物語られる家族──上田孝之さん(2)
倉数 茂
離婚とうつ
高校を卒業して日本大学に進学するが学業に身が入らず、5年間通って結局退学した。本当は興味のある史学科に進めばよかったのだが、就職のことなどを考えて、法学部に入ったのがよくなかった。
その後は実家の工場で働いた。旋盤やフライスを自分で操作する日々だ。取引先との交渉は父が、経理面は母親が担当し、上田さん本人は職人に徹する。
工場の経営は順調だった。機械系の企業に勤めていた弟が独立して知人と企業を立ち上げるのだが、ここも重要な取引先になった。
四十の頃、結婚する。相手は婚活パーティーで出会った年上の女性。一度離婚を経験していて娘のいる、とても綺麗で可愛らしい人だった。父親は大手銀行の役員で、親族には医者や大手企業の役員がずらりといるというエリート一族だ。
しかしこの結婚はうまくいかない。一緒に暮らすうちに育ってきた環境の違いを実感するようになる。当時上田さんは月に40万近く収入があったというから、決して貧しくはないのだが、妻から見たらまだまだ足りなかったらしい。妻が上田さんの稼ぎが少ないと不平を言うようになったのだ。
妻の実家で同居していたのだが、だんだんその家に帰るのが苦痛になっていき、仕事を終えてもわざわざ遠回りして帰ったりした。
上田さんには実家の外に家庭を持つことで、両親が争いあう現場から距離を置きたいという気持ちがあった。しかし母親は新家庭にも電話をかけてきて、父への不満をまくしたてる。そのことにも疲弊した。
結局2年ほどで結婚生活は終了した。結婚は心の休まらない実家の外に新しい居場所を作る試みだったが、それは実を結ばなかった。離婚後、上田さんは放心状態だったという。気力が尽きたということだろうか。
実は、上田さんは母親の信仰していた仏教系教団R会のメンバーだった。けれどもその団体での人間関係もうまくいっていなかった。地区の教会で、団体の教えと実際にやってることが違うじゃないかと口にして、上役にあたる人間と衝突する。自分の家庭は破綻し、実家では両親が争い、信仰先でも孤立してしまう。出口なしの状況だった。
辛かったのは、母親が上田さんの苦しさを理解しようとしなかったことだ。もともと母親は、年上相手の結婚に反対だった。「自分のことはいつでも言うくせに、俺のことはあまり聞いてくんねえんだなと思って」。
離婚のあと、穴を開けているときに指にドリルを当ててしまうという大怪我をする。普段だったらちょっと考えられないような事故だ。統合失調症持ちで精神科に通っているR会の知り合いが、「あんた、ちょっとおかしいから一度病院に行った方いいよ」と勧め、一人で行くのが不安なら、と付き添ってくれた。病院での診断結果はうつ病だった。のちに精神障害二級と認定され、今も服薬中である。
「凍りついたみたいな感じ、自分にもう生きてる価値がないみたいな感じがありましたね。なんか面白くないなって。こんな家で毎日争ってるし、親父はいつも夜になっていなくなっちゃうし」
もう結婚していた弟をのぞく家族三人で潮来に旅行をしたことがあった。ところが父親が旅行先でとつぜんにもう帰ると言い出した。仕方がないので旅行を中断して家に戻ると、父親はさっさとボウリングに行ってしまったという。このように父親の気まぐれに振り回されるのも日常茶飯事だった。
「小学校のときは結構楽しかったけど、それからなんかあんまり面白くなかった。でも俺がいないともうむちゃくちゃになるのは目に見えてるし、俺ジレンマですよ」
子どもの前で行われる両親の激しい喧嘩や暴力、罵倒の応酬が子どもに深い心の傷を与えることが近年認められてきた。それらは面前DVと呼ばれ、子どもの自尊心の低下や不安の増大をもたらす。児童期に面前DVにさらされた子どもは脳に不可逆的な変化が現れるという研究もある。そうした子どもたちは、長じてうつなどを発症しやすい。
上田さんは児童期ばかりでなく、成人してからもずっと両親と起居を共にし、同じ空間で働いてきた。母親は父親への怒りをずっと上田さんに言いつづけた。夫婦仲の悪い家庭ではよくあることかもしれない。しかし上田さんはその状態に何十年も耐えたのだ。これでは心が壊れるのは当然ではないだろうか。
歳をとっても父親の身勝手な振る舞いは変わらない。なんと90歳になっても付き合っている彼女がいた。
「彼女の家がK岡の方なんですよ。(バスの)敬老パスっていうやつで、そこまで行ったり、彼女の方が来たり、もう俺も全然気になんなくなっちゃって。もう、そうゆうの慣れちゃってたから、もう自分で自分を守るために、何も気にしないようにするという習慣がついていたから」。
いつ頃からそうなったんですか、と尋ねると「小さい頃から」と返答があった。「何か言われても聞き流しても結構きついこと言われても聞き流す。それが一番自分の身を守るのにいいかなと思ったから」。
家族の不思議
上田さんはどうして家族から逃げ出すことができなかったのだろう?
人はなぜ家族というものにこだわり続けるのだろう?
人類は新石器時代には父母と子どもによる核家族を形成していたらしい。特定の男女がペア関係を結んで、食料を共有し、子育ての負担を分け合い、インセストを禁止し、共同生活をする。そういうシステムができて以降、人間は家族の内部に生まれて育つ。
しかし同時に家族は子どもを縛める牢獄にもなる。上田さんの母親は仏壇に手を合わせて、夫が死ぬことを祈っていた。そこまでになっても一緒に居続ける家族とはなんだろうか。家族が持つ引力を振り切って飛び出すことはできなかったのか。
上田さんは次男、三男に生まれた人が羨ましいという。上田さんの弟は、独立して知人と会社を起こして成功している。上田さんが家を捨てられなかった理由のひとつは長男としての責任感だろう。そればかりか、自分が両親の間をつなぎ止めているのであり、自分がいなければ一家が壊れてしまうという恐怖があったのではないか。上田さんを気持ちの捌け口としている母親にしてみれば、上田さんが離婚して帰ってきたのは決して悲しむべき事態ではなかったのかもしれない。しかし上田さんは家族の桎梏[しっこく]に閉じ込められて、いくつになっても「子ども」のポジションにとどめられる。一人の大人、独立した個人として、自分の人生の主人公になることができない。
2020年の1月に父親は97歳で亡くなる。その年の11月に母親も逝く。
「あのね、不思議なことに父はよくあいつは俺の死ぬのを待ってるんだって。俺が死んだらすぐ死ぬよって。不思議なんですよね、あれだけ揉めてる夫婦で。愛し合ってるんだか、憎しみ合ってるんだかよく分かんない」。
亡くなる一年ほど前、父親はとつぜん上田さんに車を運転させて栃木へ向かった。目的はなんと60年近く前の彼女Fさんの家を探すことだった。同棲していた彼女である。当時は川崎のキャバレーのホステスだった。上田さんは父親に言われるまま、二日かけてF家の所在を聞いてまわり、ついに親戚の男性を探し出した。その人の話によれば、Fさんは結婚して今は草津に住んでいることがわかった。
上田さんは幼い頃、父親に連れられて彼女に会ったことがある。ケーキでもてなされ、とてもきれいなお姉さんだと思った。まだ4、5歳で父の浮気相手だとは知らなかったし、母親の気持ちも理解していなかった。修羅の家だ。
最晩年の母親は認知症だった。父親は母親のおむつをかえたりもしていたそうだが、やがて家族で面倒をみるのも限界となって特別養護老人ホームに入所した。「もう何しろどんどんどんどん悪くなってって最後は僕がいくとあいつ誰って言うんですよ。最初はなんか色々思ったんだけどなんか慣れてくると逆に笑えちゃうんですよ。じゃないと身体も心も持たないから」
両親が亡くなったあと、心配してくれた弟が、自分のところの近くに越して来ないかと声をかけた。お互いもう若くはない。一人暮らしで、うつ病も抱えた上田さんのことを案じたのだろう。思うに弟の心には、自分が家を出たあとも、両親の緩衝材として家と工場を支えつづけた上田さんへの感謝があったのではないだろうか。
引っ越したことで、R会との関係も改善された。新しい支部の人たちとウマがあったのだ。今ではR会の仲間たちが、上田さんの心の支えとなっている。
「近所の同じまちに住んでる会員の人が、おせちちょっと余分にできちゃったんで食べてくれるとか、そういうことを言ってくれるから。あのねR会の教えが正しいとか間違ってるとかよりも、僕にとってはそういう情けの方が大切なんですよ」
周囲の人たちのちょっとした優しさが心に染みる。上田さんが長年求めていたのは、ささやかな気遣いであり、心のふれあいだった。
父に戦争の影はなかったのか?
復員した兵士は、家族になかなか戦争経験を語らない(語れない)と述べた。
一方、上田さんの父はたびたび兵士時代のことを語っていたので、そうしたケースには当てはまらないのかもしれない。けれども、その陽気な語り口自体が語れない、語りたくない部分を隠蔽しているということは当然あるだろう。幼いわたしも、祖父正一が戦場での花火(のように見える砲撃)見物を軽い調子で語ったとき、明らかな祖父の作為を感じ取った。
日中戦争、太平洋戦争が兵士にもたらしたトラウマについての研究が始まったのはごく最近のことである。アメリカではベトナム帰還兵の社会的不適応が戦争トラウマに注目を集めるきっかけになったが、日本ではその後も半世紀近く無視をされ、国家や公的機関が取り上げることはなかった。
しかし、臨床心理士の信田さよ子は臨床を続けるなかで、出征兵士を父に持つ世代の女性たちが飛び抜けて過酷な家庭内暴力を目撃し体験しているのに気がついた。彼女たちの父親は、戦後社会に適応できないまま、酒に溺れ、妻や子どもに暴力を振るった。そこに戦場経験に由来する人格の荒廃と生きづらさがなかったとは考えづらい。ベトナム帰還兵の場合、約1割から3割がなんらかのPTSD症状を抱えていたとの報告もある。それをそのまま太平洋戦争の出征兵士に当てはめれば、200万人前後がトラウマを持っていたことになる。
わたしの祖父は戦争体験を語ることはなかったが、戦場の暗い記憶が心の中にわだかまっているのだろうと孫として感じていた。祖父は酒が好きで趣味も多い享楽的な男であり、きちんと家に金を入れるタイプではないにせよ、一応周囲とは軋轢を起こさず、家族に暴力を振るうこともなかった。ただ彼の明るさは、戦場で多数の死を経験(あるいは加担)するなかで養われた、人は生きてるうちに楽しまなければ損なのだという虚無感に裏打ちされたものではなかったかと今では思っている。
感情が安定せず発作的に暴力を振るったり、落ち着いた人間関係を築くことができなくて仕事を転々としたりしていた元兵士たちの戦争トラウマを究明する動きが、兵士の子や孫たちの手で始まっている。そうした元兵士たちはすでに鬼籍にある。しかし、戦争トラウマの観点を持ち込むことで、父や祖父がなぜ社会に適応できなかったのか、なぜ怒りの発作やうつに苦しんだのか、どうして家族をかえりみることができなかったのか理解できるという。
上田さんの父の場合はどうなのだろうか。彼が戦争トラウマの持ち主だったとまで断言するつもりはない。とはいえ、戦争が彼の人格になんらかの影を落としてないとも思いづらい。上田さんはそれを、父は戦争で「クソ度胸」がついたのだという。ただその「クソ度胸」が妻を嫉妬に狂わせ、息子を疲弊させながら、それでも断固として遊びつづけるという態度を意味するのなら、そこに人格的麻痺や暴力性を見てとらないわけにはいかない。
今の幸福
R会の信仰仲間には、家庭に問題があり、ネグレクトやDVを受けて育った人が多い。そのなかでも、上田さんが親しくなるのはガラの悪いアウトロー気質の人間だという。そういう仲間たちは、DVによる児童の虐待死の報道に触れると激昂する。もしかしたら自分もそうなっていたかもしれないという思いをかき立てられるからだ。
上田さんのなかにも、幼い子どもたちに対する人一倍強い思いがある。てとてとや、隣の団地で開かれているくすのき広場に参加しているのも、なにか子どもたちのためになることをしたいと思っているからだ。
──じゃあてとてとのような場所があるのは嬉しいですか?
嬉しいですね、自分が生きてる感じがするから
──生きてる感じがする?
俺にも存在価値があるんだなみたいな。てとてとに来て子どもたちのことを見たり、朝の登校見守りボランティアしたりすると、子どもたちが手を振ってくれたりするじゃないですか。こんな俺でも存在価値があるのかなって思った。
小学生の女の子が自分が遊びたいから小さい弟を上田さんに預けていく。そういうときに信頼されているのを実感する。
てとてとの終わりの時間が来ると、上田さんは必ず数人の子どもたちを家まで送って行く。もう夜8時を過ぎているので、上田さんがそうしてくれることは大変ありがたい。上田さんにとっても、子どもたちとの帰り道は大切な時間のようだ。てとてとを通して、兄弟姉妹や親子がいたわり合っている情景を目にするのが喜びだ。
俺ね、すげえ羨ましいんですよ。
親子と夫婦と兄弟がすごい仲のいい家庭って、俺一番あこがれてる。(てとてとに来ている子どもたちの家は)そんなに豊かではないと思います。だけど私はそういう仲のいい家族を一度も体験したことないんですよ。夫婦仲良く兄弟仲良く。いや一度も僕はそういう思いしたことない。
帰り道、子どもたちが「孝之さん、孝之さん」と慕ってくる、それが嬉しい。
長い人生のなかで今が一番充実していると上田さんは言う。
上田さんは毎晩寝る前にお経を唱える。仏壇代わりの本棚には両親の写真が飾ってある。お経を唱えながら、死者の冥福を祈り、てとてとで出会う子どもたちの幸せを祈る。K家の子どもたち、S家の子どもたちと、ボランティアで見知った顔が増えるたび、祈る子どもたちの数もどんどん増えていく。
父の死が一番大きいかな。人間はいつ死ぬか分かんないし。
父なんかほら(戦争で)死んでもおかしくなかった。
僕にとってはやっぱりなんだかんだいって父の影響すごく強いんですよ──お父さんが亡くなってずいぶん楽になった感じですよね
楽になったっていうよりも人間的になった。
上田さんは今でも死んだ父親を慕っている。
なんかね、喧嘩したり頭にくることもあったけど、なんだかんだいって好きでしたね。だからなんていうんだろう今でも仏壇はないんで本棚の上に父の写真飾って。色々あって喧嘩もしたんだけどやっぱねえ、あんたには勝てないわと思って少しでも近づきたいなと思って、健康もそうだし97まで生きたじゃないですか。それにコミュニケーション能力もすごい。はちゃめちゃだし優しいしモテるし。
* * *
家族と語り インタビューを終えて
この連載でいろいろな人に話を聞いてきた。生い立ちを聞かせてください、というと、大抵の人は家族について語り出す。両親、祖父母、兄妹、パートナー、子どもたち。人生について語るとはそのまま家族の物語を語ることであり、同時に自分が家族から繰り返し聞かされてきた話を語り直すことでもある。
インタビューを重ねるうち、家族という集団のなかでの語りの役割に気持ちがいくようになった。一緒に暮らしていることや日々のやり取りも重要だが、それ以上に父母や祖父母が語る自分たちについての「語り」、つまり来歴こそが、いわば紡がれた糸のように、異なる世代をつなぎ、絡めとるのではないだろうか。
自分たちはなにものなのか、どのように出会い、何をして生きてきたのか。折々に口にされるそうした越し方についての語り。年長者のそうした話を、子どもは幼い頃から環境として聴取し、自然に内面化する。そうした語りは人に安らぎを与えることもあれば、逆にがんじがらめの呪縛となることもあるだろう。
語られた上田さんの人生も、両親、とりわけ父親についての語りとひとつになっていた。父親がいかにモテたか、どれほど魅力的であったかを心底楽しそうに語る上田さん。その話を聞きながら、父親はまだ上田さんの近くにいて、亡霊として、いやゴースト・ライターとして、上田さんの語りに取り憑いていると思った。
そうした家族の「語り」では、ある意味では語られたこと以上に、語られなかったことが重要なのだと思う。つまり家族についての語りにはたいてい何らかの言い残し、亀裂や穴が開いているのだ。戦争についての語りはその典型である。上田さんは戦争中南方で、父親がまるでスポーツのようにワニや蛇を狩った様子を語った。それは父親が上田さんに伝えたものだが、もちろんその背後には、戦地での飢餓体験があったはずだ。上田さんの語る女性たちと明るく戯れる華やかな父親像もまた、父母の不和に苦しんだ上田さん自身の姿を影法師として持っている。
語りはつねに何かを伝えるとともに何かを隠蔽する。
家族の語りを通して、人は自分が何者なのかを意味づける。父母が亡くなったことで、上田さんを閉じ込めていた家族の檻は、ひとまず消滅した。けれども語りを通じて、父母は死者として生き続けている。上田さんは信仰というまた異なる出自を持つナラティブとより合わせることで、写真の前で手を合わせ、死者とコミュニケーションを続ける。
彼岸に渡った両親は、遠い姿となって、もはや修羅の表情ではなく、優しい顔をしているのだろうか。