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居場所がうまれるとき~団地の「語り」から見えてくるもの

楕円形のアイデンティティを抱えて

倉数 茂

日本への対抗心

 現在、辺見さんは弟と建築物の設備工事の会社を経営している。最初に独立したのは弟で、辺見さんは休みの日を使ったり有給を取ったりして、弟の会社を手伝っていた。しかしコロナ禍が終わるとそれだけでは手が足りなくなり、辺見さんは10年やっていた溶接の仕事をやめて、弟と一緒に働くことにした。正直、不安は大きかったという。「溶接工でもそれなりに貰ってた方なんで。家も買ってますし」。家のローンはまだ残っている。ようやく手に入れた安定した仕事をここで捨てていいのか悩みに悩んだ。「うちの奥さんもすごい不安で、お母さんも不安で。でもお母さんには自分が弟を助けてほしいという気持ちもあったんです」。
 さいわい今は仕事が途切れず、気軽に休みが取れないほど忙しい。二人きりの会社なので、一人が休むと現場が滞ってしまう。インタビューの時も、この前ぶつけたあばらが痛むけど、病院に行くための時間が取れないとぼやいていた。

夢見たんですよね、夢見ちゃったんですよ。

──どんな夢?

弟と二人で年商1億いけたらすげえんじゃないかって。

 自分たちの会社を大きくすることで、これまで自分を差別してきた日本社会を見返してやりたい。その気持ちが働く原動力になっている。「辺見設備」という会社を、神奈川県で、日本で、知られる企業にしたい。そうした時、小さいころから、自分を排除し、差別してきた日本社会に勝ったことになる。「今まで見下されてきた分、こっちからどうだって見返してやりたい」。
 とにかく今はどんどん仕事をとってきて、二人で精一杯こなしていけば、年商1億も無理ではないと考えている。だけど、そこから先が難しい。というのも、自分たちだけで働くのではなく、人を雇い入れて、会社を大きくしていかなければならないからだ。
 カンボジアから人を呼ぶのはどうですか、と尋ねると、そうしたい気持ちもあるがやり方がまだよくわからないという答えが返ってきた。
 けれど、日本の外国人労働者の扱いには怒りを感じる。昔、自分のような外国人は働く場所を与えられなかった。ところが今では、どの建築現場にも中国人やベトナム人がいる。コンビニに行けばレジにアジア人が立っている。
 「あの人たちにやらせてるのは安く済むからやらせてるわけじゃないですか。安く使えるってんで、どんどん外国人を入れる。おまえら日本人のための外国人じゃねえんだよって思ってるんですよ」。外国人労働者が、日本の経済のために、都合よく排除されたり安く使われたりすることへの怒りだ。

子育てと学校と

 20代の初めに結婚し、25歳で子どもをさずかった。二人の娘たちは今では中学生と高校生だ。
 25歳の時に帰化し、日本名にした。だから娘たちも日本国籍だ。名前を選ぶ時、父親の姓であるヘンと、母親の姓のミーを合わせた*4。下の光は好きだったマンガの主人公からとった。
 独立するまでずっと工場勤めだったのは、工場なら定時に終わるし、家族に何かあれば駆けつけやすいからだった。母も、カンボジア育ちの妻も日本語ができない。トラブルがあれば対応するのは辺見さんの役割だった。学校からのプリントを見て、妻に内容を説明するのも辺見さんだ。これはもう自分が子どもの頃からやっている。
 日本で子育てするのは大変でしたか? と尋ねると、子どもがいじめられたりしないようすごく考えたというのが答えだった。たとえばお弁当。日本の学校のためのお弁当は、品数が多く、見た目もきれいであることで有名だが、辺見さんもそこでも子どもが浮いてしまわないようにがんばった。

*4 カンボジアでは、通常父親の姓名の名のほうをそのまま子どもの姓とするので、辺見さんの日本名の付け方は、カンボジアのやり方の変形版といえる。(上田広美・岡田知子編『カンボジアを知るための62章 第2版』第5章、明石書店、2012年)

──カンボジア料理じゃなくて日本風のお弁当なんですね。

うん、もう本当にそこで勉強しましたね。日本料理とかキャラ弁とか。

──キャラ弁!?

キティちゃんとかオラフとか作ってましたよね。

──お子さんが小学校、中学校の頃ってPTAとかやられました?

やりました。すごく面倒だったけど。自分は何でやったかというと、あそこ外人だからやらないよ、みたいな話を聞くんですよ。それがムカつくんすよ。決めつけんじゃねーよと。

──私たちも外国の方があまり学校の仕事に参加しないって話を聞きます。

カンボジア人からも、外人だからできませんと言えばやらなくて済むよ、ラッキーって話してくるんですよ。自分はそういうのしたくないんですよね。いや、そのくらいやろうぜって。だから本当に日本人と同じようにやってます。旗振りもやったし。そのくらいさ、自分の子どものためなんだからさ、って。

 辺見さんの「日本」への対抗心は、誰よりもしっかりと振る舞おう、子どもたちが肩身の狭さを感じず、のびのびと過ごせるようにちゃんとしよう、という形で発揮されている。子どもが小学校の時、子どもたちがお店を開く文化祭のようなものが開かれた。その時、辺見さんは子どものリクエストに応えて、自分が働く工場の就業時間後に、ピンボールマシンを作って学校に持っていった。プロの溶接工が作ったピンボールマシンだ。さぞや子どもたちは喜んだことだろう。

──辺見さんはやっぱり日本人とカンボジア人の違いというのを意識しながら生きてきた?

そうですね。自分は意識しています。だから逆に娘たちには意識してほしくないです。

──してほしくない?

してほしくないです。もう自由に生きてほしい。そのために国籍変えたし、外人には見られないし。

 幸いなことに、これまで娘さんたちが学校で差別されたり、特別扱いされたことはないらしい。明るくのびのび育っていると辺見さんは感じている。家族仲も良好のようだ。
 辺見さんは自分を差別してきた日本への怒りを持っている。しかし、同時に日本のカンボジア人コミュニティにも批判的である。

──子どもには日本にいるカンボジア人の仲間たちとずっと付きあい続けてほしい?

いや、そんなことはないです。自分がカンボジア人の集まりから出ちゃったんで、結局面倒くさいなと。カンボジア人で集まってもこういう仕打ちされたとか、日本人の悪口が多い。わかるんですよ、わかるんですけど。結局日本語もわからないで、頼ってくるだけで、それに疲れちゃって。

──日本語もしゃべれないまま日本の悪口言い続けているようなところが嫌だなと。

そう。だから自分から離れました。今、弟と二人で会社やってる、自分で稼いでる。それは日本人だけじゃなくて、周りのカンボジア人にも見せたいんですよ。日本人じゃなくたって稼げるんだっていうのを。自分たちはゼロから来た。あとから来た人は土台ができているわけじゃないですか。ここに行けばカンボジア人雇ってくれるよ、とか。

 自動車関連の結構大きな企業で、すでにカンボジア人が集団で働いているというのも、辺見さんの言葉で初めて知った情報だった。同国人同士で伝手をたどって仕事を探すため、特定の企業に集まるようになる。しかしその多くは「日本人がやらないような仕事」で、いつでも首を切られるような状態にある。それでもやめないのは、日本語ができず、選べる仕事が限られているからだ。
 日本人の大多数が気がつかないうちに、外国ルーツの人々があちこちで働き、暮らすようになっている。複数の文化、民族がひとつの社会に存在するサラダボウル化は着実に進んでいる。

アイデンティティと家族

 辺見さんのアイデンティティを図形化するなら、それは同心円ではなく、二つの中心を持った楕円ではないだろうか。そこではカンボジア人であることと日本人であることという二つの中心が、緊張感を持って共存している。いじめという形で日本から「拒絶」された小学生の頃から、ここは「自分の国じゃない」と感じているという。しかし「カンボジアが自分の国っていう考えもない」。そもそも彼が生まれたのはタイの難民キャンプで、カンボジアは両親が暴力でもって追われた土地だった。
 両親のための通訳をしてきた辺見さんは、まさに小さい頃からカンボジア語と日本語の境界線上に立って橋渡しをしてきた。それはつねに両側に属し続けるという体験であったろう。日本で敵意と疎外感を感じ、カンボジアという出自に目覚め、しかしだからこそ、日本に適応して成功を目指すというダイナミズムが、カンボジア系日本人である辺見さんを突き動かしている。
 一方三つ年下の弟にそうした緊張はなく、ずっと「日本にいるんだから日本人に合わせたらいい」という考え方だった。弟は──ケンカの強い辺見さんが周囲に睨みを利かせていたせいもあって──いじめを経験せず、疎外感を感じなかった。そのために辺見さんよりスムースに日本に同化していった。カンボジア人である自分と日本人であることの分裂を経験しなかった。
 辺見さんは、日本という国に対して、強い思いを持っている。それがはっきりと感じられるのは、今の政治への憤りを表明する時である。自民党の裏金問題や中小企業の倒産が増加していることに対して、辺見さんは政治家を非難した。
 「税金を上げて(中小企業を)潰してるわけじゃないですか。どう思います? そんな国ふざけてますよね」。「なんでみんな声を出してデモしねえのかって思ってるんですよね。自分は」。日本を良くするために、国民がもっと声をあげていくべきだという。「自分は日本人に負けたくないけど、日本、もっとちゃんとしろよという気持ち」。そういう辺見さんを「愛国者」と呼ぶことは奇妙ではないと思う。
 そして辺見さんの愛国心は、カンボジアにも向けられる。カンボジアも「クソみたいな政治」が続いているからだ。内戦終了後、カンボジアはフン・セン首相による38年に及ぶ独裁政治に突入する。彼が2023年に引退したあと、後を継いだのは息子だった。
 辺見さんの父親は、民主化運動の指導者サム・ランシーを日本から長年支援していた。サム・ランシーは、フン・セン体制に抵抗する野党を率い、その後終身刑を宣告されてフランスに亡命した人物である。そのつながりで、辺見さんも大きな額を寄付したことがあるし、亡命先から彼が来日した時にはいとこたちと一緒にアテンドをした。話を聞きながら、辺見さんは日本とカンボジアという二つの国に対し、はっきりコミットメントの意思を持っているのだと感じた。また移民ならではの、国境を越えた、インフォーマルなネットワークにも属しているのが印象的だった。
 辺見さんの芯にあるのは、両親への強い思いであるように思える。
 「自分、本当に男として尊敬してるのは、親父だけかなって思って。だって日本に来て0円から(家族を養った)。本当に頑張って、日本語もわからない状態で、自分を育ててくれたので、あの人は本当に頭が上がらないですよね。まあ、若い時は結構(自分もやんちゃしてたけど)、まあ自分は(親とは)喧嘩はしてないです。反抗期はなかったんで、自分は」。
 父親は座間にある日産関連の工場で20年近く働いた。「実家に行くとあるんですよ。会社からの賞状っていうんですか。あれ親父が本当に何枚もあるんで」。
 そうやって真面目に働いて家族を守ってきたんですね、というと、「そうですね、親父はすごい強かったですね」とうなずいた。父親は稼いだ金の一部を故郷に送金もしていた。
 その父親も7年前に60歳で亡くなった。唐突な亡くなり方だった。その日が1月2日で、前日家族で初詣をした時に喧嘩してしまったのが今でも心残りになっている。喧嘩の理由は、医者から塩分の濃い食事を止められているのに、隠れてこっそりラーメンを食べたことだった。「自分は心配だから怒ってるんですよ。生きてほしいから喧嘩になる。だから喧嘩別れみたいになっちゃって、本当に今話しててもショックでしょうがない。あの人に最後ちゃんと笑顔で別れなかったなと思って」。
 今は一人になってしまった母親に親孝行してやりたいと思っている。休みの日には借りている畑で一緒に農作業をしたり、買い物に付き添ったりする。

──自分のそういう親への気持ちってカンボジアっぽいって思います? 親子の関係にしても、今の日本ってもっとドライじゃないですか。

カンボジアっぽいなって思ってます。親があっての自分なんで。自分さっき言ったように親父とフレンドリーだったってのは、あの人を尊敬していたからなんですよ。

 辺見さんの強い家族愛にも、カンボジアの伝統的な家族のあり方が継承されているようだ。東南アジアには男性中心の社会・家族構造が残っており、父は家長として家族に責任を負うのが一般的である。父への尊敬と母への愛をまっすぐに語り、自分の役割は妻と娘を守ることだと確信している辺見さんのあり方は、個人主義の感覚の強い現代日本では、どこか古風にも家父長的にも感じられる。しかしその価値観が辺見さんを支え、家族を安定させていることも確かなのだろう。
 「小四の時かな、親父に授業参観のことを伝えたんですよ。こういうのあるから見にきてねって。母ちゃんと親父だけ来るのかと思ったら、親戚一同来ちゃって周りからすんげぇいじられましたよ。すんごい恥ずかしくて。嬉しいですよ、家族とか身内は好きなんで。ただ恥ずかしいですよね」
 辺見さんは、カンボジア人と日本人という二重のアイデンティティを持っている。と同時に、その二つの国に対して冷めた思いもある。まず日本には怒りと対抗心がある。しかしその怒りは、社会から一目置かれるようにしっかり働いて金を稼ごうというポジティブな思いに転化している。

──日本に差別されてきてムカつく。それはよくわかる。そこで負けたくないから、ガッツリお金を稼ぎたい。それもわかる。だけど、それだからしっかり働いて、お子さんにきちんとお弁当作ってPTAにも参加してって客観的に見たらすごくいい日本人、模範的な市民になってませんか? なにかねじれてません?

ねじれちゃってますよね。本当に役所とか、自分が関わってきた入国管理局とか、日本のトップの政治家とすごい嫌いなんですよ。ムカつくことされてきたから、すごい嫌なんですよ。

 ここはお互いに思わず笑ってしまった部分だ。「大人」を困らせてやろうと暴走していた10代の不良時代はともかく、現在の辺見さんは、むしろ仕事に励み家族を大切にする模範国民である。もっとも怒りが消えたわけではなく、今では行政の窓口になる役所、社会を差配する政治家、外国人を安く使い倒すシステムなどに向けられている。
 思えば、マジョリティの日本人は、アイデンティティというものをあまりに単独の円として考えすぎていたのではないだろうか。しかし考えてみればわかるように、アイデンティティというのは本来複数の要素を持つものだ。カンボジア人としての自分と日本人としての自分を共存させていくことは何もおかしなことではない。
 私は辺見さんの話を聞きながら、これからはきっとこのような人が増えていくのだろうと思った。カンボジアばかりでなく、中国系日本人、ベトナム系日本人など色々なルーツを持つ日本人が増えていく。蔓延する外国人への差別やヘイトを乗り越えられれば、きっとそうしたカラフルな未来が待っているはずだと考えるのは楽しかった。


* * *

 インタビューを終えて

 相馬さんはとにかく対面した時のインパクトが強い。目力というか、オーラというか、イカつい男性特有の迫力のようなものが放射されている。普段そういう人と接する機会のない私は、向かい合っただけでついドキドキしてしまう。けれども実際に話を始めると、気持ちの細やかな優しい人だと感じる。最近は外国ルーツだと思われることは少なく、沖縄出身とよく勘違いされるそうだ。確かに、肌が浅黒く、目鼻立ちのはっきりした容姿は沖縄人にも見える。
 そんな辺見さんに「外人」という言葉をどう思うか聞いてみた。というのも、何度か「外人」扱いされる怒りを語りながら、自分自身で「外人」と呼ぶこともあったからだ。辺見さんの答えは「ちっちゃい頃からずうっと言われてきているから、慣れちゃっているのかも」というものだった。でもやはりイラつきもするという。外人=ソトの人。帰化した辺見さんはまちがいなく日本人なのだが、自分がソトの人だという感覚は消えていない。そしてソトの人という感覚があるからこそ、社会制度や政治への意識が高まる。小さいころから役所に提出する書類作りなどを手伝っていたせいもあると本人は言っていた。
 本文でも書いたように、相馬さんには日本への「対抗心」が、そのままよき市民としての振る舞いになるという反転がある。もちろん、それは良いねじれだ。怒りの感情がひがみや攻撃性を呼び起こすのではなく、自分と家族が幸せになるための努力に転化しているからだ。自分など、差別を長年受け続けたらもっと鬱々とした感情に囚われてしまいそうだ。この前向きさは、インタビューをしていても強く感じたものだ。この連載に出ていただいた人たちの中でも一番ポジティブなエネルギーを持っている感じがする。
 そのポジティブさには現実的な背景もある。外国籍という解雇されやすい立場であるからこそ、職場でトラブルを起こさないこと、人よりも腕前を上げることを若い時から意識していた。そういう現実的な判断を貫けるところが素晴らしいと思う。
 いろいろな人にインタビューをしてきて、親への信頼(別の言い方をすれば、自分は親から愛されてきたという確信)を持てるのはつくづく大きな資産だと思った。辺見さんは、両親が朝から夜遅くまで働くなかで、弟の世話をするなど、ヤングケアラーと言ってもいい子ども時代を過ごしてきたのだが、自分が両親に慈しまれてきたという確信を持っている。PTSDを発症してもおかしくない(発症していたかもしれない)過酷な青年時代を持ちながら、息子にそう思わせたご両親も立派だ。子ども時代に育まれた親への信頼というものは、やがてどこかで人間や世界そのものへの信頼を底支えするように思う。辺見さんは、日本社会を批判しながら、しかし同時に根本的な部分で──努力すれば報われると信じられるというような形で──世界への信頼を持ち続けていると思った。

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著者略歴

  1. 杉山 春(すぎやま・はる)

    一般社団法人てとてと代表理事。東京生まれ。ルポライター。児童虐待、家族問題、ひきこもり、自死などについて取材してきた。著書に『満州女塾』(新潮社)、『ネグレクト 真奈ちゃんはなぜ死んだか』(小学館文庫 小学館ノンフィクション大賞受賞)、『移民環流』(新潮社)、『ルポ虐待:大阪二児置き去り死事件』(ちくま新書)、『家族幻想 ひきこもりから問う』(ちくま新書)、『自死は、向き合える』(岩波ブックレット)、『児童虐待から考える 社会は家族に何を強いてきたか』(朝日新聞出版)など。公営団地内で子どもや母親の居場所を仲間と一緒に運営している。

  2. 倉数 茂(くらかず・しげる)

    小説家、日本近代文学研究。著書に『私自身であろうとする衝動 関東大震災から大戦前夜における芸術運動とコミュニティ』(以文社)、『黒揚羽の夏』(ポプラ社)、『名もなき王国』(ポプラ社)、『あがない』(河出書房新社)など。現在ウェブで連載しているものに、「再魔術化するテクスト カルトとスピリチュアルの時代の文化批評」(https://note.com/bungakuplus/n/n720620af6f98)。東海大学文芸創作学科准教授。

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