はじめに ここでもまた、コミュ力ですか
コミュニケーション能力、略してコミュ力。これは、その言葉に反射的に忌避感を覚えたあなたに必要な文章だ。そして、そんな忌避感なんて、微塵も想像できない、つながるのはいいことに決まっている、と信じて疑わないあなたに全く異なる視点を提供する文章でもある。
私は間違いなく前者に当たる。むやみやたらとコミュニケーション能力を求められる就職活動において、適性検査では受かるものの、面接で必ず落ちた。内定は、一つも取れなかった。「適性検査では問題がないどころか、高得点だったのですが」から始まるお断りの言葉も頂いている。
適性検査の高得点でも補えないほど、コミュニケーション能力が低い人間なのだ。
コミュニケーション能力の定義には諸説あるが、円滑なコミュニケーションを行い、必要な情報や相手からの信頼を得る能力とでもしておこうか。相手からの信頼を得る――これが、私には難題だった。
相手の感情を感じ取れないので、言われたことのみを的確に受け取り、淡々と自分の意見を述べる。そして、意見はそれなりに先鋭的であり、過激であった。相手の感情をないものとして扱い(あることはわかってもそれがどのようなものか感じる感覚器官が備わっていない)、尖った発言をし過ぎる私と、進んで交流する人間は僅かだった。感情を無視されるどころか、逆撫でされることもあり、前提を共有できない私はお呼びでないらしかった。
私も人嫌いとしてある意味完成していたので、交友関係が狭いことを本気で気にしたことはない。必要な連絡が来るならば、仲間と思われなくてもよかったからだ。
とかくコミュニケーション能力を求められる場面から逃げてきた。話すことが苦手と自覚してからはテキストコミュニケーションを心がけ、交友関係も限定した。
外からは閉じているように見える私だったが、私にとっては外に向けて自分を開ける限界がそこだったというだけの話だ。
そんな私だが、必要に迫られ、またしてもコミュニケーション能力と向き合う羽目になってしまうのだった。そうしなければならないと気づいたとき、私は何度目かの絶望を味わった。
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コミュニケーション能力と向き合わされた理由は、私の数々のマイノリティ性に関係している。髪や目の色が薄く生まれる遺伝疾患、アルビノ。それに伴う弱視。発達障害の一つ、ASD。うつ病。セクシュアルマイノリティ。
マイノリティ性のある人々が生きていくには、有益な情報を得ることが欠かせない。進学や就職の現実、日常生活を便利にしてくれるアイテム情報、病院の評判など、必要な情報は、多岐に渡る。
特に、私にとって、アルビノや弱視の人々がどんな風に進学し、どんな職業に就いているか、また職場ではどのような合理的配慮がなされているかといった情報は、喉から手が出るほど欲しいものだった。
そのような情報が必要だと思ったのは中学二年生の頃だ。しかし、実際そういった情報を手にしたのは大学生になってから参加した、アルビノ・ドーナツの会が主催する、アルビノの当事者(ここでは、何らかのマイノリティ性のある本人を指す言葉)の交流会でのことだった。
コミュニケーション能力が低い私だが、初めて参加したこの交流会は、楽しむことができた。アルビノ・ドーナツの会の代表、薮本舞さんや運営してくださったスタッフの皆さまの力によるところが大きく、本当に感謝している。
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しかし、このエピソードには、多くの問題点が含まれている。
マイノリティ性のある私が、生存に必要な情報を手に入れるのにかなり時間がかかっていること、そして何より、当事者コミュニティにアクセスしなければ、必要な情報を得られないことなどが問題点として挙げられる。
コミュニケーション能力が低い自覚があった私は、高校生の頃から当事者コミュニティの存在を知りながらも、アクセスを躊躇っていた経緯がある。センシティブなものを抱えている人のなかには、私のあり方が受け入れられないどころか、暗い気持ちを抱く人もいるだろうから。もちろんその暗い気持ちは私の責任ではないのだけど、場の空気が悪くなるリスクは確実にあった。この記事を執筆して知ったことだが、コミュニティへの参加に対する不安をアルビノ・ドーナツの会に伝えていれば、1対1のやり取りや関連記事のシェアなど、他の選択肢は用意できたそうだ。しかし、当時はそのようなことに思い至らず、コミュニティに参加しなければ必要な情報が得られないと思いこみ、勇気を出して参加した。(2022年7月23日一部修正)
参加したこと自体への後悔はない。この参加を通じて、友人もでき、アルビノに関する様々な情報が入ってくるようになり、一人でいたのでは手に入れられない知識、情報を得た。それは私には楽しく、興味深いものに映った。
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しかし、ここでも、コミュニケーション能力が低いことが足を引っ張った。話の構成が下手、緊張して話すことが出てこなくなる、かと思えば喋り過ぎてしまう、相手の感情に対応する受容体を持たない、淡々ときついことを言う。
私の対面コミュニケーションの能力は、著しく低い。いつも、「書いた方がずっとうまく伝わる」と自覚しながら、口を動かしている。
コミュニケーション能力が私より高い人々は、私がコミュニケーションで躓いている間に、どんどん会話を広げていった。それを横で聞くことができたから、私も情報を得られたけれど、それは同時に、私は自力で会話を広げ、情報を共有してもらう能力が低いことを意味する。
同じマイノリティ性を共有するアルビノの当事者が集まる場でも、結局はコミュニケーション能力次第なのか。
楽しかったはずの出会いに、そこはかとない絶望を覚えた。その後、私はライターとして仕事をするようになり、言葉を得た。
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生存に必要な情報を得るのに当事者コミュニティへのアクセスがほぼ必須で、コミュニケーション能力次第で様々な差が生じている構造は、変えていくべきだ。
マイノリティ性のある人々は、生存のために当事者コミュニティにアクセスし、コミュニケーションを頑張って、必要な情報を手に入れなければならない。しかし、私のようなコミュニケーションが不得手なマイノリティ――発達障害の特性の一つにもコミュニケーションの苦手がある――の人々にとって、それは酷だ。
情報が欲しいだけなのに、つながることもセットでついてくる。情報単品で欲しいのだが、現状それは難しいようだ。
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今、マイノリティの人々は、つながることを“強いられている”側面がある。ピアサポート(当事者による当事者のサポート)やセルフヘルプグループ(当事者による当事者のサポートを行うための団体)といった概念が注目されつつあるなか、マイノリティは“つながらなければならない”のか、問い直したい。