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居場所がうまれるとき~団地の「語り」から見えてくるもの

連載をはじめるにあたって

「てとてと」と出会う

杉山 春

 「てとてと」の活動での出会いは面白い。
 いつの間にか、そんなことを思うようになった。「てとてと」は、神奈川県相模原市にある公設団地の集会場で、私が仲間たちと月に2回開催している、地域の子どもたちと大人たちの居場所だ。今年で7年目に入った。
 当日旗を立て、会場を開くと、地域の子どもたちが集まってくる。第2水曜日の昼間はおもちゃなどで遊び、おやつを用意する。夜は勉強会を開催する。第4水曜日は、夜の勉強会のみだ。最近では、子どもたちの数は20名から30名ほどにもなる。
 スタッフは、一般社団法人のメンバーとボランティアの方たち。元教員や学生たちなどや、子どもたちの親や姉たちも手伝ってくれる。地域の社会福祉協議会から紹介されてくる人もいる。なんといっても集会場を気持ちよく貸してくれる、団地の理事会の皆さんの好意に支えられている。
 私がこの場所を始めたのは、出会いが出会いを呼んでのことだ。

 フリーランスのライターとして、本や雑誌の記事を執筆し、会報誌の編集などをしていた私が、「てとてと」の前身とも言える子ども若者の居場所づくりの活動を始めたのは、2012年の春だ。今は亡き夫が職場のストレスから鬱になり、休職した。私は安定した収入が必要だと考えて、生活保護家庭の子ども若者たちの居場所づくりや学習支援に携わるNPO法人の職員になった。2年間働いたが、そこで、70組以上の親子と出会った。その多くが母子だった。
 そのころは、ライターとしては、2010年7月に大阪市西区で、23歳の母親が、二人の幼い子どもを風俗店の寮であるマンションの一室に閉じ込めて亡くした事件の取材を終え、本を書こうとしていた時だった。夏の暑い日々、幼い子どもたちは50日間放置され、その体の一部は溶けていた。私としては2冊目の児童虐待死事件の本だった。
 事件を取材して学んだことは、人は追い詰められると、共同体内での自分の価値を守るために、他者を攻撃したり、力を及ぼしやすい人を自分の支配下におこうとしたりするということだった。それは暴力の構造の1つの原型だ。当時も今も、家庭は1つの「共同体」なのだと、私は考えている。
 NPO法人の職員としての2年間、私は母が娘を支配し、自立する機会を奪う様子を繰り返し見た。女性たちは、仕事も、配偶者やパートナーとなる男性も、健康も、若さも、美貌も、全て奪われている。自分には「価値がない」と考える時、女性たちは思いのままに操れる娘をいつまでも手元に置いておきたいと思うことを知った。剥奪された母親たちは、わが子を自立させようとはしない。親とは子どもの自立を願うものだと信じていた私には、驚きだった。親子とは共同体の権力構造なのだ。
 「母」とは、社会の一員であるための甘美な役割だ。
 その世界と事件を重ねて、私は、『ルポ 虐待 大阪二児置き去り死事件』を書いた。
 事件では、子どもを手放せなくなった母親は、風俗店の寮である単身者向けマンションに閉じ込めた。
 そのようにして、人のあり方を権力構造を通して見ることに、私は慣れていった。
 21世紀、トラウマという言葉が広がり、ジェンダーという科学的な視点が日常に持ち込まれるようになった。「権力構造」という視点を得ると、どこに暴力が偏在するのか、わかりやすい。ある意味、暴力から身を守りやすいとも言える。それは確かだ。そのように新しい視点を得て、世界をわかった気になった。

 一方、児童虐待死をテーマに何冊かの本を書く中で、虐待死をさせてしまった親たちが、子ども時代に深い孤独の中で生きていたことを繰り返し学んだ。他者にSOSを出せないのは、他者を信頼できないからだ。

 夫が回復し、ライターとしての仕事をもう少し続けたいという思いもあり、NPO法人を退職した時、間に入ってくれる人がいて、現在の活動地域の市営団地の管理組合の方から、団地の子どもたちについて、相談を受けた。この地域には複数の公営団地があるのだが、夜、10代の子どもたちが徘徊し、パトカーも来る。エレベーターへの放火もあった、という話だった。子どもたちが落ち着くために何ができるかと問われ、居場所をつくったらどうかと提案した。家にいることがつらい時、徘徊しなくても人に出会える場所があるといいと思ったのだ。人を信頼するという体験を小さい時に重ねていれば、大人になって困った時に、人を頼れるかもしれない。そんな思いもあった。
 2014年7月に市営団地の管理組合の方たちと居場所を始めたが、さらにその居場所にも来づらい子どもたちがいることを知った。当時知り合った方たちに声をかけ、隣の県営団地の集会場で居場所を始めた。それが、「てとてと」だ。2018年2月のことだ。その後何度か、「てとてと」としてシンポジウムを開催したが、そこに参加してくださったのが、今回ご一緒にこのインタビュー調査を手掛けてくださる倉数茂さんだった。
 「てとてと」を開催して気がつくのは、当たり前のことだが、「人は構造の中だけで動くわけではない」ということだ。一人ひとりには、想像を超えるバラエティがあり、力がある。人はいつも私の予想を裏切る。さらに、人は変化する。

 その場をつくりたい、守りたいと願う時、人は行動する。子どもであっても、大人であっても。手伝いを申し出る子。手伝いの調理を必ず引き受けてくれる大人。どんなに暴れていても、限度を超えないやんちゃな子。思い切り遊びたい時に、どの方向にボールを投げたら他の子どもの邪魔にならないかを工夫する子。テーブルを拭くなどの役割を果たそうとする高校生。小学生がつくったアイロンビーズに丁寧にアイロンをかけてくれる社会人1年生。割り算と掛け算の関係を理解した時に、驚きと喜びの声をあげる小学生。ゾンビ遊びに大人を招き入れ、脅かそうとお互いに協力し合う子どもたち。
 人は過ごしたい居場所を守る。そのようにして社会は生まれ、動いていく。人は良いものをたくさん隠し持つ。さらにその周囲には、その場を見守る人たちがいる。
 「てとてと」は、私に人への信頼をもう一度呼び戻してくれた。

 「てとてと」を一緒に支える倉数さんは、仕事で遅くなっても必ず駆けつけてくださる。それがどんなに心強いことか。そんな倉数さんと、「てとてと」とその周辺の人たちの声や姿を皆さんに届けたいと願うようになった。
 そんなわけで、「てとてと」とその周辺で私たちが出会った人たちの声をお聞きください。

* * *

自分の知らない「ふつう」を探る

倉数 茂

 神奈川県相模原市のS団地の集会所で子どものための「居場所」をやっている。月に2回、近所の子どもがやってきて、昼は遊び、夜は勉強する。簡単な食事も出す。
 居場所の名前は「てとてと」という。始めたのはルポライターの杉山春さんで、自分は4年前から手伝っている。去年、一般社団法人になった。
 スタッフはみな別の仕事があるので、「てとてと」でできることは限られている。もっと活動を充実させたい気持ちもあるのだが、現実には割ける時間も使えるお金もまったく不十分だ。それでも毎回20人前後の子どもたちが集まる。年齢は4、5歳から18歳くらいまで。みな友達や遊ぶ場所を求めて口コミで集まった子たちだ。
 居場所とは、「自分がここに居る」「ここに居てもいい」と思える場所のことである。言葉をかえれば、学校や家庭でそう感じることができずにいる人たちのために居場所はある*1。

*1 「居場所」という言葉が今のような意味で使われるようになった最初は、不登校の子たちのためのフリースクール・フリースペースにおいてだったという(阿比留久美『孤独と居場所の社会学──なんでもない〝わたし″で生きるには』大和書房、2022年)。東京都福祉局は、「子どもの居場所創設事業」として「子どもやその保護者が気軽に立ち寄れる地域の「居場所」を創設し、子どもに対する学習支援や保護者に対する養育支援、食事提供をはじめとした生活支援を行う」としている。

 「てとてと」も始まった時はそうだった。地域にうまく馴染めない人たちを念頭に置いていたのだけど、実際に始めてみるといろいろな人が出入りするようになり、より混沌としてきた。今では誰がどういう気持ちで来ているのかはっきりわからない。それでも毎回飽きずにやってくるのだから、何らかのニーズは満たしているのだろう。
 初めて「てとてと」にきた人は、子どもたちが大声をあげながら走り回っているのを見て目を白黒させる。勉強の時間もあるのだが、真面目に机の前に座っている子の方が少ない。ハイティーンはスマホを見ながら同世代とのおしゃべりに忙しい。よく言えば活力がある。悪く言えば、お行儀が悪い。
 S団地は1970年代に竣工した県営住宅で、鉄道のターミナル駅からはバスで20分以上かかる場所にある。周囲には畑が広がり、ぽつりぽつりと倉庫や中古車販売店などがある。団地自体も老朽化が進んでいてお世辞にも綺麗とは言えない。
 元気すぎるほど元気でわんぱくな子たちも、知り合って時間が経つと、だんだんもっと複雑な濃淡が見えてくる。学校に馴染めず不登校だったり、何らかの障害があったりと、いろいろな困難を抱えていることが多い。生活保護の家庭も珍しくない。
 外国ルーツの子どもが多いのも特徴だ。国籍を尋ねることはないのではっきりとはわからないが、体感では6割以上。ベトナムやカンボジア、中国系などが多い。総じて「てとてと」参加者は若年ながら厳しい環境で生活していると言えそうだ。
 活動を長く続けていると、徐々にお母さん、お父さんともやりとりが生まれてくる。団地の集会所を借りている団地の自治会とも関わる。少しずつ子どもと大人の「生活」が見えてくる。
 その過程でいくつも新鮮な驚きや不思議を感じることがあった。
 なぜ外国人ルーツの子がこんなに多いのか、どうして小さな子でもスマホやiPadを持っているのか、子どもたちのネットワークがやけに広くて密ではないか、夜遅くなってもなかなか帰らないが、夕食はどうなっているのか……。ささやかといえばささやかな疑問なのだが。
 これは私がよそものであるせいもあるだろう。
 「てとてと」スタッフにS団地の居住者はいない。いわば外からやってきた人間がいろいろな経緯があって、ここで「居場所」を始めた。だから団地のコミュニティは未知の世界だった。だが時間が経つにつれ、だんだん自治会をはじめとする様々なつながりが生まれ、地域で生きている人々の姿が見えてきた。すると、それがしみじみと面白いのだ。
 とりたてて珍しいようなことがあるわけではない。ふつうの人々のふつうの生活。しかし、自分の知っているものとはどこかちがう……。

 自分が子どもだったころ、世の中はもっと平板だったと思う。子どものころ、というか、年代で言うと1990年代の中頃までだ。「一億総中流」の幻想がまだ残っていたのだろう。隣の家も、その隣の家も、大体自分と同じテレビ番組を見て、同じようなものを食べているのだと思っていた。自分も、自分の友達も、父親と同じように、大学に進学してどこかの企業に入り、どこかで結婚して、家を買って、定年まで勤め上げるのだろうと思っていた(そして、その未来に絶望した)。
 自分は典型的な中流家庭の出身である。父親はサラリーマン、母は専業主婦。家はかろうじて通勤圏内の郊外で、父は毎朝2時間近く満員電車に揺られて出勤し、子どもの自分が寝るころになって帰ってきた。昭和の終わり、成人は結婚して子どもを一人か二人もうけるのが当然だと思われており、同性婚やアセクシュアルがメディアを賑わすこともなかった。男なら大人も子どもも皆ひいきのプロ野球球団があって、ペナントレースの現状も承知していた。そういうのが「ふつう」だと思っていた。
 もちろん、それが中流子弟の世界観に過ぎなかったことは今でははっきりしている。性差によって、階層によって見えていた風景は全然違うだろう。「一億総中流」なんてものは実現したことがなく、いつでも様々な格差と差別があった。性差別は今以上にひどく、性的少数者や在日外国人は認識すらされていなかった。そこに欠けていたのは多様性への認識だった。
 しかし──だからこそ──当時は「ふつうの人生」なるものを思い描くことは比較的容易だったのではないだろうか。無論それは抑圧と裏腹なのだが。
 ここでいう「ふつう」は典型的(ティピカル)の意味である。高度成長期からバブルにかけて日本人は典型的(ふつう)のライコフコースやライフスタイルを思い描くことができた。だからこそそれに「反抗」することも可能だった。
 それに比べて今はどうだろう。
 おそらくここ20年で、日本人の典型的なライフコースは崩れ去った。ではその分私たちは自由になったのだろうか? 選択肢が増えてより望みの人生を送れるようになったのだろうか?
 中学受験について考えてみよう。昔は私立中学に行くのは例外的なことだった。今は公立と私立のどちらかを選べるのだから選択肢は豊かになった。しかし周囲の多くが私立受験を選択するような小学校であれば、なぜ私立を受験しないのかという有形無形のプレッシャーがかかる。学力・経済力、その他の条件で排除と選別が行われ、気がつけば特定の立場に立たされている。
 中学受験に取り組むか、取り組まないか、これ自体がなかなか大変な選択だ。しかし中学受験が一般的ではない階層からはその苦しさは理解されないし、むしろ贅沢な悩みとして嫉妬の対象になるかもしれない。逆もまた然り。私立中学自体がほとんど存在せず、大学だってはるか遠方の大都市にしかないような地域はたくさんある。都市部の人間に、そうした家庭の気持ちがわかるだろうか。
 私には、我々は「典型(ふつう)」から解放されて自由になったのではなく、より小さな世界に閉じ込められてしまったように感じる。大卒には大卒の、中学受験経験者には受験経験者の、地方居住者には地方居住者特有の世界があり、その外側には想像力が届かない。そういうことだ。
 これは対立とは違う。対立しているのなら相手は見えている。しかしそれぞれが自分の属性や生活環境に閉じこもり、似たような人々としか交流しないのなら、違う世界の人々の姿は見えない。見えても目に留まらない。
 インターネット以降、趣味や関心が島宇宙化したと言われるが、ライフコース自体が島宇宙化しているのではないか? そして自分のところから見えているものがすべてだと思い込んでしまう。
 「てとてと」のあるS団地の人々が見てきた風景に自分は興味がある。「てとてと」にやってくる子どもたち、ティーンたち、その家族、関係者、その人たちがどのように育ち、何を感じながら暮らしているのかを知りたい。今の日本社会がどう見えているかを聞いてみたい。それは自分の生きている島宇宙の外への旅になるはずだ。
 そこで私と杉山さんで、「てとてと」で関わる人々に生活史調査をしてみることにした。
 生活史調査は、一人の人の生まれから現在に至るまでを、3時間程度の時間で聞かせてもらう調査である。もちろん話したくないことは話さなくて構わないし、テーマも限定しない。聴き手の役割はときどき質問を投げかけること、じっくりと耳を傾けることである。
 他人の生い立ちを時間をかけて聴くというのは不思議な体験だ。
 生活史のインタビューを行うと、親しいわけではない人の親子関係やどんな仕事をしてきたかをじっくり聴くことになる。ごく当たり前のことだが、1、2時間で人生のすべてを語ることができるわけがない。どれほど長時間話を聞いたとしても、それは話者の人生の「断片」であり「一面」に過ぎない。にもかかわらず、生活史の語りを聞くと語り手の人生の輪郭が確かに見えた気持ちになる。それがすごく楽しいのだ。ありふれたはずの人生が驚くほど意外性と曲折に富んでいることを改めて気づかされ、人間っておもしろい!という気持ちになる。
 この連載で取り上げる人々はみな典型的とは言えないが、ノーマルで「ふつう」(オーディナリー)である。ふつうの人々がどう生きてきたのか知りたい。次回から、人々の具体的な生活史を掲載していく。

 

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著者略歴

  1. 杉山 春(すぎやま・はる)

    一般社団法人てとてと代表理事。東京生まれ。ルポライター。児童虐待、家族問題、ひきこもり、自死などについて取材してきた。著書に『満州女塾』(新潮社)、『ネグレクト 真奈ちゃんはなぜ死んだか』(小学館文庫 小学館ノンフィクション大賞受賞)、『移民環流』(新潮社)、『ルポ虐待:大阪二児置き去り死事件』(ちくま新書)、『家族幻想 ひきこもりから問う』(ちくま新書)、『自死は、向き合える』(岩波ブックレット)、『児童虐待から考える 社会は家族に何を強いてきたか』(朝日新聞出版)など。公営団地内で子どもや母親の居場所を仲間と一緒に運営している。

  2. 倉数 茂(くらかず・しげる)

    小説家、日本近代文学研究。著書に『私自身であろうとする衝動 関東大震災から大戦前夜における芸術運動とコミュニティ』(以文社)、『黒揚羽の夏』(ポプラ社)、『名もなき王国』(ポプラ社)、『あがない』(河出書房新社)など。現在ウェブで連載しているものに、「再魔術化するテクスト カルトとスピリチュアルの時代の文化批評」(https://note.com/bungakuplus/n/n720620af6f98)。東海大学文芸創作学科准教授。

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