外国ルーツの子どもたちが学ぶ場所
倉数 茂
同和教育との出会い
柚原さんが教師として配属された相模原市の中学校は、過酷なところが多かった。たとえばある中学では、天井の石膏ボードが下から棒で突いてすべて割られていた。生徒によるいたずらである。県北部で、卒業式後の施設修理費が一番かさんだ中学校だったという。窓のガラスもたびたび割られた。いじめや暴力の横行する学校の生徒の家庭は何らかの問題を抱えていることが多い。貧困、家族の不和、病気、失業など。
地学青年であった柚原さんは、もともと教育に深い関心があったわけではなかった。教師になったのは好きな理科の授業をやりながら、自分の研究をコツコツと続けたいと思っていたからだ。ところが実際の教室の惨状を見て、なんとかしなければならないという思いに駆られるようになる。しかし周囲の教師の大半は、生徒たちの学校での振る舞いという表層的な部分しか見ていない。
どうしたら荒れている生徒一人ひとりと向き合い、相手を理解することができるのか、いろいろヒントを求めて、研修や研究会に参加した。全国生活指導研究協議会の「班・核・討議づくり」がいいのではないかと思ったこともあった。しかし、何か違う。
ある時、地区教組の「人権と民族分科会」というのに行ってみた。それが同和教育と呼ばれる運動との出会いだった。
「大和市の教員で、自分のクラスの子どもの、家庭がぐちゃぐちゃな家に家庭訪問に行っては親の話を聞いたり、家で数学を教えたりという報告を聞いて、全然別世界の話と感じたんですよね」
「クラスの中で一番困ってる人、障害を持ってたりとか、不登校でどうしたらいいかわからないとか、そういう子に寄り添う、その子の話を聞いて、元気が出るようなやる気の起こるような授業をやるとか、クラス運営して徹底して差別について考えさせるとか。クラスを一つにまとめればいいってことではなくて」。
同和教育とは、同和地区と呼ばれる被差別部落出身の生徒たちへの差別と偏見を撤廃することを目指す教育の総称である。中世から身分と職業を固定され、「穢多」「非人」などと呼ばれて差別されてきた人たちがいる。明治の解放令により、身分制度はなくなったが差別は残り、江戸時代よりかえってひどくなったとも言われる。1950年代より、被差別部落の多い西日本を中心に、差別を見てみぬふりするのではなく、学校でも積極的に取り上げ、批判していこうという運動が広がった。
戦前まで、同和地区の住人にはろくに学校に通えず、読み書きも不自由な人が少なくなかった。1965年、諮問機関の同和対策審議会が「寝た子をおこすな」式の考えでは同和差別はなくならないと答申したのを受けて、政府は同和対策特別措置法(1969)を施行して本格的な差別解消に乗り出す。教育現場でも、差別問題が積極的に取り上げられていく。
「今日もあの子は机にいない」というのが一つのキャッチフレーズだったんですね。
つまりクラス担任になってみると、なぜかあの子は今日も休んでる。どうしたんだろうな。学校に来ても無口で何を言われていじめられても反論しない子がいると。家庭訪問に行ったらそこが実は部落だったと。部落の中で実はその子はよくしゃべるし、弟と妹の面倒をよく見てる。
教師は基本的に学校での子どもの様子しか見られない。すると、単にやる気のない子、勉強のできない子、反抗的な子のようにしか見えない。しかし実際にはその子を囲む差別の現実があり、差別ゆえの貧困、リソースの少なさがある。
実は私も、てとてとに来て、人一倍元気に、活発に遊んでいる子どもが、不登校だと聞いて驚くことが何度かあった。自分の中に、不登校になる子は内気でコミュニケーションが苦手に違いないという思い込みがあった。だが実際には、子どもの「性格」というのは、その場の人間関係の関数である。学校では萎縮してしまう子でも、仲良しの前では元気になる。安心できる大人にならガンガン突っ込んでくる。反対に、緊張を強いられる教室では勉強に自信が持てないとか、周囲からからかわれたといった理由で、萎縮して「できない子」や「しゃべれない子」になってしまう。外国人の子どもでもそういうケースは多い。そもそも日本の学校には、周囲とどこか違う生徒をことさらに特別視する空気があるからだ。
同和教育(解放教育ともいう)の最盛期は1970年代から80年代にかけてだ。特に関西では大きな力を持ち、部落出身者がゼッケンをつけて学校に行く「ゼッケン登校」や、部落出身であることをクラスメイトの前で宣言する「立場宣言」といった過激な実践も盛んに行われた。いずれも、自らの出自に誇りを持ち、差別に対して前向きに闘っていくという趣旨だ。
部落解放同盟と連携していた同和教育には、保守派の教師、また解放同盟と対立する共産党系の教師の反発もあった。学校はそもそも現場に外側の「政治」が入り込んでくるのを嫌う。そして21世紀に入ると、同和対策立法の期限が切れたこともあって、全国の同和教育運動はだいぶ退潮している。しかし肝心なのは、「しんどい子に注目して寄り添う」という同和教育の考え方が、被差別部落の子だけではなく、在日朝鮮人、障害児、母子家庭などにも向かうようになったことだ。なんらかの理由で低学力に陥っている子には背景がある。その背景まで踏み込まねば、問題を解決できない。同和教育を通してこうした考え方が広まった。
柚原さんは同和教育と出会ったことで、自分の教育に対する考え方の芯ができたという。今、外国人の子どもの教育のために動いているのはそこからきている。
相模原市の外国の子どもたち
39歳の時、新しく着任した中学で、以前日本語ボランティアをしていた時会ったペルー出身の生徒と再開する。
俺のこと覚えてるって聞いたら、うんって、こううなずくんですよ。その子は白系ロシア人のお母さんなんですよ。その子は入ってきた時には素直だったんだけど、どんどんいじめも酷いから、タバコも吸うようになったり、喧嘩するようになっちゃったりしたんだけど、僕は同じ学年じゃないから関われないんですよね。
で、関われないけど何とかしなきゃなと思ってて、その時に文化祭、学校祭の時に教頭なんかにも言って、あいつらの居場所をつくりたいなと思ったんで、その当時ペルー出身の子が3、4人いたんですよ。その子たちを説得して廊下にペルーのコーナーをつくったんですよ。
つまりペルーの街のDVDとかね、ペルーの言葉の簡単な紹介とか、そんなコーナーを一緒につくったんですよ。学級発表とかそういうのをやってる裏でさらにそういうコーナーをつくったりして、その子たちはすごく嬉しかったみたいで、終わった時は打ち上げをやってね、本当に僕も楽しかったです。
でも結局ね、彼自身が変化しても周囲の態度は変わらなかった。イジメももちろん元に戻っちゃって。
相模原市にはもともとインドシナ難民と、戦争終結時に満州に残された中国残留邦人帰国者がいたが、現在ではインド、インドネシア、ベトナムの子が増えているのだという。柚原さんの体感ではタイの子どもは減っているが、フィリピンは増えている。スリランカの子も最近見かける。
相模原市や大和市にインドシナ難民の二世、三世が多いのは、大和市に難民定住促進センター(1980~1998)があったからである。1981年に難民条約に加盟した日本は、2005年までにベトナム、ラオス、カンボジアからの出国者を「インドシナ難民」として1万1319人を受け入れた*1。
*1 遠藤允『難民の家』講談社、1990年
てとてとにも、ベトナムやカンボジア籍の子どもがよくやってくる。その子たちは、日本で生まれて育っているので日本語の会話は達者だ。しかし勉強を見ていると言語力の弱さを感じることがある。言語習得研究では、会話などの日常言語は2、3年で習得されるが、授業の理解に必要な学習言語はその数倍かかるとされている。子どもは日本語話者であるとしても、親たちの会話は母語であることが多い。家庭内に日本語の本はなく、幼いころに日本語の読み聞かせをされたこともない。親が日本語話者である家庭の子どもと比べるとさまざまなハンデがある。
「移民」の子どもたちは、たいてい親より早く、移住先の言葉をマスターする。だからこそ、幼いころから親を助けて通訳者・仲介者として振る舞うことも多い。病院に付き添って医者の言葉を翻訳する、役所の書類を説明する、などだ。しかしこのような関係は子どもの心に葛藤を引き起こすとも移民研究は指摘する。通常であれば、親は庇護者であり、子どもは親に守られるのに、その役割が逆転してしまうからだ。子どもが安心感を持つためには親に守られているという感覚が不可欠だ。安心感の不在が反抗につながることも多い。
「移民」の子どもたちは、二つの文化のあいだで引き裂かれる存在でもある。両親は出身国の文化を保持したいが、子どもは同世代の友だちとの付き合いから、日本文化を吸収する。例えば、インドシナの家庭では一般にしつけが厳しいのだが、日本で育った子どもは親の態度を横暴だと感じやすい*2。同調圧力が強く、見た目や生活習慣で差別されがちな日本社会で「移民」の2世、3世はさまざまなハンデや葛藤を抱えつつ生きている。
*2 志水宏吉・清水睦美『ニューカマーと教育──学校文化とエスニシティの葛藤をめぐって』明石書店、2001年
てとてとに来ている外国人の子どもたちを通して親の姿が垣間見えることがある。子どもたちを迎えに来たり、こちらが子どもたちを家まで送っていったりして、二言、三言言葉を交わす。親たちのほとんどは、子どもたちと違ってあまり日本語が達者でないように見える。おそらくなんらかの肉体労働に従事しているのだろう。柚原さんによれば、そうした人たちは、80年代、90年代に小学生として親に連れられてやってきた難民たちなのだという。それから30年から40年が経ち、その子どもたちがてとてとに来ている。
──親たちはほとんど日本語は話さないですよね。
いや、そんなこともないですよ。仕事の関係もあるからしゃべるくらいはしゃべるけど。でも読み書きはほとんどできないのが普通ですよね。ひらがなぐらいしかわかんないっていうのかな。
徹底的にいじめられてたから、勉強をする暇はほとんどなくて。
柚原さんの話で一番ショックだったのがこの部分だった。私は親たちは外国育ちであり、だからあまり日本語ができないのだろうと思っていた。しかし柚原さんによれば親たちは子どものころに日本に来て、日本で育っているが、初歩的なレベルの日本語しか身につけられなかったのだという。それは外国人の子どもたちを、学校や地域が受け入れず、放置してしまったからだ。「移民政策の失敗」ですよね、と私がいうと、「そもそも日本には移民政策が存在しないから」という言葉が瞬時に返ってきた。
政府は「移民」という言葉を回避して、多数の企業が外国出身労働者を雇用しているのを「外国人人材の活用」といった言い方で糊塗[こと]している。それは結局外国人を使い捨ての労働力とみなすことだ。労働者にも家族がおり、子どもがいるのに、そうした人たちが日本で生きていくための資源やサポートを与えていない。
日本には、外国からやってきた子どもたちをどのように教育していくかという公的な発想がずっと存在しなかった。もっとも、自治体や教育の現場で精一杯頑張っている人たちはいる。そういう人たちによってかろうじて外国人の教育は続けられてきた。
「神奈川県は外国人の高校進学率は日本の中で相当高い方。在県外国人等特別募集というのを神奈川県が初めてやったし、それはミーネット(認定NPO法人 多文化共生教育ネットワークかながわ)に集まっている高校の先生たちが働きかけて実現したんですよ」。
柚原さんは、市内の中でも、外国人の子どもたちが多い学校に行きたいと希望を出した。40代になっていた。そこで配属されたのが、てとてとのあるS団地近くのK中だった。
「クラスに1人2人いるんだよね。(前の学校では)学年にほんの1人2人だったのが、クラスに1人2人いて、全校で30名くらいの外国籍の子がいたの」「とにかく外国人が多いし、休んでる子もいるし、いじめられてる子ももちろんいるわけですよ。で、もちろんほとんどが勉強できないわけですね」
柚原先生は、そういう子たちに、一緒に勉強をやらないかと何度も声をかけていった。そういう声かけを2ヶ月、3ヶ月繰り返すうちに、だんだん相手も心を開いてくる。S団地の集会所を借りて勉強会するようになったのは28年前だ。それ以来週に1回、外国人の子どもたちの勉強を見る会を開いている。始めた時は自分一人だったが、今では複数のボランティアが手伝うようになった。
柚原さんが繰り返し口にするのは、市の教育行政、学校現場、教師たちの保守性であり事なかれ主義だった。
──外国の子ってどうしてなかなか学校に馴染めないんでしょうね?
やっぱり自分が異質だって感じられるような場所だからね、学校って。担任は学級がひとつにまとまるのがいいことだと思ってるし。
──でも学校に馴染めないから授業に身が入らなくて、学力がつかなくてますます学校に行けなくなって……
そうそう。悪循環ですよ。だからそういう子たちを周囲につなげるような担任の取り組みや、彼らが持っているいい部分を評価していくような授業とか、やり方はあると思うんだけどね。でも、現場では担任は時間的にとても新しい取り組みとかできないですから。
──なんとかしなければならないという気持ちは先生方にはあるんですかね?
そういう真面目な人は当然いると思ってるんだけど、でも大半はなにごともなく1年が過ぎてほしいという感じじゃないかな。
相模原市では、外国人の教育をどうするかとか研修会をやっても、参加者がなんだか熱がないんですよ。講師に対して質問も出ない。
東北の漁村から都会に出てきて、大学院を経て、中学校の教員へ。これだけ見たら、安定した恵まれた人生なのかもしれない。けれども柚原さんの職業生活は教室内の問題に目をつぶってやり過ごそうとする周囲との闘いの連続であったようだ。同和教育に共感し、学校のなかの差別を問題化し、外国人の生徒に積極的に関わろうとする柚原さんは、上から見ればいろいろと面倒な教師だったのかもしれない。しかしそういった体制順応をよしとしない個々の教員たちがいなければ、教室はもっと荒れていただろう。
「移民」の子どもたちの未来のために
とはいうものの、現場の教師たちは疲れ切っている。しかしそれならば校長なり教頭なり学校の上層部が、そして教育委員会や市政が、最終的には国家がきちんとこの問題と取り組み、予算と人員を配置するべきだと私は思う。だが政府は外国人労働者とその家族を包摂する必要から目を背けつづけてきた。一方ここ数年、ネットでインプレッションを集めるようになったのが外国人に対して憎悪を煽るヘイト言説だ。実情もよく知らないまま、外国ルーツの人々に憎悪をぶつけるような社会にはなってほしくない。
柚原さんは2024年6月に成立した相模原の人権条例(人権尊重のまちづくり条例)の話題を口にした。市の審議会の答申では、ヘイトスピーチに対する罰則が盛り込まれるはずだったのだが、実際に法文化された時に罰則規定がきれいに削られた。柚原さんは、学校がいじめ加害者を明示的な形で罰しようとしないのと似ているという。海外には、定められた規則に基づいて、学校当局が責任を持って、いじめ加害者に登校禁止などのペナルティを与えるところがある。日本ではクラス担任に対応が押し付けられ、しばしばうやむやになってしまう。社会にいじめやヘイトスピーチを「犯罪」として規定する意志がないのだ。
日本に居住する外国出身者をめぐる問題は今に始まったものではない。戦前まで「国民」であった在日朝鮮人は日本国憲法発布の前日に一方的に「国民」から(台湾出身者とともに)排除され、法的な保障から除外された。日韓条約締結後の帰国者も「特別永住者」となった。1970年代には中国残留邦人の帰国が本格化し、90年代には労働力不足に応じて日系ブラジル人の受け入れ拡大が進んだ。1993年には技能実習制度が創設され、多数の労働者がやってくるようになった。日本の少子高齢化が進むかぎり、これからも外国出身者は増えていくだろう。しかしこれまで日本にはそうした人々を包摂するために積極的に関与していく姿勢がなかった。とりわけ、子どもたちや女性をどう支援するかを考えてこなかった。
やや古いデータだが、文科省の調査によれば、2016年時点で日本語指導が必要だとされる児童の数は4万3947人に上っている。そのうち約1万人は日本国籍である。また公立高校に通っているものの中退率は9.61%で、日本語を母語とするもののほぼ8倍である*3。「移民」の2世、3世が充分な教育を受けられず、親と同様の低賃金労働に従事する構造が日本社会にとってプラスであるはずがない。外国出身者の子どもたちの教育は明らかに重要な課題だが、まだ充分な社会的注目を集めるに至ってない。
*3 望月優大『ふたつの日本──「移民国家」の建前を現実』講談社現代新書、2019年
柚原さんの主宰する学習教室を訪れてみた。寒さの厳しい1月の夜だった。てとてとも使わせてもらっている団地の集会所に、息を白く光らせながら小学生や中学生たちが次々にやってくる。それを数名のスタッフが迎え、机に座ってすぐに勉強が始まる。私も3年前にペルーからやってきたというカルロスの勉強をみることにした。カルロスが取り出したのは、中学校の国語の授業で使っている文法ドリル。開いたのは文節と文節の関係についてのページだ。「接続の関係」「並立語」「独立語」など、日本語を母語とする中学生でも悩みそうな問題に、一問一問粘り強く取り組んでいる。その真面目さと集中力に私はすっかり感心してしまった。
それでも問題文の中に「ほがらか」だとか「(池の)ほとり」という単語が出てくると、意味がわからないと頭を抱えていた。確かに、スペイン語を母語とするカルロスにとって覚えなければならない言葉はあまりに多い。
同じ部屋の中には、カンボジアから来た2人の男の子がいて、数学を勉強していた。まだ日本語がおぼつかなく、ついつい友達と母語でのおしゃべりが始まる。それをたしなめつつ、スタッフの先生がていねいに解法を説明する。
私はその様子を眺めながら、外国ルーツの子どもたちといっても本当に多種多様なのだとあらためて思った。肌の色も、滞日期間も、日本語の習熟度も、家庭の事情も異なる子どもたち。その子どもたちの頑張りを、柚原さんをはじめとする有志のスタッフが支えている。
この子たちの未来が明るいものであることを、心から祈らずにいられなかった。