誰のための子ども食堂?──えつこさんの葛藤と決意
杉山 春
ひもじい思いが一番つらい
てとてとが月に1回の昼間の居場所と2回の夜の勉強会を開催している地域に、その年季の入った2階建の建物がある。この団地とほぼ同じ、1970年代初めに建ったという。1階にいくつかの飲食店が、2階にアパートが入っている。
毎週水曜日の夕方、その1階の飲み屋「L」で、子ども食堂「K」として、お弁当が配布される。
子どもは無料。大人は1つ300円。唐揚げや野菜などの入った幕の内弁当の日もあるし、カレーや親子丼などがどんぶりの容器に入っている時もある。その時間になると、地域の人たちが集まってきて長い行列ができる。
「最初は30食で始めたのだけれど、今では70食つくります。子どもを車に乗せて、少し遠くから来る人もいます。赤ちゃんを抱いてきて、赤ちゃんの分もと、2つ持っていく人もいる。赤ちゃんは食べないでしょうと言うと、この子は食べるんですと言って(笑)」
とえつこさんは説明する。
当日の午後はてとてとの開催日でもあり、「K」のお弁当をてとてとで食べる子もいる。てとてとに来る子どもの中には、いつもお腹を空かせている者も、そうでもない者もいる。親たちの中に、「K」のお弁当を頼りにしている人たちは、確かにいるのだ。だからといって、お礼を言われることはあまりないと、えつこさんは言うのだった。
――どうして子ども食堂を始めようとしたのですか?
「今から、15年以上前、うちの子どもや、娘の子どもたちの友達が、夏休みとか遊びに来るじゃないですか。うちの子、お人よしだから、家に入れちゃう。お昼だから帰りなさ言っていっても、食べないで待ってるっていう子が多かったんです。ほとんどの家でお母さんが(働いていて)家にいない。でも、何も用意していない。いても(お昼は)つくらないとか、お金があってもつくらないとか。そういう感じの子はすごく多かったですね、このS団地で。
そう言われると、じゃ、食べて行きなさいって言って、つくっちゃう。子どもたちは一度に4、5人来たり。その子たちの中の誰かが、うちの子のゲームのカセットの中身を抜いて持っていって、それが500円で売られていたなんてこともありました」――そのころには、ここでお店をやっていたのですか?
「いえいえ。そのころは、別のところでお店をやって、住まいはこのS団地。ここには下の子どもが小学校1年生の時に、引っ越してきました。私、地元じゃないので、右も左もわからなかった」
――出身はどちらなんですか?
「八王子です。再婚した旦那さんがこちらの人で、父親の会社を継ぐというので、津久井(S団地から車で西に約20分。2012年に統合される以前は、神奈川県津久井郡津久井町だった)に家を買って引っ越してきたんです。
でも、離婚することになって。子どもが3人いたのですが。上は中学生で、下は小学校1年生。旦那さんがいろいろな支払いのお金を全部出して、私が家のローンを払うという約束でした。
でも、私はなかなか仕事が見つからなくて。23か所の面接に行ったんですけれど、子どもが小さいから、使ってくれないんですよ。それに津久井は交通が不便で(通える場所も限られて)。
もう本当に大変で。家があったので、生活保護が受けられないの。そのうち、旦那さんが破産宣告をしてしまって、裁判所から執行官が来て、買い手がつくまではいてもいいけれど、それ以降は出ていってくださいと言われて。住めなくなってしまった」――養育費はもらえたんですか?
「もらえないですよ。そういう話もなかった。子どもにご飯を食べさせられないことが一番つらかった。ひもじい思いが一番つらいじゃないですか。1年間、毎日もやしを買って。
だから、食べられない子を見ているとお腹いっぱい食べさせたくなる。大人にも、『ご飯食べたの?』っていうのが私の口癖なんです。
そういうのが(子ども食堂を始める)発端かな。自分が子どもに食べさせられなかったということが」
自分にできることがあると思うと後先を深く考えずに始めてしまう。えつこさんのそんな行動に、私は共感してしまう。
――破産宣告をされたあとも、生活保護は受けられなかったんですか?
「一時だけでも受けさせてほしかったんですけれど。津久井町では受けられなかった。児童扶養手当があることも知らなかった。教えてくれなかったんですよ。八王子の友達が、こういう制度があるよって教えてくれて、それで津久井の役場に聞いたら、ありますよって。だいぶ後になって。母子相談員さんにもつながって、貸付制度を教えてもらい、それを借りてなんとか(のりこえました)」
そうか、えつこさんも福祉の申請主義で苦しんだ体験があるのか、と思う。もっと早く貸付制度など知っていればもやしを食べ続ける必要もなかったのかもしれない。
行政は以前に比べ、さまざまな制度を用意するようになった。しかし、当事者がその制度を知らないと申請ができない。あるいは、制度を勧めても、理解が乏しければ、適切な時期にその制度につながれない。もっと早く、堂々と必要な仕組みを使っていれば、親子ともどもずっと楽に生きていけるのにと思う事例もある。
――大変な時期を過ごされたんですね。それはその時だけですか?
「子どものころにはあります。私は父親がいなくて、小学校1年から6年まで、ずっといじめられていました。6年間で8回転校して、友達ができない。授業が早く進んでいたり、教科書が違っていたり。勉強にもついていけない。学校に行けなくなって。
うちは貧乏で、あのころ、給食がまだ食パンで、2枚出るんですよ。姉が1枚持って帰ってきてくれて、それを妹たちと分け合いました。私は4人きょうだいの2番目で。お母さんがいて、5人家族。今、お母さんは86歳」
えつこさんも大変な体験の中で育ってきたサバイバーなのだ。それにしても、高度経済成長期の、一億総中流と言われていた時代だ。「子どもの貧困」など、あり得ないと思われていた時代だ。
インタビューは「子ども食堂K」を行っている食堂「L」が入っている建物の中の、えつこさんの新しい店で行った。2024年、高齢のオーナーがえつこさんに、子ども食堂を続けてほしいといって、この土地建物を売ったのだった。道路に面した店舗を改装し、食堂・カフェをつくった。新しい店はカウンターのほか、テーブルも3つほど置かれている。
インタビューの時には、店の常連に混じってお母さんは、にぎやかに楽しそうに話していた。年齢を感じさせない若々しさだ。店には他に、娘の緑(仮名)さん、その娘の1歳になるMちゃんがいて、女性4代が顔をそろえていた。
「私、食べられない経験をしているので、食べられない子が本当にかわいそうなんです。それから、いじめられている子、仲間外れにされている子(もかわいそう)」
そう言って、えつこさんは自分の体験を話し始めた。
「私が子どものころは、色折り紙とかシールがすごく流行っていたんですよね。でも、うちは貧乏だから買ってもらえないのね。そうすると仲間外れにされてしまうの。誰かが自分で使ってしまったのを忘れて、折り紙やシールなくなったと言いだす。持っていない子のせいだということになって、泥棒扱いされたこともありました。だから、自分の子にはどんなに貧乏しても、みんなと平等に同じものを与えなきゃって思ってきたんですよね」
自分が体験した苦しさを子どもたちには体験させたくない。そう思いながら、毎日もやしを買っていたえつこさんはどんなに苦しかったか。
DVからの脱出
その後、えつこさんは二度目の再婚をする。S団地に近い地域で暮らした。40歳で新しい夫の子どもを出産。その後、家族でS団地に引っ越した。この結婚は13年間続いたが、激しいDVを受ける日々だった。警察沙汰になって、保護されたこともある。
「シェルターって、中学生以上は入れないんですよ。横浜のシェルターに入ったけれど、私と末っ子だけで、あとの子どもは置いてきてくださいと言われました。お財布も携帯も全部没収されて、連絡もできなくて。だからもう中学生の子どもが心配で。ちゃんと食べているかなとか。シェルターの人には申し訳なかったのですが、帰らせてもらいますって、帰ってきてしまった」
2001年にDV防止法が施行される前後のことだ。暴力を受ける女性たちを支援するシェルターが生まれ、広がっていった。携帯で場所がわかると他の人たちが逃げ込めなくなってしまう。そうした考えから携帯は使えない。勝手に出て行かれても困る。だから、お金もコントロールする。そうした支援する側のニーズからルールがつくられる。だが、DVの本質は支配とコントロールだ。当事者からみれば、DV加害者とは違う、新たな支配の始まりと感じてしまいかねない。
家に戻ると再び激しい暴力を受けるようになった。
「私も、こういう性格だから、やり返してしまう。そうすると、警察が来ても(DV被害者として)認めてくれないんです。今なら認められると思うけれど、当時はだめでした。女性の人権ホットラインなどの相談窓口や、地域の警察、地域外の警察まで電話をしたけれど、相手にしてもらえない。団地でもよく騒ぎになったので、団地の人たちはうちのことはみんな知っていたと思います」
夫の支配を受けまいと暴力で応戦する。今から10数年前のこの当時、警察は家庭には介入しないという姿勢を取っていた。国家権力は、家父長が家族を支配・コントロールする権利を侵さないのだ。
だが、2010年代になり、警察に相談したにもかかわらず、ストーカーやDVにより交際相手や配偶者が殺害されるという事件が続発した。ストーカー禁止法の施行やDV防止法の改正があり、警察は被害者支援に力を入れるようになった。DV被害女性たちへの支援メニューは急速に強化される。今では、家庭内で暴力を受けたらまずは警察を頼ることに限るのだが。
警察が対応しない中、えつこさんは「神にもすがる気持ちで」、お寺を頼った。生まれ育った八王子にあるお寺だった。
「中学生だった娘を連れて行きました。そうすると和尚さんが、説明しなくてもわかるんですね。『あなたはずっと黙っていなさい。そして、私が書いた書を見えるところに貼っておきなさい。しばらくしたら自然と本人は出ていきますから』って。『嘘だあ』って思ったんですけれど、貼ったんです。今でも貼ってあります。それで私は何も言わないで、無の状態で。そうしたら本当に出ていきました」
曹洞宗の開祖道元の著名な言葉「憎む心にて人の非を見るべからず」という書だった。自ずと相手と距離を取ることができる言葉だ。
家庭内の暴力の解決をお寺に頼る。それは、お寺が地域社会で力を持ち、人々の価値規範を支えていた時代の知恵だ。
一方、私のDV理解から考えると、夫と距離を置き、一緒にやっていくつもりはないという意思表示を明確にしたことが有効だったのではないかと思われる。
DVでは、加害者側の支配とコントロールの影響を受けないということはとても重要だ。
DVの加害者は、本質的に自尊感情の弱さを抱えている、情けない存在だ。だが、社会では「男性は女性よりも価値がある」という規範は今も有効だ。自分の価値を信じられない男性は、その規範に則って、男性より劣るはずの女性は支配していいと思う。そのようにして自分を肯定する。人は生きるためには、なんとか自分を肯定しなければならない。
だが、元夫は、えつこさんが自分に関わらなくなり、それにもかかわらず、しっかりと日常を送っていることに気づいた時、自分の力が家の中で全く通用しないことを知ったのではないか。その結果、出て行かざるを得なかったのではないかと推察する。
――そのころ、えつこさんは働いていたのですよね?
「市内でお店をやっていました。でも、旦那と揉めて、保護された時に、警察からここでの仕事はやめたほうがいいと言われたんです。大家さんが単身の女性で、頻繁にこういう揉め事があると怖いと言っているということでした」
自分の意思を通してDV夫と別れることができたえつこさんは、主体的に生きる力を得ていく。
「旦那が出ていって、ようやくホッとして、「L」にもお友達と一緒に出かけるようになりました。三度目に行った時、店主の八十何歳かのおばあさんから、『私、この店やめるから、あなたにやってもらえないか』って言われたんです。他にもやりたい人がいることを知っていたので断ったんですが、『あなたでないと』と。50歳くらいの時です」
――見込まれたんですね。
「それからずっと食堂をやっていたのですが、2020年の夏にコロナで時短要請になったじゃないですか。食材があまったので、お弁当を安くやろうと思ったんですね」
その少し前、地域には子ども食堂をやっている飲食店がすでにあったそうだ。そこでは、子どもたちが訪ねて行くと、フライドポテトを揚げて食べさせたり、お水を飲ませたりしていた。その店は閉店したが、すると、子どもたちは近くの「L」に、お水や食べものを求めて来るようになった。
地域に場があれば、子どもたちは自分のニーズを伝える力を持っている。一方、えつこさんは子どもたちが発信するものを感じ取り形にする力を持っていた。
――子どもたちはお腹すかしているのでしょうか?
「毎回、お腹を空かしているというわけではないと思う」
――だとしたら、何しに来るんだろう。構ってもらいたい?
「多分、そうじゃないですか」
「L」には居場所を求めて大人たち、特に団地の高齢者がやって来る。近くのバス停からバスに乗る前に、ちょっとカフェに立ち寄って、コーヒーを飲んでいく人などもいる。気軽に顔を出し、何気ないおしゃべりができる場所としての機能を持っている。「子ども食堂」は、その子ども版かもしれない。
市からお金をもらってウハウハ?
「子ども食堂 K」は週に1回。娘の緑さん(仮名)や、息子の妻、手伝いの人などえつこさんも入れて4人でつくる。
「メニューを考えるのがとても大変です。唐揚げとハンバーグは人気だけれど、毎回というわけにもいかなくて。魚はあまり人気がない」
市からの助成金が年間20万円。地元の企業から毎月5万円の寄付がある。
「赤字です。なんでもかんでも値段が上がっているから。今、お米が高い。それからプラスチックのお弁当箱の容器と箸の値段も上がった。小麦粉も値上がりしているし」
子ども食堂を存続させるために、2024年は一時期老人ホームで朝食の調理員のパートをした。
「募集の張り紙が出ていたので。朝5時から9時までなら、あまった時間でできるかなと。でも、体力が続かなくてやめました」
どうしてそこまでするのかと尋ねると、自分は昔からおせっかいだとえつこさんは笑う。
「倒れそうに歩いているおじいさんがいると、『どこまで行くの?』と尋ねて、家の近くと聞くと車に乗せてしまう。そこでご飯を食べていないと言われると、じゃあ、うちに寄って食べていきなよって言う。今の旦那に銭湯に連れて行ってもらったり。見ていられない性格なの。そこまでお人好しをするのはやめてって、子どもたちには言われています」
ところで、幼い時に逆境体験を持つ人は、心身の健康を損なう場合があることが知られる。幼い時から、暴力被害を繰り返し受けてきたえつこさんもまた、いくつか持病を抱えている。
「病院は何件か通っています。高血圧や無呼吸症候群。あと、パニック障害と不安神経症も。一人では電車やバス、それからエレベーターも乗れないの。怖くて。だから、娘が車を運転して連れていってくれます」
そんな心身の不調を抱えながら、それでも自分の思いを形にしようとする。
すでに述べたが、えつこさんは、最近、子ども食堂のある土地と建物を破格の安さで購入した。元オーナーは高齢で、土地を売りたいと考えていた。だが、店子がいるので簡単には売れない。この地域で意義ある子ども食堂を続けてほしい、土地と建物を買ってほしいと言ってきた。
「高額だから無理といったら、値段を下げて、最終的に半額でいいと言われました。4年はローンが残っているので大変ですが」
この地域で子どもたちのニーズに合う子ども食堂を続けたいというえつこさんの願いが、他者の気持ちを動かし、新たな出来事が始まる。
私たちが暮らす資本主義社会は、労働力を提供して成立する。ものには対価があり、そこから自由になれないと思う時、生きにくさが増幅する。他者から与えられた規範に埋め込まれて、主体性を奪われる時に激しい痛みを感じる。だが、あなたと私との間にある思いや熱意、情熱が決まりきったものの価格を大きく変えることもあるのだ。もっとも、えつこさんはこんなふうに話す。
「今、子ども食堂をすることにすごく悩んでいます。お客さんから、『(地域の人たちから)「L」さん、市からお金をもらって、ウハウハだよって言われてるよ』って言われました。子ども食堂で市からお金をもらっていて、そのもうけで土地と建物を買ったと思われているんですね。そんなふうに見られてしまうのは嫌だなと思うんです」
子ども食堂は「この国で暮らす子どもを飢えさせない」「子どもの育ちを守る」というこの国の未来をつくる政治的課題を個人の善意や努力に押しつけていると言える。だから、地域住民のこんな誤解も生まれる。地域住民からは、えつこさんが、子ども食堂のために、早朝、介護施設に働きに出ていた事実など見えないだろう。お弁当をコンスタントに提供し続ける大変さもわからない。
資本主義の社会の中で追いつめられる時、人は経済的に見合わないことをしないという物語に閉じ込められやすい。その物語と異なることが起きた時、何か不正をして「得をしている」という感覚が広がるのかもしれない。それは簡単に「悪意」とも結びついてしまう。それがえつこさんを深く傷つける。
「でも、私のことをよく思わない人の子どもも、子ども食堂には来るんです」
子ども食堂「K」は、えつこさんの強い思いで今日も活動を続けている。