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居場所がうまれるとき~団地の「語り」から見えてくるもの

北の漁村から

倉数 茂

海の上の相撲

 波間に浮かんだ土俵の上で、男たちが相撲をとっている。
 それが柚原[ゆずはら]貢(仮名)さんの幼年時代の一番古い情景なのだという。
「昭和でいうと31、2年の記憶だと思うんですけど、港に木でつくった土俵みたいなものを浮かべて若者が相撲をとって負けたらドボンと入るという。そういうようなことをなんとなく覚えてるんですね」。
 背景に広がる青い海。引き締まった体の裸の若者たち。数秒睨[にら]みあっていた男たちが組み合い、やがて土俵が大きく傾くと、一人の体が海に落ちていって大きな白い水しぶきがあがる。どこか夢の中で見たイメージのように、非現実的で、不可思議で、懐かしさを湛えた光景である。
 今回お話をうかがった柚原さんは、てとてとも利用させてもらっているS団地の集会所で、外国人の子ども相手の学習教室を28年ほど続けている人物である。柚原さんは福島の生まれで、大学を出てからは相模原市の中学校教諭を長く務めた。柚原さんの語りの最初の三分の一は故郷の漁村の記憶に占められた。高度経済成長下、地方の産業がまだ衰退していなかったころの港近辺の集落の風景は、確かに今では失われてしまったものである。語りの後半は、中学教諭になってからの苦闘の歴史である。そこから見えてきたのは、学校現場の疲弊と事なかれ主義、外国人の子どもたちの抱える複合的な困難だった。

福島の漁村で

 柚原さんは1952年に生まれた。
「ぼくは福島県の海沿いにある小さな漁港で生まれまして、家の目の前が港で、もうその当時セメントで護岸してあって、目つぶってまっすぐ歩いていくと海にドボンと入るくらい、距離でいえば2、30メートルくらい」。
 南米チリで起きた地震の津波が1日かけてやってきた様子も覚えている。1960年のことだ。
「その時に目の前の港がグーッと水が引いて底が見えるくらいになったんです。それからドバッと上がってきた。僕の家は水面から4メートルくらい高いところにあったんで津波は来なかったんですけど、その港の中で水が動く恐ろしさみたいのを感じましたね」。
 柚原さんの家はその漁村で雑貨店をやっていた。近くにスーパーがあるわけではないので、生活に必要なものならなんでも扱う。食料品、日用品、お菓子、食パン、牛乳、タバコ。薪や炭などの燃料も周囲に配達していた。
 店は明治の中ごろに柚原さんの曽祖父が始めたもので、柚原さんが子どものころには、祖父母、両親、柚原さん4人兄弟の3世代が暮らしていた。店舗部分も含めて13部屋ある、今思えばずいぶん大きな家だったという。
 港には船の修理所があり、水揚げした魚の加工場があった。集落の一角には船員たちの長屋があり、中央に小さな商店街があって、米屋、薬屋、船舶用の無線販売店、床屋が1軒か2軒あった。船員向けの風呂屋、酒を出す店もあったが、サービスのための女性はいなかった。
 幼いころは伝馬船と呼ばれる櫓[ろ]で漕ぐ舟による漁も行われていた。小舟なら櫓は船尾に一本だが、少し大型になると、櫓も漕ぎ手も増えていく。それらで沖まで行くとマグロやカツオが獲れた。
 そのうちに100トンくらいあるエンジン付きの船がベーリング海、オホーツク海まで出かけるようになった。2、3ヶ月かけてサケやマスを大量に捕獲する。1960年代終わりに最盛期を迎える北洋漁業である。
 北洋漁業の船団が出航する日には、岸壁に紙テープを握った船員の妻たちが並ぶ。小中学生が旗を振り、吹奏楽部が演奏する。やがて船が離れていくにつれて紙テープは千切れ、色とりどりのテープは風に舞った。楽器のできない小学生だった柚原さんはそこでリコーダーを吹いていたという。
 子どもの多い時代だったから、遊ぶ時も大勢が集まった。

塾なんかももちろんなかったですしね。もうみんなで2、30人、今思えば2、30人集まって一緒に遊んでるとか。

──2、30人!? てとてとみたい!

コマ回しっていうのをすると、小学6年生、中1くらいから保育園くらいまでの男の子が集まって、お宮の境内みたいなところでコマ回しをやるわけです。冬になると凧揚げ、5人、10人は当たり前で集まる。
小さい数十メートルのスペースだと思うけど、山と山とちょっとした谷があって、中学生くらいの子が、お前はあっちいけ、お前はこっちと2つに分けて、泥団子をつくっては投げ合う。

──それは親が大変だ(笑)

あと腹が減ったら近くでサンマとかサバの煮干しをつくっている。俺が10人くらい入るようなどでかい釜があって、サンマをドバッと茹でて、干して煮干しをつくるわけですよ。広場にバーって並べて干して。今思えばあれを東京なんかのいわゆる削り節をつくる工場に送ってたんじゃないかと思うけど。それで戦争ごっこをやって腹へった子どもたちは、そこに潜り込んでいって、そうっと手を伸ばして蒸籠[せいろ]のところにある煮干しをとって食いながらやっていた。

──盗られるほうはわかってる?

それはもちろん知ってたと思いますよ。

──まあ1匹くらいいいかということなんでしょうね。

そうそう。まあ、そういう風な環境で育ったんで、あいつんちは金持ちだとか貧乏だとか、まったく関係なく一緒に遊んだし、一緒にものを食ったみたいなね。今みたいな深刻ないじめなんて想像できなかったね。小学校も中学校もほとんど全員同じような環境なんで、多分半分以上は漁業関係の仕事。実際に魚を獲る船員さん、船を持っている人、木工船の修理をする人とか、人口の半分以上は漁業関係者だった気がしますね。

 もっとも村の中に貧富の差がなかったわけではない。船主と呼ばれる漁船のオーナーが村の有力者で、中には2隻も3隻も持っている者もいた。大きな漁船は今の貨幣価値に直すと数億円はしたのではないかという。一方、船員長屋は六畳一間に台所がついているくらいの小さな建物だった。たまに遊びにいくと、狭いなあ、暗いなあという印象を持った。彼らの船上での寝場所も畳一畳。それが三段に重なっていて、なかなか寝返りを打てないくらい狭苦しい寝床だった。
 そうした漁村で実家の雑貨屋は裕福なほうだった。いつも車で燃料を配達してまわっている父親は穏やかな人柄で、柚原少年は父の手伝いについていくのが好きだった。父親とゆっくり話ができるからだ。どんな質問にもちゃんと丁寧に答えてくれる父親だった。父から一度も荒い声をかけられた覚えがない。
 他に田畑の手伝いもあった。柚原さんの家は、商売で貯めた金で少しずつ土地を買い、農業もしていた。学校から帰ってくると、すぐにどこそこの田んぼへ行けと言われる。実際に行ってみるとすでに親たちが働いているのが常だった。お年玉含めて、親からお小遣いは一銭ももらったことがなかった。
 海の上に板張りの土俵を浮かべたのはお祭りの時だ。板を貼り合わせて4畳半くらいの土俵をつくり、男たちが相撲をとるのを岸辺から眺めた。
 のちに市場に土を盛った土俵がつくられ、祭りの日にはわざわざ本職の行事を金を払って呼んだ。「だから比較的、魚がいっぱい獲れて地域は潤っていたのかな」。
 柚原さんが語る幼少年期の思い出は、私をほとんど恍惚[こうこつ]とさせた。海辺の集落での日々、魚の干物を齧[かじ]りつつ遊びまわる子どもたち、港を出てゆく北洋漁船、ひなびた通りにぽつんぽつんと並ぶ船員相手の飲み屋といった情景が、不可解なまでの切なさと鮮やかさを伴って脳裏に湧き上がり、私をノスタルジアの海に溺れさせた。1969年に生まれ、都市化の進んだ首都圏郊外で育った私には、柚原さんの語るような子どもたちの遊び方やコミュニティのあり方は、まったく未知で未体験のものである。にもかかわらず、というより、だからこそ、自分の実体験を少し遡った失われた日本がそこにあるように感じられてしまう。

 そうした漁村での日々、柚原少年が夢中になったのは天文だった。

教科書で習ったやつで北斗七星を5倍伸ばすと北極星が見つかるというのがあるじゃないかですか。あの図を習った時に、うちの親父と薪とか炭を配達して暗くなった空を見上げて、あれが北極星なのかと見つけたんですよ。それですごいなあと感動しちゃって。それがきっかけで夜、星を見る。例えば星座早見盤といって、その時、2、3000円したと思うんで、親戚からもらったお年玉を必死で貯めて買ったんですよ。なにせお小遣いがもらえないから。

 柚原さんはもともと理科と社会が好きだった。子どもたちで腕白に遊んだり、畑仕事を手伝ったりする日々の中で、柚原少年はいずれ星の研究をしたいと夢見るようになる。

大学時代、新任教師時代

 1971年にK大学の地学関係の学科に入学。しかしそこは星の研究をする場所ではなかった。代わりというわけではないが、たまたま入った研究室で堆積学に魅せられた。「川が氾濫すれば東京側に荒川とか多摩川の泥が来るじゃないですか。それが自然に溜まっていって何万年何十万年かかると地層ができるわけですよ。その地層のできかたを研究するのが堆積学。そこでやってる調査みたいのを一緒にやらないかって言われておもしろくなって」。
 学生運動の高揚のピークは過ぎていたが、左翼的な運動はまだ身近にあった。だが勧められてマルクスを読んでも今ひとつ乗り切れなかった。「いわゆる革命運動というかな、政府を倒す暴力革命論ってあるじゃないですか。そういう風に暴力革命したって人の気持ちは変わるわけじゃないから、いまいちピンと来なかったんですよね」。「日本はどんどん豊かになっていったからそれなりに保守化したわけでしょ。だからまあこれくらいでいいやという気持ちになっちゃって、いくら革命が大事だとか、万国のプロレタリアートいったって、このぐらいでいいやみたいなものが多くなっちゃった」。
 柚原さんは大学院に進学したものの目標を決められず、修士課程を中退して相模原市の教員となった。教職免許は学部時代にとっていた。

──長男が東京の大学に行くことについてはお父さんお母さんはどういうスタンスだったんですか?

なぜかね、何も言わなかったですね。

──お金出すわけでしょ?

そうそう。だからお金出さないよなんて言わなかったし。受けるんだったらこの大学とか、こういう学科にしなさいとか全く言わずに受けさせてくれたし、その後もお金出してくれたんですよ。

──信頼されてた?

信頼っていうかね、向こうも困ったんじゃないですかね。どうやって長男を地元に帰って来れるようにするか。教員になったあとに、市役所受けろって、実は言われたんですよ。勝手に願書出して。それでこの日に帰って来いって。

 実家の雑貨屋商売はだんだん傾きつつあった。だからこそ、長男の柚原さんに市役所の職員になって家を守ってほしかったのだろうという。柚原さんは試験は受けたものの、本気でないせいもあって合格しなかった。
 故郷の漁村を支えていた北洋漁業は崩壊しつつあった。理由は、1976年にアメリカとソ連が沿岸から200海里を排他的経済水域と宣言し、他国の漁船の操業を禁じたからである。北洋船を幾隻も持つ船主は村の富裕層だったが、柚原さんが大学生だったころから、船の事故や不漁続きで潰れていく家がたくさん出るようになった。
 柚原さんが教員という職を選んだのは、そこでなら働きながら好きなことができるだろうと思ったからだった。好きなことというのは地学の研究である。「地学ってのは物理とか化学みたいにでかい機械とかいらないんですよ。物質の調査だと、ガスクロノマトグラフィーとかね。そういう何百万円もするような機械はいらないです。山の中歩いて、石カンカンと叩いて取ってきて、それを削ってここに化石が入っているとかね。そういう世界だし、堆積学というのは川にどんな石が入っているかとかやってたんで、いわゆる教員でも研究論文が書けるんです」。
 柚原さんが顧問をしていた中学校の科学部は、日本学生科学賞の県代表に二度なっている。生徒たちの研究発表の優秀さが認められてのことだった。
 けれど、新任教員である柚原さんを驚かせたのが、学校の生徒たちが荒れていることだった。そこは一学年13クラスもあるマンモス校で、教室に詰め込まれた生徒たちの雰囲気は殺伐としている。地方から出てきた貧しい家庭なども多く、非行やいじめに走る生徒が多かった。柚原さんは育った漁村で、いじめを体験したことはなかったし、貧富の差はあったのだが、子どものころはほとんど意識しなかった。柚原さんは自分が育った環境とはまったく違う教室の様子に大きな衝撃を受ける。しかし、ベテランの教師たちは、生徒たちの前でいい顔をするものの、本気で逸脱しがちな教え子を心配しているようには見えない。口先では「お前たちのことを心配してるんだぞ」などと言いながら、職員室に帰ったら、あいつらに何言ったってわからねえんだよ、などと口にする。そこには、生徒一人ひとりがどのような状況にあり、家庭内にどのような問題を抱えているかという視点が欠けていた。
 柚原さんは、若手教員たちと、酒を飲んではどうしたら学校を変えられるか議論するようになった。どうしたら荒れた生徒がいい生徒になるのか、生徒とどうしたら本音で話し合えるのか。そうした日々の中で出会ったのが、全国生活指導研究協議会の「班・核・討議づくり」という考え方だった。
 全国生活指導研究協議会とは、小中学校の教師と教育研究者によって構成された生活指導方法の研究会である。日教組に所属する教師らによって1959年に結成され、全国に支部と機関誌『生活指導』を持っている。その考え方の特徴は学級を「民主的」な討議を通じて、「自治的集団」へと高めていこうとするところにある。そのために、「班」が重視される。つまり授業でも、放課後のレクリエーションでも、自治的な班活動を行うことで、班を積極的な学習集団とし、その班が集まって自ら学び、行動していくようなクラスをつくろうというのだ。
 柚原さんは熱心に研修会に参加したり、自分の学校でも実践したりするが、ここでもだんだん限界を感じていく。

班・核・討議づくりってものがクラスをまとめるための手段化してしまっているのではないかなあと。リーダーを育てて、クラスがまとまると行事もうまくできるし、いいクラスって評価もされるし、子どもも満足するからそうなんだよって方向だし。今でもいいと思うんですよ。悪くないことはまちがいないんだけども、それでも落ちこぼれるやつっているじゃないですか。やっぱり障害を持ってる子とか、学校に来れない子とか。そういうのはそれでは解決できないなあって思ったのかもしれない。

 目の前の荒廃した教室をどう立て直したらいいのか? 学校に絶望して非行に走る生徒たちとどう向き合ったらいいのか? 柚原さんの長い模索の時期が始まる。

 

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著者略歴

  1. 杉山 春(すぎやま・はる)

    一般社団法人てとてと代表理事。東京生まれ。ルポライター。児童虐待、家族問題、ひきこもり、自死などについて取材してきた。著書に『満州女塾』(新潮社)、『ネグレクト 真奈ちゃんはなぜ死んだか』(小学館文庫 小学館ノンフィクション大賞受賞)、『移民環流』(新潮社)、『ルポ虐待:大阪二児置き去り死事件』(ちくま新書)、『家族幻想 ひきこもりから問う』(ちくま新書)、『自死は、向き合える』(岩波ブックレット)、『児童虐待から考える 社会は家族に何を強いてきたか』(朝日新聞出版)など。公営団地内で子どもや母親の居場所を仲間と一緒に運営している。

  2. 倉数 茂(くらかず・しげる)

    小説家、日本近代文学研究。著書に『私自身であろうとする衝動 関東大震災から大戦前夜における芸術運動とコミュニティ』(以文社)、『黒揚羽の夏』(ポプラ社)、『名もなき王国』(ポプラ社)、『あがない』(河出書房新社)など。現在ウェブで連載しているものに、「再魔術化するテクスト カルトとスピリチュアルの時代の文化批評」(https://note.com/bungakuplus/n/n720620af6f98)。東海大学文芸創作学科准教授。

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