中国東北地方出身のボランティア
杉山 春
李晶(リチン〈仮名〉)さんは、社会福祉協議会のボランティア登録から紹介されて、1年ほど前から、「てとてと」に来るようになった。小柄だが、俊敏な印象のある女性だ。
李さんの話す日本語は、明らかに大人になって獲得したものだが、日常会話には困らない。今回のインタビューでは、背景がわからないと理解できないことがあり、何度か聞き返した。言葉は共通の社会・文化背景があって伝わるところがあることに、改めて気付かされる。
ボランティアとして、李さんは自発的だ。初日から、子どもたちと遊ぶための縄跳びや、羽がついて地面に落とさないように蹴って遊ぶ、「毽子(ジェンズ)」をもってきた。
私たち「てとてと」の活動は、子どもたちと一緒に時間を過ごすことを主目的にしている。教育したり、しつけたりという意思はかなり乏しい。幼いときに人を信頼する経験を重ねてほしいという願いがあるからだ。
私の感覚だが、「ただ子どもたちと一緒に過ごす」ということは、場合によっては、指導したり、教えたりすることよりも難しい。指導とは、ときに上から下に流れるパワーだからだ。ルールに従って一方的に押し付けることは、短時間であれば効率よく成立する。
一方、一緒にその場にいるには子どもたちが発するメッセージを受け取るセンスが必要だ。自分自身の内面を感じる力と同時に、他者が感じているものを感じ取ること。応答する力が必要になる。
私がそのことをうまく説明できないということも大きいのだが、だから、ボランティアに来てくださったものの、どう動いていいかわからないという表情をされる方は少なくない。そんな中で、子どもたちとすぐに縄跳びを始めてしまう李さんは、場が発するメッセージを受け取る力があるように感じた。
私たちが居場所「てとてと」を開催している相模原市緑区のS地域は、国道16号線から少し奥まったところにある。古くからの農村地域と1970年代に広がった工場地帯とがまさに接する地域だ。私たちは、ここの1970年代に建てられた県営団地の集会場をお借りして、月に2回、子どもの居場所と学習の場所として「てとてと」を開催している。
この地域には外国につながる子どもが多い。工場団地では、単純労働者を多く必要とする。外国人の労働者たちがそこで働き、公営団地で家族を伴って暮らすからだ。
もっとも、団地だけでなく、地域の戸建ての真新しい家からも子どもたちはやってくる。だれが来てもいい場所なのだ。
私たちは旗を立て、そこに集まってきた子どもたちをだれでも受け入れる。毎回20名前後の子どもたちが集まってくるが、出自はあまり気にしていない。名前などから明らかに外国につながる子どもであるとわかる場合もあるが、日本名を名乗っている子もいる。私たちの皮膚感覚では、子どもたちの6割程度がカンボジア、ベトナム、中国系など外国につながる子どものようだ。
親世代は、たどたどしい日本語を話したり、あるいは、挨拶程度しか日本語は話せない者もいる。一方、子どもたちの話し言葉は滑らかな日本語で、意思の疎通に困ることはない。ただし、音読の宿題などにつきあうと、言葉が不十分であることが知れる子もいる。文字が書けない子どももいるが、それは日本人の子どもの中にもいる。
この地域では、日本人も外国につながる子どもも、同級生同士として区別なく、遊んでいる。集会場の隣にある保育園を卒園し、地域の小学校に入り、仲間として私たちの「てとてと」に遊びにくる。
さらに、ここにはいくつかの居場所や子ども食堂、無料学習塾が集まっている。地域にそうしたものへのニーズがあり、そのことを感じて活動を始める人たちいるのだ。そのうちの4ヵ所が集まり、社会福祉協議会が事務局になって、情報交換会を開催している。その情報交換会主催で、今年の夏休みには、学区内のキャンプ場でバーベキューを行った。李さんは、そのときも、駆けつけてくれて、その場で自分に何ができるかを考えながら、子どもたちや高齢者に目配りしていた。他の子ども食堂の活動に参加している高齢者もいるのだ。
今回のバーベキューには民生委員が何人か参加してくださったが、地域の福祉に関心を寄せて活動する人たちの多くが、親世代から地元に土地をもち、生活してきた人たちだ。これに対し、外部から入ってきた人たちは、どちらかといえば、地域のあり方に関与しない。後から来たという遠慮があるのは確かだが、地域を作るという意識はどことなく希薄だ。その中で、さらによそ者としての立場になる外国人は、笑顔で挨拶をしてくれる母親や、ほとんど表情を動かさない父親たちが中心だ。
そんなことを感じていたので、李さんがボランティアとして初めて来てくれたとき、「珍しいな」と思った。実は、定着してくださるとは思わなかった。それが、定期的に顔を出し、行事で子どもたちを引率してくれたりする中で、少しずつ親しくなった。
そんな李さんに、じっくり話を聞くのは今回が初めてだ。
李さんに限らず、外国から日本に来る人たちは、日本人からは見えにくい背景をもっている。とはいえ、李さんの話を聞くうちに、なぜ、「てとてと」に関心を寄せてくださったのかが見えてきた。
李さんは現在、50代半ばだ。17年前に、夫と当時中学1年生だった娘と一緒に来日した。その後、この地域にある工場で、夫婦で働き、娘を育ててきた。
出身は中国吉林省長春から50キロほどのところにある田舎町だ。都心から40~50キロといえば、都会の郊外住宅地を想像する。だが、交通網が発達していなかった1960年代、都市部からは切り離された、原野の中にポツンとある農村部だったという。
李さんは、10人兄弟の9番目だ。1960年代、家は貧しかった。
医療は十分に行き渡っておらず、能力が高かった父は独学で医療を学び、村内に病人が出ると、鞄に薬を詰めて、治療して回ったという。いわゆる「裸足の医者」だ。
「家には、鍼灸のための長い針がありましたね。後になって、近所の人から、お金がなくて薬代が払えなかったが、父が自分で薬代を出して、治療をしてくれたと、お礼を言われたことがあります」
李さんの話を聞いて思い出したのは、1993年の筆者(杉山)の取材旅行のことだ。長春は、1932年から1945年8月まで、日本の傀儡国家である「満州国」の首都だった。中国では、満州国のことを「偽満州国」と呼ぶ。取材当時、街の中心部には、「偽満州国」時代の巨大な日本風の政府の建物が、立ち並んでいた。
このときの取材は、1996年に出した『満州女塾』という本を書くためだった。日本政府は中国侵略政策のため、この中国東北部に日本から開拓民を20年間に500万人送り込むという計画を立てた。実際には国策によって、1945年の敗戦までに、22万人とも、27万人とも言われる人たちが、開拓民として満州に渡った。政府は、すでに中国人たちが耕していた土地を安価な価格で買い取ったり、日本人の土地と定めて原野を開拓させたりした。当初は、武装移民と呼ばれた若い男性たちが送り込まれ、土地を取り戻しに襲撃に来る中国人たちを匪賊と呼び、殺害。その遺体を見せしめのために晒すことも当たり前にあった。
『満州女塾』は、そのようにして国策として開拓民の妻になるために日本全国から組織的に集められ、現地に送り込まれた女性たちに話を聞いて書いた。当時20歳前後だった女性たち20名ほどに話を聞いた。
女性たちの一人、Kさんは岡山県出身。家は貧しい農家で、父は病死していた。1944年、18歳のときに、青年学校の校長に声をかけられ、あなたは優秀だからと、満州国にある「女塾」に行くことを勧められた。そこで満州国について学び、見学して日本に伝えるのだと教えられ、それはお国のためになると信じて、応募した。彼女は軍国少女だったそうだ。だが、実際は「女塾」は開拓団の青年との結婚を前提として計画されていた。Kさんは、現地で黒竜江省の田舎の開拓団の男性との結婚を強要され、一人で日本に戻ることもできず、受け入れた。敗戦直前の7月下旬、妊娠4ヵ月のときに夫は徴兵された。それから12日後の8月10日、ソ連軍の侵攻を受けて、土地を追われた。
その後、Kさんは、中国人の農家で働いて生き延びたが、臨月になり、働けなくなる。厳冬を越すことができず、中国人男性の元に嫁いだ。その10日後に出産した。Kさんの中国人の夫は生まれた赤ちゃんを自分の子どもとして届け出た。Kさんは、母乳が出なかったが、夫はその子を抱きあげて、近隣の家々を回り、もらい乳をして子どもを育てた。彼女は、他人の子どもに尽くす夫に驚き、深く感謝したと私に語った。
夫の母親は、7年前に、町に卵を売りに出て、橋の上で関東軍(日本陸軍)の兵士たちにからかわれて突き落とされ、その傷が元で亡くなっていた。植民地では、地元民への侮蔑と命を軽んじる行為は当たり前に起きる。
戦後Kさんは、国交のない中国から帰国できず、中国人の妻として子どもを産み育て、30年以上この地で暮らした。
私は、Kさんとともに、彼女が暮らした黒竜江省の村を訪ねた。夫の一族が総出でこのKさんを迎え、歓待した。取材先には一族の男性たちが一緒についてきた。トラブルを避けるためだと言われた。男たちは常にKさんに配慮し、気を配った。親族の結束の強さが印象に残った。
地方では、当時、基幹道路も舗装されていなかった。悪路を車はそろそろと進む。未舗装の道路の移動がとてつもなく時間がかかることを学んだ。
李さんの子ども時代は私の取材よりも20年ほど前のことだ。育った土地は、私の取材地よりも都会に近い。それでも、生まれた村落の周囲は原野が広がり、幼いころには村に電気は通っていなかった。
父は若い頃、本を読むことを好んだそうだ。母は8歳年上の、知的で、自分が貧しくても薬代を隣人に出す、奉仕の精神をもった父を尊敬していた。「父と母は一度も喧嘩したことがないんですって。一度も。そんなことってあるかしら」と言って李さんは明るく笑った。インタビュー中、李さんはよく笑う。
李さん自身、そんな父を深く尊敬している。自分が生まれた日に、父が日記に、『五番目の女の子が生まれた。将来、彼女は自分で努力をしないといけないだろう』と記したと教えてくれた。そのことを語ったとき、李さんの目には涙があった。父がそんなふうに自分の将来を案じてくれたことを大切なことだと思っているようだった。
その父が亡くなったのは、李さんが、小学校1年生のときだ。
村への電力供給の交渉のため、長春市の担当部署に出向き、自転車で片道約50キロの道のりを往復する最中、トラックの荷台に挟まれての死だった。
父は最後まで、他者に尽くす人だった。
父を亡くしてから、一家の暮らしは困窮した。
李さんは高校生のとき、国語の時間に先生に言われた。
「あなたの作文は、このクラスの中ではとてもいいけれど、あなたのお姉さんにはかなわない」
姉はとびきり優秀だったが、大学に進学できなかった。
「残念ですね。そしてその田舎町で嫁になりました。村のみんなの手紙の代筆をしてあげていました」
4番目の兄は、中学を卒業するとすぐに働いた。
「兄は成績が良かったので、中学の先生が何度も家に来て、母に進学させるようにと言いました。でも、下に4人も子どもがいるので難しかった」
他の兄たちも大学への進学には手が届かなかった。それでも兄弟の何人かは成人後、自学して教員になった。
生まれ落ちた国や社会や時代が、容赦なく人を追い詰める。貧困の中でも、自分が信じる生き方を生きようとした父。その父を愛し、信頼した母。どのような状況でも、自らの運命を切り拓き、肯定的に生活を組み立てる兄弟たち。李さんの穏やかな語り口に、自身の家族への尊敬と信頼が伝わってくる。
70年代から80年代にかけて、国全体の経済状態は回復して行く。高校は李さんが暮らした村から7キロほどのところの町にあった。毎日、1時間かけて自転車で通った。
「高校時代は、体を前に傾けてこんなふうに移動していたの。雨が降ると全身びっしょりで、膝から下は砂だらけ。1日、そんな服で過ごしてまた家に帰る。高校の近くに住んでいる人は、1日綺麗な服を着ていて、羨ましかった」
実は、インタビューは私の家のリビング・キッチンで行ったのだが、李さんは立ち上がると、体を床と水平になるまで曲げて、自転車を漕ぐ真似をして見せてくれた。わかりやすく、自由に、笑顔で私に状況を伝えようと表現する。
李さんは、10人兄弟で初めて大学に進学した。長春にある大学だった。公務員になって、教員として働くことを目指した。昔から子どもには関心があるという。だから、「てとてと」にもボランティアで来てくれるのだ。
「私は大学に入って、図書館で本を読んでわかったの。本を読むことが好きだった父親はいっぱい宝物をもっていると思いました。それで家で、農機具などが入っている倉庫を探して父の若い頃の本を見つけた。『韓非子』(戦国時代の兵法家 紀元前233年)、『紅楼夢』(清朝時代の小説)などがありました。あとは、色々な辞書。日本語の辞書もありました。ネズミが噛んだ跡やページがちぎれていたりしました。私は宝物だと思って、木の箱にしまいました。その後、読み返すことはありませんでしたけれど(笑)」
母はそんなふうに、李さんが父の本を大切に木の箱に入れたことを喜んだ。見つかった本の中に日本語の辞書もあったことについて、李さんは、父は日本語を話せたかもしれないと思ったと言った。
李さんが社会人になった90年代は経済の激動期だ。人々が低賃金で働くことで、国家的には急激な経済成長が達成された。それまでの地域の農村集団中心の計画経済が、民間企業や外資の企業に取って代わられた。
道路網が整備され、村落間の輸送が少しスムーズになる。人々の移動の自由が変化する。貧しい農村地域から、賃金収入を求めて、労働者やその家族が都市へ流入し、劣悪な環境で働くといった事態も起きた。為政者の考え方が変わると、企業の形が変わり、ときには一瞬で就労先を失うこともあった。
そうした先を見通せない変革期に李さんは大学を卒業し、社会に出た。実はこのとき、公務員試験を受けたが落ちてしまった。理由はわからないが、試験会場に身分証明書をもって行くことを忘れたからかもしれない結局、地域の小さな会社に就職した。
大学の同級生と結婚。25歳の時、娘が生まれた。一人っ子政策のため、子どもは一人だ。
李さん夫妻は、娘を大切に育てた。本をたくさん読み聞かせた。本を読む魅力を伝えたかった。娘は知的な力のある子どもに育った。
来日後のことだが、中学時代には、人生を切り開く女性の自由強さ、主体的な恋愛を描いた『ジェーン・エア』を読ませたそうだ。娘に、自律的な女性になってほしいという願いがあった。
ところで、李さんが日本に来るきっかけは、弟夫妻がすでに来日して生活をしていたからだ。弟は、幼いときから優秀で、小学校のときの担任がつけたあだなが、「小レーニン」だった。大学院を終えて、当時の正規のルートで来日して働いた。その後、一旦中国に戻り、しばらくして家族で来日していた。
弟の妻が経理として働く会社で、人材を探しているという話が出た。弟の妻は李さんを賢くて優しいと売り込んだ。すぐに話が決まった。
(後半に続く)