モーレツ社員・経営者から、くすのき広場開設まで
倉数 茂
凄腕の書籍訪問販売員
やがて吉澤さんはほるぷ出版という百科事典や児童図書を扱う会社に就職する。吉澤さんは「大学行く代わりに、本屋さんならいいいんじゃないか」と思って選んだのだという。ここにも吉澤さんの「知への情熱」が現れている。しかしそこは普通の本屋でも出版社でもなく、全国を回って直接百科事典などを訪問販売する会社だった。
レッドパージに反対して東大を退学になったという経歴を持つ中森薪人が立ち上げたほるぷ出版は、営業マンが直接個人と契約して書籍を販売するという手法で急成長した会社である。分割払いで大部の百科事典が買えるというのが受けた。吉澤さんはここで営業マンとして頭角をあらわす。
私は根っから性格がもう何かあったらすぐ競争したくなるタイプだから。そうすると営業マンの中でも競争するわけでうわーってね、うん。そんなことやっても、半年ぐらいですぐマネージャーになっちゃった。
創業者の中森薪人は会社の意義として次のような目標を掲げている。
1 全国家庭に徹底的に良書を普及する
2 出版界を革新し良心的出版関係者を勇気づけ良書の製作普及を促進する
3 児童文学館の建設近代文学館学校施設への百科の贈呈等に依り陽の当たらぬ場所への良書の普及を目指す
4 働く者の生活と権利を保障しさらに広く社会進歩の影響力を行使出来るべき集団を作る*2
ここにも憲法が保障する「健康で文化的な生活」を実現させようとする「戦後民主主義」的理念があると言っていい。あるいは、高邁な理想と抜け目のないビジネスマインドの結合が。
「ハンセン病文学読書会」を主宰する佐藤健太によれば、日本の各地に存在したハンセン病の療養所にも、訪問販売の営業マンは乗り込んできたという*3。この時代、ハンセン病者たちは施設に閉じ込められ、家族に容易に会えない幽閉に近い生活を送っていた。街の書店に出向くことのできない患者たちにとって、たくましい商魂を発揮して療養所までやってきてくれる営業マンはありがたかったに違いない。当時、療養所では詩や小説を熱心に書く患者が多く、書籍販売員は数少ない社会との接点だった。
1960年代は「百科事典ブーム」「文学全集ブーム」があった。出版社は競って大部の事典や全集を発行した。ほるぷ出版(設立時は図書月販)の躍進は、その流れに乗ったものだったし、吉澤さんはそこで有能な営業マンとして活躍していた。
個人的な話になるが、私の実家にも2種類の文学全集と8巻揃いの百科事典があった。中学生のころ、百科事典でエッチな項目ばかりを拾い読みしたし、太宰治も三島由紀夫もドストエフスキーもその文学全集で読んだ。そして私以外の人間が、それらの書籍を読んだ形跡はないのだった。読みもしない文学全集を買い揃える両親の見栄っ張りを10代の私はカッコ悪いと思った。
だけど今は、両親がなぜ大枚をはたいて読みもしない事典・全集を買い求めたのか理解できる気がする。親たち、特に裕福とはいえない家に育って、大学を出ることで大手企業に就職できた父にとって、それらの本がずらりと並んだ書棚は、自分が貧しさを克服して「中流」に成り上がったことを示すトロフィーだったのだろう。そして背表紙を眺めるだけで、ついに「文化と教養」を手に入れたと満足できたのだ。子どもの頃は憧れるだけだった文学書によって。
その意味で、吉澤さんとうちの父は──もちろん面識があったわけではない──売る側と買う側として、「中流の生活」という夢を共有していたといえなくもない。1960年代当時、そういう家庭は珍しくなかったはずだ。日本は高度経済成長に突入していた。
*2 中森蒔人『ほるぷの意義』、図書月販、1972年
*3 「宛先のない手紙」を読む 第三回「療養所の作家と書籍販売網」https://leprosy.jp/japan/atena/atena03/ 2024年9月12日閲覧
モーレツ社員からモーレツ経営者へ
10年ほど吉澤さんはその会社に勤務した。会社にアルバイトに来ていた法政大学卒のタミさんと結婚した。もうヒラではなく、マネージャーとして地方を任されるようになっていた。タミさんと子どもと一緒に、あちこちに転勤した。長男は7カ所、学校が変わった。39歳のときに、会社を辞め、陶器商に転身する。
私はね、もうこれから活字の時代じゃないと、美術じゃないかなと思って。それで美術、絵画とか、掛け軸とかいろいろ研究したんですけどね。絵画とか掛け軸はみんな業者びっちり入ってんですよ。それは絵なんか、画商が入っててね、誰々の作家、描いたら全部買い取って。
意外と焼き物ってそういう部分が少ないんですよ。ただ焼き物っていうのはその食器から調度品から最後はお茶の世界があるんですよ。だからね、勉強することいっぱいあるんだけども、とにかくこの世界はまず陶商が入り込んでないなっていうので、これだって入ってみた。
こうして吉澤さんは経営者になった。書籍営業マン時代につちかったコネクションが生かされる。吉澤さんが目をつけたのは、陶器展の催場として地方の大きな書店を活用することだった。この時代、まだチェーン店化されていない都市の書店の経営者には、地域に顔がきき、人望がある人が多かった。そういう人は、地元の経営者や商店主に顔がひろい。地方都市には、親子代々商売を続けている企業や商店が多い。そういう場所では、昔からの人間関係がものをいう。書店で陶器展を開き、店主から興味を持ちそうな人を紹介してもらうことで、吉澤さんは顧客を開拓できるし、店主はマージンを得ることができる。美術品でもある陶磁器の販売は、書店にふさわしい文化的なビジネスでもあった。
もちろん催事場になるのは書店だけではなかった。呉服屋、宝石販売店、ホテル、百貨店などで展覧会・販売会を開いた。人間国宝から無名の若者までいろいろな陶芸家とつきあった。社員を雇い、猛烈に働いた。
1年365日あるとしたら364日までは仕事してました。大晦日だけ休んでね。もう元旦はデパートの搬入です。2日からの売り出しのための。たいして売れないんだけどね(笑)。そんなことやってたでしょ。大概ね、例えば焼きもののときなんかも、島根県の松江ってのはものすごく売れるんですよ。松平不昧公っていうねお茶のすごく有名なお殿様がいて(…)例えば、安来なんかでもね、もう行くところ行くところみんな抹茶が出るわけですよ。だから安木の本屋さん回ると、一日5軒まわったとしてもね、必ず2服出るんですよ。5軒回ったら10服飲むことになっちゃう、抹茶を。さすがにね。もうコーヒーが出るとほっとします(笑)。
この時代の吉澤さんのモーレツぶりを示すエピソードはいろいろある。経理は妻のタミさんがやっていたのだが、月末の締めの時期に「お父さん、今月100万ぐらい足らない」と言われると、吉澤さんは「よしわかった」と車に飛び乗り、徹夜で地方へ向かう。翌日の朝から、見込みのある客をまわってなんとか必要な売り上げを調達する。毎月のようにそのようなことがあったという。「無理して一晩、1300キロ走る間に、やっぱタバコ一箱吸いますからね。眠気覚まし」
社長と社員が一丸となって猛烈に働くことで会社は成り立っていた。米子で販売会を開いて帰るときのこと。「よく売れて、夜中に岡山備前まで壺とかを社員と取りに行ったり。3日間の催事終わって帰ってくるじゃないですか。泊まらないで家まで帰ろうと車2台で、前の車、社員が運転してんですけど、車がこんなに大きく蛇行して。うわー居眠りだ! ブッブ~とクラクション鳴らして。よく事故を全然起こさなかったなって思うんですよね」。命懸けである。
「男」が長時間働くことが当然と思われていた時代だった。1970年代初頭の石油ショックを乗り越えた社会に、終身雇用・年功序列賃金という日本型雇用が根付いていく。それは夫が外で夜遅くまで働き、妻は家で家事と子育てを担当するという「サラリーマン+専業主婦」体制でもあった。金さえ稼いでいれば、家庭内にタッチしなくてもよかった。
もちろん吉澤さんの会社は中小であり、奥さんは専業主婦ではなく、今風に言えばCFO(最高財務責任者)である。けれども、吉澤さんや会社の社員たちの頑張りの背景にあったのが、働いた分だけ豊かになってきたという日本社会の実感であったことは疑えない。モーレツ社員、企業戦士という言葉が広く使われていた、いわばビジネスマンたちの英雄時代である。男とはそういうものだ、働くとはそういうことだという理屈が通った時代であった。
このような働き方が今の時代に合わないのはいうまでもない。しかし吉澤さんのビジネス武勇伝を聞いているとなんだかワクワクしてくるのも事実である。大変だけど、とても楽しそうなのだ。当時と違うのは、一生懸命働くほど豊かになれるという感覚が今は失われてしまったところだろう。日本経済は停滞し、終身雇用は崩れ、賃金は上がらない。体を壊すほど働いたって、得するのは会社で、貧乏籤[くじ]を引くのは自分である。「過労死」が問題視されるようになったのが90年代。「就職氷河期」と呼ばれる新卒採用の絞り込みが始まったのが1994年。長時間労働による社員を自殺に追い込んだ電通事件の最高裁判決が2000年、厚労省が対策に乗り出すのが2002年。日本社会に貧困が広がっていることが、驚きとともに再発見されたのが2000年代半ばである。右肩上がりの成長という戦後日本を支えてきた「夢」は崩れてしまった。
会社をたたみ、「くすのき広場」を立ち上げる
とはいえ、吉澤さんもだんだん「モーレツ」であることの限界を感じるようになっていく。
当時横浜あたりでもやっぱり(社員を)1人入れたら50万かかりますもん、月にね。だから、10人いりゃもう500万かかるんですよ。人件費だけでね、それを確保してやらなきゃいけないから、売上も相当必要だったんだね。だからもう休んでいる暇なかったですよ。やりながら、なんでこんなことやってんのかなあって(笑)。
50代になると体に無理も効かなくなってくる。徹夜で車を運転しながら、「何のためにやってるのかなってだんだん疑問」を感じるようになる。自分だけでなく、社員にも無理をさせてきた。「ああいう無理をしながらやってる仕事ってのは基本的には駄目なんだろうとは思いますけどね。」
そんな時、ずっと経理を任せていた妻のタミさんが突然くも膜下出血で倒れる。吉澤さんは仕事で静岡県富士宮市にいた。
夜中の1時頃に電話かかってきたんです、息子から。お母さん倒れたって。お盆の時期だから息子が来てたんですね。それでこれから北里(病院)に行くと思うって言われて、すぐ帰るから、それからもうスピード違反だなんだのかまわない、ばあっと帰ってきて、明け方家に行ってそれから病院に行って、医者が一番最初言ったのは呼べる人呼んでくださいって。五分五分です。
幸いタミさんの命は助かったが、当分歩けなくなってしまった。吉澤さんはリハビリのために会社をたたむことを決意する。「それまで資金面とかお金のことは全部家内にやらしてましたんで、ずいぶん苦労かけちゃったなと思ってもう全てやめて、これからはもうとにかく家内のために残りの人生をとね」。
それから毎日妻のリハビリにつきあう日々が始まる。犬と一緒に2万歩散歩する。ざっと計算して15キロ近くなるはずだ。休み休み歩くとして、一日仕事である。
吉澤夫妻は2010年にO団地に引っ越した。65歳以上が入れるシルバー向け住宅だった。
当時団地は荒廃していた。
10代半ばの若者たちが、住民の死角になる場所に集まって夜中まで騒ぐ。敷地内でオートバイを乗り回す。ゴミを捨て、花壇を荒らす。そのためにわざわざよそからやってくる若者もいた。O団地はいつの間にか地域の「やんちゃ」な子どもたちの集合場所になっていた。老人世帯が多く、敷地が広いため、管理が行き届かないところが好まれたのだろう。頻繁にパトカーが呼ばれるが治安は良くならない。いたずらで防犯ベルが鳴らされる。エレベーターの内部に火がつけられる事件も起きた。
管理組合長だった吉澤さんはなんとかしなければならないと考えた。警察に見回りの強化を依頼し、自分たちもパトロール隊を組織して団地内を巡回した。しかし、老人ばかりのパトロール隊は、若者に怒鳴りつけられると身がすくんでしまう。力に力で対抗しようとしてもうまくいかない、そう悟った。
吉澤さんが考えたのは、子どもたちの気持ちを知りたいということだった。つい最近まで団地で遊んでいた子どもたちが、思春期を迎えるころには言動が荒くなり、住民と衝突するようになる。何が起きているのか、何を考えているのか。
しかし自分には子どものことがわからない。子育てはタミさんに任せきりだった。息子たちが、転校に次ぐ転校で寂しい気持ちを抱えていたことも知らなかった。「例えば私なんか子供のこと何も知らないですよ。だって、モーレツ社員で、子供は親の背中を見て育てばいいっていうような意識でやってましたから。だから子供のこと全然わからんですよ。」
そこで思いついたのが、安全ボランティアだった。朝夕、学校の登校路に黄色い旗を持って立っているうちに子どもの方から声をかけてくれるようになった。
「だからそういう話を、これからこども食堂、広場やりたいっていう人の話があって、子供に声掛けられない、今公園で声をかけたら変質者に思われちゃうのでどうしたらいいでしょうかって質問がくるから、いつもその体験の話をするんだよね」
つづいて吉澤さんは何かできないか民生委員に相談した。そこから、社会福祉協議会、市会議員、社会運動を専門とする大学の先生などとつながり、何度か議論をするうちに、子どもの「居場所」を立ち上げようということになった。ライターの杉山春さんもそのときの参加者である。
「居場所」を立ち上げるためには変わりものともいえる個人の無償の情熱が必要になる。団地をなんとかしたいという吉澤さんの情熱が「くすのき広場」の出発点だった。しかし、「居場所」は一人だけでは立ち上がらない。
吉澤さんは他人を次々に巻き込んでいった。地域の小学校や中学校にも声をかけた。「自分は能力なくたって、人の力借りればなんでもできるだろうってね」と吉澤さんはいう。だから「くすのき広場」は吉澤さん一人が立ち上げたのではなく、立場も役割も違うたくさんの人たちの共同の成果である。
このように他人の知識や能力を活用することを、吉澤さんはほるぷ出版創設者中森蒔人の言葉を借りて「他の力」という。しかしこれは、吉澤さんが経営者時代に培ったスタイルでもあるだろう。タフな交渉力やコミュニケーション能力も仕事の中で磨いてきたものだ。各地で地元企業を巻き込みながら、陶器の展示会を開いてきた吉澤さんからすれば、協力者の大切さは当たり前のことだった。
2014年に団地内の多目的室を利用して「くすのき広場」がオープン。月2回、子どもたちが集まり、遊び、勉強する。クリスマスやハロウィンのイベントもある。ある時期から食事も出すようにした。最初は、スタッフが握ったおにぎりだった。
「居場所」は、そこに来る子どもたちのためだけの場所ではない。子どものために複数の人間が協働する。話し合い、アイデアを出し合い、体を動かし、子どもと一緒に遊んだりご飯を食べたりする。そのことで居場所は大人たちのためのものにもなる。コミュニティが結び直される。人と人がつながる。
もともと吉澤さんの当初の危機意識は団地の荒廃にあった。「やんちゃ」な子たちが集まってきたのは、団地住民の人間関係が希薄で、地域を把握する力が弱かったからだ。高齢者やシングルマザーの多い団地住民は、お互いに接点が少なく、協力して地域を良くする動きがなかった。今でもその傾向はあるのだという。それでも「くすのき広場」を集めて数年経つと、団地内の迷惑行為は下火になった。10代の男の子の顔を見れば、子どものころ一緒に遊んだ誰それだとわかる。そうすると以前のパトロール隊のときのようにきつい言葉を投げつけあう関係ではなくなる。
「居場所」や子ども食堂を、余裕のあるものが恵まれないものを援助する場だとみなすと誤るだろう。むしろ、大人も子どもも含むいろいろな人たちが、自分たちの力をそれぞれ持ち寄って、遊戯的な空間を開くのである。それは学校のような教育のための場でも、会社のような目的を持った場でもない。料理が得意なものは食事を作り、子どもは思い切り遊ぶことで大人に力を与える。だから、大人、子ども、男性、女性、年寄り、若者とさまざまな人間が関わるのは「居場所」にとって大切なことだ。
とはいえ「くすのき広場」のスタッフも高齢化が深刻だ。いつまで続けられるかわからない。
コミュニティというのは放っておけば、関係が希薄になり、無関心が横行する。軋轢は自然に発生するが、信頼関係は努力しないと生まれない。最近も、子どもの遊ぶ声がうるさいという理由で、O団地の公園の遊具が使えなくなったと聞いた。団地のことを知れば知るほど、無償の善意と冷淡な無関心が交錯する独特な場だと思わされる。
三つの時代を生きた人
吉澤さんが関わってきたのは「くすのき広場」だけではない。民生委員、自治会長、管理組合理事長といったいくつもの役職を歴任してきた吉澤さんは、O団地の中心人物の一人である。住民の要望を持っていって役所と折衝することもあるし、団地の催しでも大きな役割を果たす。インタビュー時には近いうちに行う「さんま祭り」というイベントについて楽しそうに語っていた。岩手県大船渡のさんま200匹を団地内で焼くのだという。2024年の8月には、「くすのき広場」と「てとてと」合同で、相模川岸辺のキャンプ場でバーベキューを行ったが、やはりその企画の中心にいたのが吉澤さんだった。当日あまりに暑すぎて、もう八月の野外イベントは無理だ、という結論が反省会で出たけれども……。
吉澤さんの団地でのコミュニティ活動に、モーレツ営業マン、モーレツ経営者自体に培った行動力や企画力が発揮されているのは確かだ。人がやることは、必ずその人の過去の歴史とつながっているのだと気づかされる。
社会学者見田宗介による有名な現代史の三区分というのがある。1945年から60年ごろまでを「理想の時代」、1960年から1970年代前半までを「夢の時代」、それ以降を「虚構の時代」と考えようというものだ*4。
ここでキーワードになっている〈理想〉、〈夢〉、〈虚構〉は、すべて「現実」の対義語だとされる。いつの時代でも人々は現実から出発してそれ以上のものを求める。ただ、その求める先が、〈理想〉から〈夢〉へ、さらに〈虚構〉へと移り変わっていった、というのが見田の見立てである。
吉澤さんの少年期は、日本全体が貧しさのなかから復興していく1950年代だった。父親が病身の一家はその中でも貧しく、吉澤さんは子どもの頃から新聞配達などをしてお金を稼がなければならなかった。またお金が欲しい一心で歌手に憧れたりもした。中学を出たら定時制に通いながら働き出した。大学まで行って弁護士になるというのはあまりに遠い夢だった。
けれども今振り返ると、この「戦後」には不思議な活力や明るさがあったようにも見える。人々は将来の豊かさや平等を、あるいは民主主義を信じることができた。もちろんこれはあまりに簡略化した言い方である。いつの時代もそれほど単純ではない。しかし、それでも総体として数多くの人々が抱いた思いが、次の高度成長を可能にしたという部分はあるのではないか。それを人々がまだ〈理想〉を信じられた、といってもいいだろう。ここでの〈理想〉とは、より良き社会、あるいはテレビのアメリカ製ドラマの中にあるような豊かな生活のことである。
見田は「夢の時代」に起きたのは、農村の解体と人口の都市への流入だという。核家族が主流になり、個人は高度成長へ駆り立てられた。そこでは漠然とした「中流の夢」が共有された。吉澤さんも工場地帯を出て、サラリーマンになって日本中を飛び回り、やがて陶器という美術品を扱う美術商になった。
「夢の時代」が終わったあと、やってきたのは現在まで続く経済的停滞と少子高齢化の時代であった。今の吉澤さんはO団地コミュニティの再生と維持のために奮闘している。「くすのき広場」の運営も、団地でさまざまなイベントを仕掛けるのもその一環である。都市郊外の古い団地には、高齢化、単身世帯、貧困、外国人労働者といった社会的な問題が集積している。それは華やかな都市の中心部にいるものにはなかなか見えない現実だ。郊外の団地群ができたのは、1950年代から70年代。経済成長に伴う都市住民の増大に対応するために全国で建設が進められ、当時は中流サラリーマン層のための住宅であった。郊外団地に集積する社会問題は、高度成長期の「夢」の残骸なのだ。吉澤さんは、少年のころから今まで、日本社会の変容を体現するように生きてきた。
筆者は吉澤さんのお話を伺いながら、日本の戦後史そのものが、固有の人生の形をとって見えてくるような気がした。そして今「くすのき広場」で吉澤さんが取り組んでいる問題はそのまま日本の未来図でもある。
貧困、少子化、高齢化、移民…、そうした事柄に人々が具体的に出会うのはすべて地域のコミュニティ(の荒廃)を通じてである。つまり豊かなコミュニティ実践は、そうした要素をプラスへと転換できる。そのために「地域」の中で具体的に何ができるのかが問われている、と思う。
*4 見田宗介『社会学入門』岩波新書、2006年