子どもが傷を抱えるということ
杉山 春
学校から帰ると母が血を吹いて倒れていた
前回紹介したえつこさん(仮名、63歳)の娘、緑さん(仮名、36歳)は、S団地で夫と四人の子どもと暮らしている。えつこさんは、同じS団地の別の棟で暮らす。
緑さんが16歳で生んだ長男A君は現在20歳。中学2年生女子のDさん。小学校4年生男子のP君。そして末っ子で1歳になるMちゃん。表情豊かな可愛らしい女の子だ。えつ子さんの食堂Lや子ども食堂を手伝いながら、緑さんは子育て真っ盛りだ。
緑さんは八王子で生まれた。5歳上に兄がいる。2歳の頃に母、えつこさんが離婚。その後、緑さんが小学校に上がる少し前に、えつこさんが再婚して相模原市内の農村地域で暮らした。そこで弟が生まれる。だが、さらに小学校5年生の時にえつ子さんが離婚、再婚しS団地の近くで暮らし始めた。そこでももう一人、弟が生まれた。
つまり、緑さんは母親の目まぐるしい結婚と再婚の中で育ったのだ。しかも、3番目のえつ子さんの夫は激しい暴力を妻に振るった。負けず嫌いのえつ子さんは応戦し、そのあげく、いつも男性の暴力が勝った。
――緑さんの中学時代はとても大変だったんじゃないですか? お母さんがパートナーから暴力を振るわれていたわけですよね。
「大変でした(笑)。学校から帰ってくると、お母さんは血を噴いて倒れていることが結構あって。私自身、幼稚園のころからいじめられていて。学校にもいたくない。家も嫌だ。本当にそんな感じでした。
だから、週に一度、実のお父さんに会えるのがなんかもう天国でした。お父さんから毎回電話がきて。ご飯を食べに行くよとか泊まりに来なとか言ってくれて。そうするとゆっくり眠れるんです」――緑さんは子ども時代、ゆっくり眠れなかったんですね。
「今でもそうなんですが、ガタっという音がするとすぐ起きちゃう。喧嘩しているんじゃないかって心臓がバクバクする。
お父さんはいつも土曜日に迎えに来てくれました。ご飯を食べて、日曜日には遊びに行く。それが、自分の中では大切な思い出です。父は、私が中学の頃に亡くなりましたけれど」
子どもが両親間のDVを体験することが、面前DVといって児童虐待にあたるようになったのは、2004年の児童虐待防止法改正の時だ。緑さんが、母親のパートナーからのDVを家庭の中で体験していたのは、もう少し前のことになる。どんなに不安だったことだろうか。子ども時代から苦労を重ねてきた緑さんは、いわば「サバイバー」だ。
「中学時代私は、暴力魔のいる家にはいられないと思って、家の外のあっちこっちで寝てました」
――野宿していたんですか?
「そうです。神社ではよく寝てました。怖くはなかったですね。神様がきっと守ってくれると思っていました」
――今、ニュースに出てくるようなトー横キッズみたいな感じなんでしょうか?
「いえ、あんなふうに仲間と一緒ということはありませんでした。いつも一人でした。友達には迷惑はかけられないと思っていたので、頼ることはありませんでした」
トー横キッズとは、東京都新宿区にある繁華街歌舞伎町の新宿東宝ビル近くの広場に集まるティーン・若者のことだ。トー横とは、「新宿東宝ビルの横」という意味から来ている。私はコロナの時期に取材をした。家庭に居場所のない子どもたちが、日本全国から夜行バスなどを乗り継いで集まっていた。11月ごろのことだが、冷たい地べたにぺたりと座り、時間を過ごす。複数ですっと立ち上がって、携帯をかざしてダンスをし、また座る。彼ら彼女らはアプリで自分たちの姿を撮影してネットにあげるのだ。お互い知り合ったばかりだった。彼らが発信する情報を頼りに、また、子ども・若者が集まってくる。刺激に反応し、流される様子が感じられた。
それに比べ当時の緑さんには、現実と具体的につながって選択しているような、主体性が感じられる。自分の目で見て考え、感じることができていたようにも思われた。ネットの力がそれほどが強くなかった時代のよさかもしれない。
私は緑さんが16歳で妊娠したと聞いた時、家庭の中に居場所がないという寂しさを補う面もあったのではないかと思った。もっとも母親のえつ子さんは言う。
「娘が出産したことには驚きましたが、困ったとは思いませんでした。私の親族には、10代で妊娠、結婚する人が結構いるんです。私も10代で長男を妊娠しています。娘の相手の家族は偶然ですが、知り合いでした。相手の父親が、娘さんと赤ちゃんは引き受けるとはっきりいったので、もう安心してお預けしました」
緑さんが出産した当時、えつ子さんは、末の男の子が3歳だった。緑さんの父親違いの末の弟だ。
私はこれまで取材した6件の虐待死事件の中で、10代で妊娠出産した親は少なくない。そうした事態に陥ってしまう親たちは、幼い時から孤立していた。困った時に、親にも、その周囲の大人にも頼れない。
一方、緑さんの場合は、母親のえつ子さんや赤ちゃんの父親の両親が、10代で親になった緑さんと生まれてくる赤ちゃんを守ろうとした。2009年には児童福祉法の改正により若年の妊婦などを特定妊婦として保護する制度ができるが、それ以前のことだ。
ただし、当時、教育制度は緑さんを守らなかった。緑さんは言う。
「今は(出産をしても)そのまま高校生活を続けることができるかもしれないのですが、当時は全くダメでした」
緑さんは高卒を退学し、同年齢の夫と結婚。夫の両親と夫婦、赤ちゃんとで暮らした。夫の両親には可愛がられたと緑さんはいう。
それでも同世代が遊んでいる時に、子育てをするのは大変だったはずだ。この当時の夫は、遊びまわり、妻に誠実ではなかった。緑さんは20代になって、子どもを連れて離婚することを決断した。
母のえつ子さんが暴力夫や子どもたちと暮らしていたS団地に別の部屋を借り、母子で生活を始めた。同世代の子育て仲間はいなかった。
「子どもの学校に参観に行っても話す人はいませんでした。担任などの先生からは大切に扱われませんでした」
若くして母親になったことに対する、学校側の理解や配慮は乏しかった。しかもシングルマザーだ。身の縮むような日々だったのではないだろうか。
緑さんは子育てをしながら働いた。ただし、正社員にはなれなかった。アルバイトで、宅配便の配達補助やパソコンや携帯を解体して希少金属を取り出す仕事などに従事した。
緑さんの記憶では、えつ子さんに付き添って、八王子のお寺に暴力夫のことで相談に行ったのはこの頃だ。住職に言われたとおり、書を壁に掛けておいたら、母の夫は出て行った。
「母が離婚してくれて本当によかったと思っています。親が暴力を受けていると、私みたいに精神的におかしくなってしまう。そのことを(社会の側が)児童虐待だときちんと言ってもらって、実際に子どもたちはずいぶん助かると思います。
小さい時は大丈夫かもしれないけれど、大人になった時に(その影響が)絶対に出てくる。私は今も、急にパンとその時のことを思い出すことがあるんです」――フラッシュバックがあるんですね。
「すごくしんどいです。それで倒れてしまうこともあって。でも、そのための薬を飲んでもなぁ、と思ってしまう。それよりも、子どもたちと一緒に高尾山に行って自然の中を歩いたりすることのほうが気分転換になります」
今、子どもたちが高尾山の近くにある病院に通院している。そこに連れて行く時には、自然の中で遊んでくる。外国人の観光客が子どもたちに声をかけてくれる。笑顔を向けるとコミュニケーションが取れる。親子にとって楽しい時間だ。
今の夫と出会う
緑さんが夫のMさんと付き合い始めたのは20代半だ。Mさんは、母親のえつ子さんの三人の元夫のうちの一人の、仕事関係者の息子だった。元夫たちとは、それぞれ子どもがいるので、関係は続いていた。
最初、緑さん自身は、再婚は考えていなかったそうだ。だが、えつ子さんが「結婚しなさい。そうじゃないと私、(あなたより先に)死ねない」と強く勧めた。
えつ子さんに付き添って八王子のお寺に行った時、住職は、えつ子さんに暴力夫を家から出す策を与えただけでなく、緑さんには「あなたは、近いうちにきっといい夫に恵まれます」と告げたそうだ。その言葉も緑さんの気持ちを変化させたのではないか。
インタビューがこの話に及んだ時、隣で聞いていたえつ子さんは「その通りになったのよ」と、嬉しそうに教えてくれた。「Mちゃんは本当に優しくて、いい旦那さん」
――Mさんと結婚する決め手は何だったのですか?
「私は子どもの頃、突然、(母の相手の)男の人が家にきて、大きな顔をするのがとても嫌でした。だからまず、子どもに、『あの人と結婚することをどう思う?』と聞きました。そうしたら『いいんじゃないの?』って言ってくれたので、結婚を決めました。
彼は初めて会った時から、本当に子どもとよく遊んでくれたんです。私では、息子とサッカーをしても上手に遊んでやれない。公園に連れていくと、息子は父子連れをじっとみていたりしたので、父親がいないことが申し訳なかった」
緑さんやえつ子さんと対話を重ねる中で感じたのは、二人の人や社会とのつながり方が、いわゆる「近代家族」と呼ばれる形とは違うということだった。
たとえば、現代社会では、精神的に追いつめられた時、しばしば精神科のクリニックなどを訪れたり、カウンセラーに相談に行く。それは、昔、共同体でお寺などの宗教施設が担っていた役割かもしれない。地元に密着した宗教者たちは、一人ひとりの信者たちの相談を受け、状況を判断し、ふさわしいと思われる言葉をかけたのだろう。それは当事者の認識を変える力になった。どの時代にもその時代にふさわしい、セイフティーネットはあったのではないか。
さらに言えば、緑さんの結婚に対しても、まずは年長者である親たちが責任を取ろうとする。その家の父(家長)が責任を持つと言えば、花嫁の母は安心できるのだ。家父長制を内包する共同体に近い。そのことで未成年の緑さんも守られる。
家父長制の家庭(という共同体)はヒエラルキーによって秩序立てられている。男性優位、年功序列の文化だ。女性たちは「嫁」「母」という身分でそこに居場所を確保し、役割を果たせば、生涯の安定が約束された。
えつ子さん自身は、自分を守ってくれる共同体、家父長制のトップを求めて、3回の結婚と離婚をくり返した。だが、男が作るヒエラルキーの中で生活するよりも、外に出たほうが、本来持っている強さを発揮できると気づいた。その結果、店を持つことができ、生活は安定した。私たちはそのようにして家父長制を脱ぎ捨てていく。
ところで、学校は近代社会の中で共同体の次世代を育て、未来を作る装置だ。
緑さんが出産をして結婚したため、高校に進学できなかったのは、未来で役割を果たす「子ども・若者」ではなく、すでに共同体で役割を果たす「大人」と認識されたということなのだろうか。
子どもの不登校と出合う時
学校は、共同体の中で、一人ひとりがどのように振るまったらいいのかを伝える場である。その一方で、読み書きや数字を扱う力、社会の仕組みを知る力、自分自身で考える力など、子どもたちに、自分たちが主体的に未来を切り開く資源(力)を与える場だと考えることもできる。共同体への従順を伝える場なのか、共同体の外部にまで手を伸ばせる資源(力)を与える場なのか。単純化すれば、そうした異なる方向への2つのベクトルを持つ。
てとてとでは、文字を読んだり書いたり、あるいは自分で論理的に考え、言葉にして伝える力が乏しい子どもにしばしば出会う。その姿に触れる時、一人ひとりの子どもにとって資源を与えてもらう場として、学校は宝物だと感じる。市場化した教育を得ることができない子どもたちは大勢いる。義務教育とは、だれもが資源(力)を得ることができる貴重な場なのだ。
緑さんの二男のPくんは、小学4年生だ。「てとてと」の重要メンバーの一人だ。P君は小学校1年から不登校の状態にある。
「Pは、(1年の時)学校では気が引けちゃって、トイレに行きたいと言えなかった。高熱が出た時も、自分から言えなくて。先生がなかなか気づかなかった。しばらく経ってから家に連絡がきた。学校は怖いところと思ったみたい」
P君はそんな体験を経て、学校に行けなくなった。
「私が小学校のころは、友達感覚で先生と話せた。親身に話を聞いてもらった。今の先生は忙しくて話しにくい」
緑さんの小学生時代とは、今から25年から30年前。住んでいたのは旧津久井町。団地から車で20分ほどで、より農村地域に近い。相模原市に組み込まれたのは2010年に政令指定都市に指定された時だ。
P君が不登校になった時、みどりさんは必死だったという。
「周囲から、学校に行っていない子どもの親は、ちょっとおかしい親みたいに思われてしまうのだろなと思ったから。旦那にも学校行かせないのは親が悪いって、言われちゃったから、私的には悩んじゃって」
――それはしんどかったですね。
「そう。それに学校に行かせたら行かせで、電話が来て、お迎えに来てくださいと言われるし」
――ああ、わかる。うちの子も7年も不登校気味だったけれど、学校でものすごく緊張していた。1日に2時間ぐらい通っても、疲れ果てて帰ってきた。P君も学校に行くと、くたくたなんじゃないの?
「もうくたくた。私、Pへの対応の仕方がわからなかった。今後どうしたらいいのだろうと。本当は少しでも学校に行ってほしい。だから、必死で、行きなさい、行きなさいと言っていた時期があった」
親もダメな親だと社会からレッテルを貼られると不安になる。社会規範から外れることは、自分たちが所属している共同体から外れることに等しい。学校が、ありのままの子どもを受け入れる時、親は心からホッとする。
私の28歳になる息子は、小学校2年生から中学2年生まで、学校に行きにくい時間を過ごした。私も緑さんと同じように必死だった。ただ、この時期、亡き夫も含め私たち家族は、本当に多くの人たちに支えられた。
児童精神科医の坂井聖二先生が主治医だった。先生は、息子が小学校6年の時に亡くなったが、児童虐待の分野の第一人者だった。坂井先生は、私たち夫婦に「子どもが育つ力を信じましょう」と言った。そして、学校に出向き、息子の状態を説明してくださった。担任の先生は、かろうじて登校した息子が教卓の中に隠れてしまう様子を見て、息子と話し合い教室内に一人用のテントを張ってくれた。その教員の判断を尊重する管理職をはじめ教職員がいた。子ども同士をよく遊ばせてくれる家庭があった。研究者が息子のために数名の友達のグループをつくって学びや遊びの時間をつくってくれた。学童やカウンセリング、美術や音楽教室などの社会資源も多用した。
多くの人たちに支えられ、肯定され、息子は育った。
てとてとの活動を通じて私が感じたのは、地域の不登校の子どもたちの多くが家庭の中で孤立しているのではないかということだった。多様な資源につながることができるのだろうか。だから、てとてとで子どもや親の怯えに触れると切なかった。
家父長制社会が、よかれ悪しかれかつて持っていた、ヒエラルキーの維持により人をつなげる力が乏しくなった今、新たなつながり方の模索は必要だ。
P君の変化と居場所の力
私が初めてP君と時間を過ごしたのは3年ほど前だろうか。とても緊張していたことを覚えている。それでも団地内を散歩して、公園でブランコに乗って一緒に時間を過ごしてくれた。
その後P君は、いつの間にかてとてとでのんびりするようになった。寝っ転がって部屋のすみでスマホをいじっていることもある。人前で勉強することを嫌がっていたが、どの子も自分なりのレベルの教材を手にしているのを見て、ドリルをする時もある。
「Pの中では、てとてとが開く前にハルさんの手伝いに行って、それから遊ぶと決めているみたい。勉強会ではまず勉強を1つしてから遊ぶことにしている」
そんなふうに緑さんは教えてくれる。自分でルールを決めて、「てとてと」に来てくれるのだ。主体性は社会を生き抜くためにとても大切な力だ。
今では、子ども同士でもよく遊ぶ。1学年上の男の子と、仲良く並んでテーブルにつき、二人で熱心にレゴブロックで車をつくる。緑さんは言う。
「Pはレゴやものづくりが大好きなんです」
学年の異なる子どもたちとのドッジボールにも参加する。てとてとが借りているS団地の集会場には、教室二つ分ほどの大きさのホールがある。そこで、子どもたちは、窓ガラスや壁を痛めないように、赤ちゃん用の柔らかなボールを使ってドッジボールをする。体を思い切り使うので、かなり鋭いボールが行き来する。運動神経の良い子、そこそこの子、いろいろな子どもがいるが、相手の力を測り、気持ちも感じ取り、場をつくる。お互いが楽しく遊べるように工夫していることが見て取れる。
P君は球をよく見て、的確に逃げる。しばしば最後までコートに残っている。
「Pは、周囲が信用ができないとずっと一人でポツンとしている感じなんですけど、信用した時は、全開になって遊ぶ。だから、てとてと行くのが楽しみで」
P君が全く学校に行けていなかった時、担任のT先生が何度かてとてとに見学に来た。
「T先生は、Pがてとてとで遊んでいるのを見て、あ、遊べるんだと思って、一生懸命、学校に行かせようとしている。そうやって、学校って、こういうところだと教えてくれている」
私がT先生に直接聞いた話では、P君がてとてとで遊んでいるのを見て、週に一度、体育館で同じように安心できる友達数名と体を動かせる時間を設けたとのことだった。今ではP君は週に一度程度、学校に行き、別の日にはスクールカウンセラーと団地の近くを散歩する。緑さんは言う。
「無理にでも(学校に)連れて行ってもいいですよと先生に言ったのですが、『それはやめましょう。大切なのは本人の気持ちだから、焦らせなくていいですよ』って。ホッとしました。楽になりました」
母子ともに学校との関わりがあることに私たちてとてとも安心する。無理に学校に行かせることはないという意見があるが、繰り返すが、学校は、子どもが社会につながるための大切なツールだ。学校との関わりは、子どもにとって権利だ。
夫が支える妻の子育て
緑さんは現在、母親のえつこさんの食堂Lや子ども食堂を手伝っている。
――お母さんの子ども食堂、大変そうだけれど、どんなふうに考えていますか?
「お母さんは動いていないとダメな人だから、手伝ってあげましょうという気持ちでやっています」
――旦那さんは子ども食堂を手伝うことは何と言っているんですか?
「やりたいならしょうがないなという感じです。子どもは嫌いではないし」
緑さんの夫は、てとてとにもよくP君を迎えに来る。P君が遊んでいる間はじっくり待つ。一緒に遊んでいる友達にも声をかけてくれる。
――P君と仲良しで、優しい方ですよね。
「そうなの。お兄ちゃんの友達にも声をかけてくれる。この間はお兄ちゃんが友達と海に行ってカニを採ってきた時、みんなを家にあげて、蟹汁をつくって食べさせてやれと言ってくれた。フライドチキンをつくって食べさせてやれと言ってくれたり。そういう時は、子どもたちも「おいしかったですごちそうさまでした」とか、ラインを送ってくれます。礼儀正しいです」
――いつか、緑さん、てとてとにP君を迎えにきた時、私たちの手が足りてなくて、見るに見かねてお味噌汁つくってくれましたよね。遅くなってしまい、小さい子と家で待っている旦那さんにも申し訳ないと思いました。
「いやいや、大丈夫ですよ。見ていると大変そうだから。また、手伝いますよ」
そう言って緑さんは笑った。地域で活動するてとてとにとって、緑さんとその家族は心強い味方なのだった。