどうなるのだろう。

 

 ここまでの連載で書いてきたように、実力をつけるためには努力の時間や量だけではなく、その質や方向性を考えることが必要だった。「10回繰り返しても覚えられない? なら20回だ!!!」的な根性論は、勉強する科目や範囲が増えれば増えるほど、人間の時間や努力というリソースが有限であるために実現不可能になってくる。もちろん、20回やれば覚えられる場合もあるだろう。しかし、そこまでの10回の失敗の原因を分析していなければ、それは再現しようのない、ラッキーな成功でしかない。それが次もうまくいくかどうかは、かなりあやしい。

 頑張る、というのは魔法の言葉だ。それは心に灯をともす。そしてそれは言われている側だけではなく、言っている側にもまたそうらしい。励ましていれば、何か役に立てている気がしてしまう。そしてだからこそ、この言葉はとても危険だ。方法について考えたり反省したり、という努力をせずに、頑張れば何とかなるという根拠のない希望に逃げ込むことを助長してしまう。そうした精神論に逃げ込むことで、問題を解決する方法を探ることをあきらめる、という失敗を日本人は昔からしがちなのかもしれない(竹やりなんかで機関銃相手に戦おうとさせられていたわけだから)。

 また、教える側からすれば、「あの子がうまくいかなかったのは頑張っていなかったからだ」という結論に逃げ込むこともできてしまう。しかし、一体どこまで頑張ったら、実際に頑張ったことになるのだろう。「結果」が出たら、なのだろうか。だとすると、「結果の出ない頑張りは、頑張りではない! なぜなら一流は結果が出るまで努力するからだ」などという一見かっこよさげな言葉まで使えば、教える側は生徒に対して正しい学習法を提示できていないとしても、何ひとつ責任を持たなくて済むことになる。しかし、結果が出ないのは頑張っていないからではなく、正しい方向の頑張りを示せていなかったからではないか。その可能性を教える側は常に厳しく自省しなければならない。

 そして、これは教える側だけの問題ではない。あなたも自分の努力がうまくいかないことに対して、「でも、今の方法でもっと頑張ればうまくいくはず!」と思い込んで、自分を安心させていてはならない。あなたの頑張りがうまくいかないのは、あなたの方法が間違っているせいである可能性の方が、はるかに高い。わたしが教える中でも「学習法は正しいが、単に努力が足りていないだけ」という生徒はほぼ皆無だ。それはごくごく一部の飛び抜けて賢い子でしかない。ほとんどの子は学習法について考えることなく、与えられた方法のままに必死に頑張り、そしてうまくいっていない。そのまま勉強時間を増やしても、その方法が間違っていれば決して実力などつくはずがない。「頑張ればなんとかなるはずだ!」はあなたにとって何が必要であるかを考える、というめんどくさくて不安を感じる取り組みを忘れさせてくれる魔法の言葉であるがゆえに、ついついそのように疑えなくなってしまう。

 

 そもそも、だ。考えてもらいたいのは「私は1日15時間、毎日勉強している!」という子がいたとして、それは頑張っていることになるのか、だ。もちろん誰にでもできる努力ではない。しかし、それで成果が上がっていないのなら、それは努力をすることに満足しているだけだろう。一方で1日3時間の勉強で合格する受験生もいる。こんなに「努力」に差があれば、あなたは「勉強が得意な子はズルい!!」とさえ思うだろう。才能や地頭の差にしたくなるかもしれない。

 しかし、1日3時間の勉強で合格する子はその短い時間を徹底的に考え抜いて作戦を立てている。短い勉強時間であればあるほど、漫然と勉強して実力をつけることは決してできない。一方で1日に15時間勉強する子でそのように考え抜いて勉強法を作り込んで勉強している子はほとんどいない。何となく手を動かして書き写していたり、理解もできないままひたすら覚えようとしていたり、要はここまでに書いてきたような自学自習法からはかけ離れた方法で、ひたすら勉強時間を浪費してしまっていることが多い。

 学習法は、サボりたいという気持ちから生まれる。発明が、人間の怠惰さから生まれるように、だ。嫌いな勉強をできるようになるためには効果的な学習法を考えるしかないので、勉強が嫌いな子ほどにそこを考えることになる。一方でお仕着せの学習法を変えずに努力だけで突破しようと時間をかける子ほど、その学習法が自分に合っているのかを考えなくなってしまう。今までにたくさんの時間をかけてきたその方法自体を疑うのがあまりにも怖くなるからだ。そして、その結果として、うまくいっていない方法をますます見直すことができなくなり、多くの努力を費やしても、何一つ自分の実力を鍛えることには結びつかないことになる。

 ある方法を信じてそれを遂行する努力をするときは、方法自体について考える努力はストップすることになる。一方で学習法を考えているときは、それに沿って遂行する努力はストップしていることになる。努力にはこの2種類があるとして、人は遂行する努力をしているときは考える努力ができないし、考える努力をしているときは遂行する努力ができない。

 だとすれば、学習法について考えないままに、先生や塾で言われたやり方をそれが今の自分に必要かどうかを考えないままにとりあえず信じて努力する、というのは実は一面的にしか努力できていない、とも言えるだろう。さっきの勉強時間の違う2人の例でいえば、わかりやすい努力をしているのは15時間の子だろう。しかし、そのわかりやすさが危険だ。時間や労力をかけることが努力だととらえるのは、先生にも親にも自分が努力していることは認めてもらえるので、とてもラクな努力だ。そして、受験結果がうまくいかなくても、「あんなに頑張ってたんだから…」と慰めてもらえる。すると、勉強法を考えて自分の実力をつけることにはなかなか目が向きにくくなる。

 もちろん、普段あなたは「結果なんかじゃなくて、自分の努力を認めてほしい!」と感じることの方が多いだろう。確かに学校や塾の先生も親も、定期試験や模試の結果しか見ないで、「こんな成績じゃダメだ!(もっと勉強しなさい!)」しか言わないことにうんざりするかもしれない。努力をしたことが結果としてまだ出ていなくても、それでも努力している姿勢は評価してほしい! というその気持ちはとてもよくわかる。それはひとえに、あなたの努力が印字された成績表のような「形」になってしか見ることのできない、大人たちの見る目のなさのせいだ。

 

 しかし、一方であなたがいつまでも結果を出せなかったとしても、「こんなに努力したんだから…」と誰かに認めてもらうことで自分が評価される社会というのは、本当に優しい社会、健全な社会だと言えるのだろうか。

 あなた自身の将来に目を向けよう。あなたが何らかの職業につき、強い思いがあって努力を積み重ねていても、それがあなたの実力を鍛えることにつながっていなければ、結局あなたは誰かの力になることはできない。そして、思いがあることで自分の力の足りなさを許してもらえるのだとしたら、そのような社会は優しい社会ではなく、逆にとても抑圧的な社会である、とも言える。それは、画一的な評価基準で1日に3時間しか勉強しないで合格する子を排除する社会でもある。授業中寝ているけどテストの点数は取れる子を、授業中一生懸命先生の話を聞いているけれどもテストの点は取れない子よりも成績を低くする社会でもある。努力そのものを評価する、というときには必ず評価者にとって見えやすい努力だけが評価されてしまうことになる。授業中寝ていてもテストの点数が取れる子が、本当に見えないところで努力してないとでも言うのだろうか? あまりにもナンセンスでしかない。そしてあなたは、そんな大人のご機嫌取りをして生き延びねばならないことにこそウンザリしてきたはずだ。そんな社会は地獄だ。

 思いだけでも、力だけでもダメなのだ。思いに力が伴っていなければ、あなたの思いは届かない。力に思いが伴っていなければ、あなたの力はあなたの優越感以上の何も満たさない。その両方が必要だ。そして、そのことを忘れて思いを「努力」という形で直接評価しようとする社会は、一面的な価値観をあなたに押し付ける暴力的な構造にしかならない。

 

 自学自習の話に戻ろう。あなたが誰にも依存しないためには、自学自習で実力をつける必要があることは、「はじめに」で話した。学習法が正しくないままに実力がつかず、努力だけを評価してもらわねばならないなら、あなたは評価されやすい努力を見せ続けて生きねばならないことになる。そのような努力を通じて認められるあなたの自由は、評価する人の主観にすり寄るものでしかない。それは評価する人が変われば、カンタンに失われる程度の自由である。そのような不確かな隷従[れいじゅう]への道をあなたに勧めることは、決してできない。

 逆に言えば、安直な努力に逃げて自己満足に陥ることなく、結果を出すために学習法を考えることは、他の人があなたの見えやすい努力を認めなくても、あなたの必要性を納得させることができるようになる、ということだ。そしてそれは、人が人を評価するということが常に不完全であり、自らとの近さに過ぎないものを「優秀さ」だと勘違いしがちであるという失敗の常をも乗り越えて、あなたを守ることができる。

 そのようにして、正しい学習法をあなたが理解し、模索し、そしてわたしが伝える以上にさらに発展させていくことは、実は人類全体を狭い枠に閉じ込めることなく、多様性を確保することにもなる、とまで言ったら言いすぎだろうか。

 「頑張る」という言葉の「頑」は、「頑[かたく]な」とも読む。この言葉が「努力する」と同じ意味で使われるのは、同質性が強い日本において、完全には同化しきらないことには努力が必要であるからかもしれない。周りと同じ努力をして安心するのではなく、お仕着せの努力を一旦は拒絶して、自分が力をつけていくために何が必要かを考え抜いていくこと、それこそが本当の意味で「頑張る」ことではないだろうか。

 しかし、ほとんどの頑張りは、方法をしっかり考えないままに時間と努力というリソースを投入することが自己目的化してしまっている。それでは失敗しても許してもらうために、次の失敗を準備し続けるような努力になってしまう。まるで成績が悪かったときの救済措置としての大量の宿題にあまりに時間を奪われて、テスト勉強ができずに失敗するかのように、だ。適切な方法が提示されることもなく、努力だけをあなたに強いたうえで、失敗の責任はすべてあなたの努力不足のせいにされるのなら、それは大人が理不尽であるだけだ。しかし、あなたが学習法について考えないのは、考えのない大人の共犯者としてあなた自身の可能性を台なしにすることでもある。

 あなたが遂行する努力に溺れずに、立ち止まる努力をできることを心から願っている。そしてそのためには、あなたに必要な学習法を徹底的に探し、考え抜くことこそが大切であるとわたしは考える。

 

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著者略歴

  1. 向坂 くじら(さきさか・くじら)

    詩人。「国語教室ことぱ舎」代表。Gt.クマガイユウヤとのユニット「Anti-Trench」朗読担当。著書に第一詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)、エッセイ集『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)。現在、百万年書房Live!にてエッセイ「犬ではないと言われた犬」、NHK出版「本がひらく」にてエッセイ「ことぱの観察」を連載中。ほか、『文藝春秋』『文藝』『群像』『現代詩手帖』、共同通信社配信の各地方紙などに詩や書評を寄稿。2022年、ことぱ舎を創設。取り組みがNHK「おはよう日本」、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞などで紹介される。1994年名古屋生まれ。慶應義塾大学文学部卒。

  2. 柳原 浩紀(やなぎはら・ひろき)

    1976年東京生まれ。東京大学法学部第3類卒業。「一人一人の力を伸ばすためには、自学自習スタイルの洗練こそが最善の方法」と確信し、一人一人にカリキュラムを組んで自学自習する「反転授業」形式の嚮心塾(きょうしんじゅく)を2005年に東京・西荻窪に開く。勉強の内容だけでなく、子どもたち自身がその方法論をも考える力を鍛えることを目指して、小中高生を指導する。

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