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居場所がうまれるとき~団地の「語り」から見えてくるもの

「戦後復興期」の青春

 倉数 茂

 今回登場していただく吉澤肇さん(インタビュー時78歳)は、O団地コミュニティのキーパーソンである。だが、この連載の愛読者なら──もしいれば──はて? と思うかもしれない。居場所「てとてと」が開かれているのはS団地ではなかったのかと。
 その通り。実はS団地の「てとてと」は、O団地の居場所「くすのき広場」から細胞分裂するようにして誕生したのだ。始まりは10年前、居住するO団地がすっかり荒廃していることに心を痛めた吉澤さんは、そのころ知り合った杉山春さんと一緒に、子どもと大人が交流する場として、団地内の多目的室を利用して「くすのき広場」を立ち上げた。その数年後に、杉山さんは、隣のS団地にも似たような居場所が必要だと感じて「てとてと」を始める。つまり「くすのき広場」は、われわれ「てとてと」の兄貴分なのである。
 以前から吉澤さんはとてもアクティブでエネルギッシュな人だという印象を持っていたのだが、実際にあらためてうかがった吉澤さんの人生は曲折に富んだダイナミックなものだった。

工員の街、川崎で育つ

 吉澤さんは川崎の工業地帯で育った。1945年生まれの吉澤さんの幼少期はそのまま日本の復興と重なっている。

川崎もね、あの海の方ですね。ちょうど羽田空港のこっち側で。当時は夜中の羽田空港で飛行機のエンジン調整をやる、そのエンジン音がダーッと聞こえるような。多摩川を隔てたこちらですから、そういうところでね。だからまだ埋め立ててない。あれ埋め立ててダーッてみんなコンビナートになったんですね。だから川崎の一番南ですかね。そこなんですね。

 もともと川崎は日中戦争以降に発展した一大軍需工業都市である。太平洋戦争中爆撃によって焦土と化すものの、1950年代の経済復興期に、機械・鉄鋼・石油・電力などの工業力を急速に拡充していく。京浜工業地帯の中枢として、日本の高度経済成長を牽引する役割を担った。
 もしかしたら吉澤さんが耳にしたエンジン音は、米軍のものだったかもしれない。羽田空港は、敗戦後アメリカに引き渡されてHaneda Army Airbase(羽田航空基地)となっていたからだ。1952年に返還されたあとも、施設の8割は米軍の管轄下にあった。幼年期を過ごした日本はOccupied Japanでもあった。
 通った小学校は午前と午後の二部授業だった。今週は午前授業、来週は午後授業といった具合にどちらかに通う形式だった。急速な人口増加に先生や教室が全然足りなかった。早稲田大学を出たばかりの先生が、学生服のまま通ってきたという。先生も、それしか一張羅がなかったのだろうか。
 当時の川崎は貧しい工場労働者の街であり、吉澤さんの家も経済的に困窮していた。父親は体が弱く、勤めていた会社が倒産したあと、「ニコヨン」と呼ばれる失業対策事業で数年食いつないだ。1日肉体作業をして労賃が100円玉2枚と10円玉4枚であったことからついた名前である。当然母親も働かなければならない。両親が運動会や学芸会といった学校行事に来てくれることもなかった。

もうほったらかし。ほったらかしだから逆に、やっぱり自立ってのができたのかな。もう小学校4年ぐらいになると親戚の家にいってましたもん。泊まりにね。夏休みとかね。親戚の家いくと、お小遣いくれるんだもの(笑)。自分の親全然くれないからね。

 当時の市の歌には「煙もうもう」とかいう文言が入っていたが、公害が問題になって削除されたと吉澤さんがいうので調べてみた。1934年に作られた川崎市歌(作詞・小林俊三、作曲・高階哲夫)の3番には、なるほど「黒く沸き立つ煙の焔」とある。

巨船繋ぐ埠頭の影は
太平洋に続く波の穂
黒く沸き立つ煙の焔は
空に記す日本
翳せ我等が強き理想を

 一方、1969年に改訂された歌詞ではすっぱり消えている。

巨船繋ぐ埠頭の影は
太平洋に続く波の穂
汗と力に世界の資源を
集め築く基礎
今ぞ輝く大川崎市

 つまりそれまで「黒く沸き立つ煙」は、川崎の工業発展を象徴する誇らしい光景だったというわけだろう。1950年代と60年代、川崎の人口と工場は驚くべき勢いで増えている。京浜工業地帯はどんどん膨れ上がり、東京湾は埋め立てられて船着場とコンビナートになり、機械工業が日本の基幹産業になっていく。1960年、川崎で働くものの実に49パーセントが工業関係者で平均年齢は20代。まさに若い工員の街だった。高齢化と少子化で悩む現代日本とは大違いである*1。

*1 川崎労働史編さん委員会『川崎労働史』川崎市、1987年

 吉澤さんの父親は文学青年で、家の近くにあった長谷川伸の家に出入りをしていた。長谷川伸は当時大変な人気のあった大衆小説家・劇作家で、各地を流れ歩く博徒や芸人を主役にした股旅ものをたくさん残している。長谷川の股旅ものに出てくるやくざは、義理と人情を信条に、世間のどん底を漂流する心優しい男たちだが、長谷川自身も、貧乏で小学校を2年でやめ、ずっと土木現場で働いてきた苦労人だった。小説を書き出すのが30歳ごろ、人気作家になるのが40代である。
 ニコヨンの日雇い労働者である吉澤さんの父は、長谷川のそうした境遇に自分を重ねたのだろうか。作家志望でありながら夢には手が届かず、最底辺の労働者である自分の立場を嘆くこともあったのではないか。
 実は吉澤さん本人も、中学生のときに歌手になろうと有名作曲家のEの元を訪れている。Eは誰もが知っている演歌歌手を何人も育てた大物作曲家で、吉澤さんは彼の元でレッスンを受けたかったが、料金が高額だったのであきらめた。

Eが歌いなさいってピアノ弾いてくれた。あそこはH(人気歌手)とか出てんの知ってたから。昔は月刊明星とか月刊平凡とかみんな芸能関係の住所書いてあんだよ。それ見てさ、Eのとこ行ったら、
すぐ歌いなさいって。そして、「じゃあ、いらっしゃい、月謝は3000円だよ」って。あの当時ね、新聞や牛乳配達やっても1800円くらいしかもらえてないのにね、もういいやと思ってかよわなかったけどね。
(略)
とにかくお金を稼ぎたかった。若くしてね。そんなことがありましたけどね。だから、ご存知ないかな。銀座のACBなんていうのはね、ジャズ喫茶があった。そこみんなプロが来て歌うんですよ。歌声喫茶とかもあったりね、銀座のそういうジャズ喫茶、そこにもしょっちゅう出入りしてましたよ。

─へえ、それ何歳ぐらいですか?

中学生くらいですよ。

─中学生でジャズ喫茶行くとかとか不良じゃないんですか?

いや、いつかは出演できるかと思ってね、名前はジャズ喫茶だけど。ウエスタンカーニバルってご存知ですかね。日劇の。ウエスタンでもなんでもない、エレキギターでやるだけなんだけど、タイトルはウエスタンカーニバル、ロッカビリーですよ。ああいうのも裏口から無料で入ってみたり。

 なかなかの腕白ぶりだが、お金を稼ぎたいという思いは切実だった。ローティーンのアルバイトなんて今では考えられないが、吉澤さんは小学生のころから新聞配達や牛乳配達のアルバイトをしている。元旦の日には新聞が分厚くなって、とても運べなかったという。まだ真っ暗な街を、白い息を吐きながら、ずっしりとした新年号の新聞を配って歩く吉澤少年の姿が目に浮かぶようだ。

『キューポラのある街』の戦後

 15歳になった吉澤さんは、進学か就職かの判断を迫られる。周囲は半分が進学、半分が就職だった。当時、「金の卵」という言葉があった。中学を出てすぐに就職する若年労働者を指す言葉だ。高度成長のとば口にあって企業は若くて安い労働力を必要としていた。しかし就職先の大多数は零細企業で、最初に提示された労働条件が守られないなどのトラブルも多かった。吉澤さんはポンプを製作する企業への就職を選ぶ。決め手は働きながら定時制高校に通ってもいいという約束だった。家庭の事情から働かなければならなかったが、勉強をつづけたいという強い気持ちがあった。
 ところが、実際に定時制に通い出すと、会社はもう一年待ってくれ、という。どうしても勉強したかった吉澤さんは会社を辞めてしまう。そして他の会社に移ってまで学校をつづけた。
 吉澤さんの話を聞いていると、一貫して強い「知への情熱」とでもいうべきものが流れていることに気づかされる。貧乏のために全日制高校にも大学にも行くことができなかった。しかし、その分独学で知識や能力を身につけようと努力する。そうしたパターンが何度も繰り返されるのだ。実際、成人してから吉澤さんは自分で勉強して陶磁器に関する専門的な知識と審美眼を身につけるのだが、そのことは次回詳述するつもりである。

本当は大学行って弁護士がやりたかったんだね。世の悪いものを退治してやるじゃないですけど、あるいは弱い立場の人を何とかしたいなっていうのはね、やっぱ根底にあるからね、今民生委員なんてやるのも、根っこにそういうのがあるからですよね。

─そういう気持ちはどこから来たんですか?

やっぱり家が貧乏だったからじゃないですか。だからそういう人たちをずいぶん見てますよね。定時制4年間のうち、2年間は生徒会長をやりました。それもあって忙しかった。朝6時に自宅を出て(働き)、夜は学校終わって帰宅するのが12時ごろ。4年間その生活をしました。

 当時、貧しさのせいで進学できない若者はたくさんいた。そういう人たちの中には、ずっと学問への憧れや、平等や社会正義への想いを持ち続けたものがいただろう。そうした人々が戦後の日本社会のまっとうな部分を支えてきたのではないか。
 ここでどうしても思い出されるのが、1962年の映画『キューポラのある街』(浦山桐郎監督)だ。17歳の吉永小百合を一躍スターにした日活映画の名作だが、主人公ジュンはまさに親の失業で進学できず、悩んだ果てに働きながら定時制に通うことを選択するのだった。
 舞台は鋳物工場の立ち並ぶ埼玉県川口市である。ジュンの父親はベテランの鋳物職人だが、映画の冒頭で仕事場を馘首[かくしゅ]されてしまう。昔気質の父親は、近代的な大工場にも、労働者の権利を主張する組合にも馴染めず、再就職先を見つけられない。ようやく手に入れた臨時仕事の給料もすぐに飲んでしまう。
 映画は生活費のやりくりに苦しむ家族の姿を描き出す。中学3年生のジュンは、パチンコ屋で働いて学費を貯めようとするが、思わぬ出費があってなかなかうまくいかない。弟のタカユキは伝書鳩を育てて友達に売ることで金を稼ごうとする。しかし金を盗んだと勘違いされて父親に殴られ、家出して野宿生活をしたりする(吉澤少年がしていた牛乳配達のアルバイトも登場する)。
 この映画には、在日朝鮮人が集団で北朝鮮に移住する様子も出てくる。ジュンとタカユキには近くの朝鮮人部落に住む友人がいるのだが、この一家は、朝鮮総連主導で行われた「帰還事業」に参加する。しかし日本人である母親は帰るのを拒否したため、家族が引き裂かれ、まだ幼い息子は大泣きする。実際に北朝鮮に帰国した人たちの行く末も考えさせられて、なんとも胸の苦しくなるエピソードである。
 『キューポラのある街』には、貧乏の辛さも、家庭内暴力も、古いタイプの職人が時代の流れに取り残されていく様子も描かれている。それらは殊更に強調されることなく、ありふれた日常の風景として登場する。パチンコ店では客たちが怒鳴り、子どもたちは舗装されていない泥道を裸足でかける。国際的な政治の事情が家族をバラバラにする。ただ、それでも映画全体の空気は決して暗くもジメジメもしていない。高校進学を熱望していたジュンは、結局全日制をあきらめ、工場で働きながら、定時制に通うことを選択する。彼女はいう。「これはうちのためって言うんじゃなくて、自分のためなの。たとえ勉強する時間は少なくても、働くことが別の意味の勉強になると思うの、いろんなこと、社会のこととやなんだとか」。
 明日はもっと今日より良くなる、みな豊かになり、暮らしも楽になる、女は男に気兼ねしなくなり、貧しい人間も権利を主張できるようになる、実際そうした新しい世代が育っている。そうした楽観が映画の底流にあり、物語のラストで前面に出てくる。ジュンはそうした若い世代の象徴であり、溌剌[はつらつ]とした吉永小百合のフレッシュさがその造形を支えている。
 この映画を見て、戦後がいい時代だったとはとても思えない。あまりに生きるのが大変すぎる。しかしこの映画のジュンたちが夢見ている「未来」のことを私は懐かしいと感じてしまった。それは実現しなかった未来、喪われてしまった未来である。私たちは、これから日本が豊かになっていくとか、お互いを平等に尊重しあう社会になっていくなんて楽観は逆立ちしたって持てない。しかし「戦後」にはそうした希望を貧しい人たちも信じていたのではないか、と思えてくる。映画から伝わってくるこの前向きさを「戦後民主主義」と関連づけてもいいだろう。理念ではなく、気分としての戦後民主主義。
 毎日の生活は厳しく、苦しい。しかし、がんばれば必ず報われる。そうした信念が吉澤少年をも動かしていたのではないかと想像する。

(後半に続く)

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著者略歴

  1. 杉山 春(すぎやま・はる)

    一般社団法人てとてと代表理事。東京生まれ。ルポライター。児童虐待、家族問題、ひきこもり、自死などについて取材してきた。著書に『満州女塾』(新潮社)、『ネグレクト 真奈ちゃんはなぜ死んだか』(小学館文庫 小学館ノンフィクション大賞受賞)、『移民環流』(新潮社)、『ルポ虐待:大阪二児置き去り死事件』(ちくま新書)、『家族幻想 ひきこもりから問う』(ちくま新書)、『自死は、向き合える』(岩波ブックレット)、『児童虐待から考える 社会は家族に何を強いてきたか』(朝日新聞出版)など。公営団地内で子どもや母親の居場所を仲間と一緒に運営している。

  2. 倉数 茂(くらかず・しげる)

    小説家、日本近代文学研究。著書に『私自身であろうとする衝動 関東大震災から大戦前夜における芸術運動とコミュニティ』(以文社)、『黒揚羽の夏』(ポプラ社)、『名もなき王国』(ポプラ社)、『あがない』(河出書房新社)など。現在ウェブで連載しているものに、「再魔術化するテクスト カルトとスピリチュアルの時代の文化批評」(https://note.com/bungakuplus/n/n720620af6f98)。東海大学文芸創作学科准教授。

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