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居場所がうまれるとき~団地の「語り」から見えてくるもの

鎧われる言葉たち、こぼれ落ちる言葉たち(1)──ボランティアを続けるということ

杉山 春

自己完結する言葉

 無料学習塾や子ども食堂といった民間の活動にとって、長期間関わるボランティアの存在は貴重だ。事情がわかっているので、困った時には頼りになる。Nさんはそんな役割を果たしている。てとてとと同じく、県営S団地の集会場で、毎週木曜日に開催される、外国につながる子どもたちを対象にした無料学習塾で10年弱ボランティアをしている。この連載でも紹介した柚木さん(仮名)が主宰している塾だ。
 肩までかかる長い髪、メガネをかけ、すらっとした29歳だ。大学3年生から、途中、日本語教師になるためにオーストラリアでインターンをしていた時期以外、ずっとボランティアを続けてきた。ティーンの集まる部屋でおしゃべりをしたり、勉強を教えたり、近くのパン屋さんから寄付されるパンを受け取って子どもたちに配ったり、いきいきと動いている。
 教師をしている妻との間に2歳になる男の子を育てている主夫であり、2年前からは中古のバイクを買い付けて、改修して売ることを事業化しようとしている起業家であり、自宅近くの宿泊施設を清掃するパート労働者でもある。
 学生ボランティアなどは、卒業までの期間限定で、それでなくても自分の都合で来なくなる。ボランティアはどうしたら続けられるかと質問すると、2度目に会った時、Nさんは次のように力説した。

ボランティアは仕事と同じように考えなくてもいいんです。行きたい時には行けばいいし、行きたくない時には行かなくてもいい。遊びたくなったら、遊びに行けばいいし、僕も子育て中なので、突然いろいろな予定が入ることもあります。それでも続けることが大事です。

 仕事に比べて、主体的に動ける範囲の広いボランティアは続けやすいというのだ。真剣に考えて話してくれたという印象があった。

 Nさんへのインタビューは、この連載の共同執筆者である倉数茂さんと、2度に分けて行った。2度目のインタビューをお願いした時、「根掘り葉掘り聞かれて嫌じゃないですか?」と尋ねると、Nさんはこんなふうに言った。

嫌といえば嫌かもしれない。でも、今まで自分は、頭の中で考えを決めて、それから人に話してきました。決めたこと以外のことは話さないので、(余分なことを話してしまって困るということはありません)。

 誰かと話をするときは、「自己完結」をしたうえで話すというのだ。会話の中で知った、新しい考え方や情報は、頭にインプットしておいて、後でそのことについて考えるそうだ。
 私の会話やインタビューについてのイメージは、「言葉のやりとりしながら、変化していく感情なども含めて自分を無防備に示す」というものだ。だから、他者に対して自分を解放していく楽しさや良さがある一方、言葉が滑って話しすぎてしまうことの怖さも感じる。
 だが、Nさんは他者に伝えるべき内容をきっちりコントロールしているという。私には、それは他者に対して鎧[よろい]をまとっているようにも思えるのだった。
 Nさんとのインタビューは不思議な感覚だった。Nさんはゆっくりと話し、断定的な言葉や強い言葉を使わない。相手を否定しない。相手と摩擦を起こさないよう、トラブルを回避しているかのようなのだ。良いことのようでもあるが、どこか主体的なNさんが感じ取れない。自分を隠しているかのような印象だった。
 とはいえ、Nさんは私たちの質問に、一つ一つ熱心に丁寧に答えてくれた。2度目のインタビューの最終場面でこんな言葉も聞かれた。

(何時間も話して)言語化することで、僕自身の性格だったり、感覚だったりを改めて確認できたので、この機会をもらえたのはラッキーでした。(言語化は)大事だと思っていて、(でも僕は)高校までは語彙力がなかったので、それができなかった。それは今の、S教室の外国につながる子どもたちにもすごく当てはまる部分で、語彙が少ない(だから、言語化できない)。僕がこれまで経験してきたことと重ねて、こうじゃないのっていうことを発見して説明して(社会とつなげて)あげたい。

 Nさんは、S教室の、言語化が不自由な子どもたちの痛みを自分に重ねて理解しているらしかった。自分なら経験者として助けられるのではないかとも感じているようなのだ。私たちと話すことで、ほんの少しでも自分を客観視できたのなら良かったと思うのだった。

トラウマは言葉を奪う

 私はこれまで児童虐待事件やDVに関わる事件について取材をしてきた。特にDV事件の取材で、DVとは身体的暴力だけではなく、支配とコントロールがその本質だと学んだ。
 何を暴力と名づけるかは、時代や文化によって異なる。私は「DV」について考え続ける中で、心理的DV、つまり相手を自分の価値規範の中に閉じ込め、精神的自由を奪うことは暴力の基本形だと考えるようになった。身体的暴力は暴力の一部だ。身体的暴力には、相手を加害者側の価値規範に従わせる力がある。
 2024年4月からは、DV防止法の改正により、身体的DVの被害者だけでなく、精神的DVの被害者も、シェルターに避難できるようになった。国家的にも「暴力」の定義の幅は広がりつつある。
 家庭という共同体の中で、夫(加害者)という他者の価値規範に合わせて妻(被害者)は自分の価値規範を定め、言葉を発する。夫の価値規範に従って、妻は夫を支える。それが良いカップルだとされる。他者の感覚で生きる時、人は自分が何を感じ、考えているかが二の次になる。その価値規範の枠組みが厳しい時、自分が何を感じ、考えているかわからなくなる。価値規範の中に閉じ込められないためには、批評する視点が不可欠だ。
 女性が男性を支えるというジェンダー規範は長い期間、私たちの社会の根底にあった。その規範に従って、私たちは社会を理解し、生きてきた。いや、その規範を外れて生きる方法があることなど知らなかったのだ。
 だが、フェミニズムの運動や研究は、古くから社会で機能してきたジェンダー規範を離れても生きる道があることを伝えた。女性もまた自分の目で見て、感じて、必要な知識を得て自分の価値規範を作り出していいのだ。
 女性が主体的に生きる時、社会の価値規範は変容する。私たち一人ひとりには、そんな力がある。社会を変容する力とは政治的な力だと言える。
 私たちは家庭だけでなく、学校、職場、地域、あるいは国家といった共同体で生きる時に、その共同体が共有する一定の価値規範に沿うことを教えられる。そのようにして私たちは成長する過程で、その共同体の中で生きる手段を身につける。そこには価値規範を元にした序列化も生まれる。共同体の価値規範に親和性が高い者が価値があるとされる。
 高度資本主義が進行中の現代社会では、経済力は大きなパワーを持つ。経済力がある者にこそ価値があるとする規範は存在する。経済格差は厳然とある。貧しい者は、その価値規範に従わなければ生き延びることができない。いつ、その共同体から振り落とされるのかと怖がっている。あなたはこの共同体では価値の低い者だと価値づけられる時、私たちは恥辱を覚える。恥辱は困窮する者が言葉を失う非常に大きな感情だ。だが、恥辱の存在を認めなければ、リアリティのある言葉は失われる。
 グローバルな人の移動が可能な時代、異なる価値規範を持つ人たち同士が出会う機会も生まれる。S団地で暮らす外国につながる子どもたちは、そのようにして日本で暮らす。日本社会に日本人こそ価値があるという価値規範があり、そこに序列がある時、子どもたちは苦しさを感じる。
 Nさんは、この子どもたちが感じているのと同じ苦しさを知っているのではないか。
 私たちが生活する社会が、多様な価値規範の存在を許す共同体であれば、自分自身の感情を見つめ、受け取り、考えつつ、その場で生き延びることは容易だろう。多様性を許す共同体であるかどうかは、場合によっては命に関わるのだ。このように生きる人たちの苦しさは、私たちの社会の側の課題だ。
 暴力を受け、トラウマを抱える者は言葉を奪われることが知られている。言葉を奪われているということは、暴力を受けていることとほとんど等しい。
 『心的外傷と回復』の著者である精神科医のジュディス・L・ハーマンは「心的外傷は権力を持たない者が苦しむものである。外傷を受ける時点において、被害者は圧倒的な外力によって無力化、孤立無援化されている」と書く。
 心的外傷つまりトラウマは、病理としての側面だけでなく、社会課題としての側面があるのだ。
 Nさんが会話で「自己完結」にこだわるのは、すでに多くの痛みを抱えてきたからではないか。
 とはいえ、Nさんは私たちのインタビューに、一生懸命答えてくれた。そして、自分の枠をほんの少し壊し、自分を客観視したのではないか。だとしたら、それは嬉しいことだ。
 それにしても、Nさんはどのような体験を経てきたのだろうか。Nさんの語ってくれた言葉を私なりに組み立ててみたい。私には彼の声がこう聞こえたと示してみたいのだ。

他者の指示で日常が回ったティーンの頃

 Nさんが、S団地の外国につながる子どものための無料学習教室のボランテイアを始めたのは、大学3年生の時だ。
 これは、Nさんにとって大きな転機だった。なにしろこの時、Nさんは、小学校5年生から、プロ選手になることを目指して続けてきた野球を辞めた。同時に、実母とそのパートナー、義弟とのステップファミリーとしての2年間の生活に終止符を打ち、家を出て、シェアハウスで生活を始めた。自活したのだ。
 Nさんは言う。

大学に入った時は、野球部で活動することと、教員免許をとるための学習の2つが目標でした。野球を続ける誰もがそうですが、僕はプロを目指していました。でも、部活にはお金がかかるので続けられず、諦めるなら早めにということで、大学3年になる直前に退部しました。本当は後悔しています。企業に入って野球を続けるとか、野球を使って就職する方法はいろいろあったのですが、その頃は知りませんでした。
それで小学校の教員になるなら、英語が売りになったらいいと思い、英語を身につけようと思ったんです。

 当時、Nさんは経済的な事情から将来の目標を変えざるを得なかったのだ。
 英語に触れられる体験をしたいと思い、相模原市のボランティア紹介窓口で尋ねると、「さがみはら国際交流ラウンジ」という市の活動を紹介された。外国人市民のために日本語教室を開催したり、通訳・翻訳・相談を行ったり、一般市民が世界の文化に触れ合う催しなどを行なったりしている。足を運んでみると、ボランティアは足りているという。ただ、そこで中学時代に顔見知りだった柚原先生に出会った。誘われてS学習教室の見学に行った。古いS団地の集会所で30年も外国につながる子どもたちのために日本語教室を開催していると聞いて感動した。

柚木先生との意外な再会に運命的なものを感じました。ちょっと無理をしても、続けた方がいいのかなと思い、活動してきました。

 Nさんは、相模原市内で両親と3人の兄の6人家族で18歳まで育った。長兄とは7歳離れている。父親は相模原市内の商店街で玩具屋を営んでいたが、1990年前後に店をたたみ、タクシー運転手になった。店の経営が行き詰まったと推察される。母親は専業主婦で、パートに出ていた。4人兄弟の中で、大学を卒業したのは、長兄とNさんの2人だ。
 Nさんは実家の経済状況は知らないという。ただ、家族で食事に出かけたとき、デザートを勧められても我慢した方がいいと感じていたそうだ。今では、2歳の息子の親になり、4人の子どもを育てることは経済的にも大変だっただろうと思う。自分が野球を続けてきことも、親に経済的負担をかけたのかもしれないと感じている。
 中学、高校時代、大学時代、野球部で活動し、将来は野球選手になるつもりだった。ただ、いつもトップレベルの選手グループには入れなかった。帰宅方向が同じでも、優秀な集団に入る者と、違うグループに属する者とは一緒に帰ることはなかった。部活の集団は野球の優劣により階層化されていたのだ。
 野球部で活動していた時期は、練習に費やす時間が長く、家族と話す時間はあまりなかったという。小学校時代と高校時代には、親しいと思っていた友人が、いつの間にか、別のグループに行ってしまったという体験もしている。孤独な子ども時代だったようにも見える。だが、「語彙力が少ない」Nさんはその寂しさや悔しさなどを他者に語り、慰めてもらう、対応を考えてもらうといったことはほとんどなかったようだ。
 自分の内面を語り、自分自身を振り返る言葉がなくても、近くにいる大人たち、監督やコーチが、日常にするべきことは教えてくれた。

今日の練習はこうしなさいと言ってくれるので、何も考えなくても日常が回るんです。

 他者が決めたルールで日常が回る。主体性を発揮する必要はなかったということか。Nさんは言う。

監督やコーチとは、学校の先生以上に距離が近かったと思います。学校の先生にむかつくことはありませんでしたが、監督やコーチにむかつくこともありました。コーチに何かを相談しても、深い話になることはありませんでした。ただ、今振り返るとそれは、自分が幼かったからだと思います。

 子どもの養育の場面では大人の側が幼い者の拙い話を注意深く聞くことは大切だ。そのことで子どもは大人とのつながりを感じ、安心して自分の感情に気がつくことができる。周囲を知ることもできる。子どもたちが安心できる大人に出会えることはとても大切なことだ。いや、大人であっても子どもであっても、自分の言葉を聞かれることは大切だ。
 Nさんはインタビュー中、誰かへの批判は口にしなかった。そして「自分が悪い」と自責感を言葉にするのだ。Nさんは批評性を持たない。批評とはその場を覆う価値規範とは異なる価値規範でその場を見ることだ。異なる価値規範を知ることは、自由を得るということでもある。だが、その場から外されることに不安と恐怖を持っていると、批評は不可能だ。
 生きづらさを抱える人たちは、自責感が強いことで知られる。「自分が悪い」と考え、自分が生活する共同体に身を添わせ、「生存を確保」をすることが習い性になっている。生き延びるためには、他者を責める言葉は持たない方がいい。自己責任として対処すれば周囲との摩擦は生まれない。つまり、周囲には「迷惑」をかけない。追い詰められることもない。
 だが、それは対処法の一つでしかない。枠組みが緩やかであれば安心できる。

ステップファミリーの一員として

 ところで、Nさんにとって大学進学は自明のことだった。周囲が大学に進学するからだ。自分の実力で野球が続けられる大学を探した。プロの選手になることを目指すことも自明だった。実はこの時期、うっすらと自分の実力ではプロ野球選手は難しいかもしれないとも感じていた。将来教員になるという友人がいたので、自分も教員免許を取ることにした。奨学金を得ることになるが、プロ野球選手になっても教員になっても返せるだろう。そんな計算をした。自分は将来に何を望んでいるのか。主体的に向き合うことはなかった。
 この時、両親が離婚した。成人していた兄たちは父の元に残ったが、Nさんは母の新しい家族と生活を共にすることになった。父が、自分は経済的にNさんの野球のサポートはできないから、母の方に行くようにと言ったためだ。
 幼い子どもではないにしろ、18歳でも、両親の離婚はそれまでの世界が壊れるような恐怖や悲しみがあるのではないだろうか。そう尋ねると、次のような答えが返ってきた。

そこは不思議で、僕は世間知らずで、野球だけで過ごしてきたので、両親の離婚には悲しさというよりも、新しい刺激を得られるという楽しみができてしまった。母の再婚相手はもう決まっていて、そういう見方ができる状況だったんですよ。
父と母は仲が悪いというか、父はどちらかというと生真面目で、インドア派。母はアウトドア派で、好きな人とバイクを楽しむとか。家庭菜園を楽しむとかを望んでいた。母は専業主婦をしながらパートをして大変とか、どこの家庭にもある悩みを持っていました。母は、タイミングを見て、離婚と再婚を決めたと思います。聞いたことはないですが、僕が高校を卒業するまでは、(離婚を)待とうということは話していたんじゃないかなと思います。僕は、母は大変な思いを我慢しながら過ごしていたので、(離婚することは)仕方がないのかなというようにそのように受け取りました。

 私には、Nさんの答えは、両親の離婚を体験するティーンの本音というよりも、母親から受けた説明をそのまま疑問を持たずに語っているようにも感じられた。
 Nさんは、自分自身の感情を意識しないようにしていたのだろうか。苦しい自分の感情に向き合うことは辛いことだ。だが、それを避けて自分の感情と向き合わないということもまた苦しい。それが嵩じれば解離性障害を病むこともある。自己の同一性が保てなくなる病理だ。それもまた、虐待を受けた子どもたちにもみられる現象だ。
 大学に進学するにあたっては、母方の祖父から支援を受けた。同時にNさん自身も200万円~300万円の奨学金を背負って卒業している。現在も返済中だ。
 Nさんは、母とそのパートナー、パートナーの連れ子である男子高校生の4人との生活を送った。母は新しいパートナーとバイクや家庭菜園などを楽しんだ。母の新しいパートナーは自分の楽しみのためにお金を使う。一方、家族を養うことに向き合ってきた父は、自分のためにお金を使うことはなかった。育った家庭とは異なる家族の姿に触れる機会になった。
 Nさんと母のパートナーとの関係はしっくりこなかった。義父はなぜかNさんに対して不機嫌なのだ。

後から考えたことですが、自分はそれまで部屋の掃除をしたことがなくて、そういうことが義父は気になっていたのかもしれません。

 Nさんは常に自分の「落ち度」を探す。うまくいかないことは、自分の責任だ。義父との不安定な関係に対して、母からの配慮はなかった。

母はサバサバした人ですから。

とNさんは言った。
 この2年間、Nさんは相模原市内の新しい家から都内の大学にバイクで通った。野球部で活動する一方、一般の授業だけでなく教職の授業も取る。ファミリーレストランで、深夜10時から翌朝2時までの時給のいい時間帯を狙ってアルバイトをする。あるいは自宅近くの工場団地内の工場で深夜から朝6時や8時まで働き、そのまま都内の大学にバイクで通う。昼間は眠くなるので、授業中は寝ていた。それまでの野球での頑張りがあるので、可能だったとNさんは振り返る。

でもまあ、そこもね。僕が自分で選んだことなんですから。奨学金を払いたくなければ大学に行かなければいいし、成績が良ければ奨学金のサポートもあるわけですから。深く考えなかった。浅はかでした。大学に行くなら借金をするということもわかっていましたが、教員免許を取って公務員になったら、アンパイなんじゃないか、という感覚でした。

 Nさんは自分の判断の甘さを責める。だが、学びたいという意欲を持つ人を社会が支援することは大切だ。
 学ぶことで知識が増え、考え方や物事への視点の基盤が作られ、深まる。人とのつながりができる。将来選択できる仕事の範囲が広がる。知を適切に身につければ、所属する共同体の外側とも対等につながることができる。自由が広がる。そうした人たちが増えれば社会は豊かに柔軟になる。知が結集すれば、危機を乗り越える力も生まれる。社会にとって重要だ。
 経済力がある人たちだけが学ぶ社会では格差はますます広がる。経済力がない者たちの希望は奪われる。恥辱を抱える人たちが増える。妬みや恨みが広がる。社会の活力は落ちる。治安も悪化する。
 だが、Nさんは社会を変えること、社会が変わることは考えない。今、目の前の社会にどう適応すればいいかということに関心が向けられる。「過剰適応状態」とも言える。
 過剰適応は、子どもを虐待死させた親たちに共通することだ。彼らは自分の生きている環境を変えようとはしなかった。従順の中に閉じ込められたのだ。人には優劣あり、それは固定していると考え、疑うこともしなかった。自分は他者から助けられる価値のある存在だとは考えなかった。人権意識がないとはそういう状態をいうのではないか。

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著者略歴

  1. 杉山 春(すぎやま・はる)

    一般社団法人てとてと代表理事。東京生まれ。ルポライター。児童虐待、家族問題、ひきこもり、自死などについて取材してきた。著書に『満州女塾』(新潮社)、『ネグレクト 真奈ちゃんはなぜ死んだか』(小学館文庫 小学館ノンフィクション大賞受賞)、『移民環流』(新潮社)、『ルポ虐待:大阪二児置き去り死事件』(ちくま新書)、『家族幻想 ひきこもりから問う』(ちくま新書)、『自死は、向き合える』(岩波ブックレット)、『児童虐待から考える 社会は家族に何を強いてきたか』(朝日新聞出版)など。公営団地内で子どもや母親の居場所を仲間と一緒に運営している。

  2. 倉数 茂(くらかず・しげる)

    小説家、日本近代文学研究。著書に『私自身であろうとする衝動 関東大震災から大戦前夜における芸術運動とコミュニティ』(以文社)、『黒揚羽の夏』(ポプラ社)、『名もなき王国』(ポプラ社)、『あがない』(河出書房新社)など。現在ウェブで連載しているものに、「再魔術化するテクスト カルトとスピリチュアルの時代の文化批評」(https://note.com/bungakuplus/n/n720620af6f98)。東海大学文芸創作学科准教授。

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