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居場所がうまれるとき~団地の「語り」から見えてくるもの

カンボジア系日本人として生きる

倉数 茂

幼い難民として

 辺見さんと出会ったのは、連載8・9回に登場した柚原さんの運営する外国ルーツの子どもたちのための学習教室だ。たまたま手伝いに来ていた私は、会場である集会所ホールに立つ一人の男性の姿に自然と目を惹かれた。周囲を行き来する教師役のスタッフとはずいぶん雰囲気が異なる。ギロリとした眼、浅黒い肌、がっしりした体つきが相まって並々ならぬ存在感を放っており、黙って周囲を見回す様子に独特の迫力があった。私は思わず「不敵な面構え」という言葉を思い出してしまったほどだ。すぐに柚原さんから、彼が教室に通っている生徒の父親で、カンボジア難民として日本にやってきた人だと紹介されて、すぐさま杉山さんと二人でインタビューの約束をとりつけた。以前から移民当事者の話を聞きたいと思っていたからだった。
 てとてとには、外国人ルーツの子どもたちがたくさんいる。その子たちの多くは移民の2世・3世で、日本で生まれて育っている。そのため会話能力や社会知識という点では、ほぼネイティブといって差し支えないだろう。しかしその子たちが今後どのようなアイデンティティを育んでいくのか、また社会でどのように遇されていくのかが気になっていた。だから幼い難民として来日し、カンボジア出身であることを意識しながら生きてきた辺見さんの体験を知りたいと思ったのだ。実際、辺見さんの話は、日本で移民(の子)として生きるという経験を生々しく伝えてくれるものだった。それは被差別体験となにくそという気持ち、日本と父母の国への愛と怒りが交錯するとても興味深い物語だった。

 辺見光(仮名)さんはS団地の近くに住む1981年生まれの男性だ。幼い頃にカンボジア難民として日本にやってきた。日本にやってきたのは2月だった。生まれて初めて目にした雪のことをはっきり覚えているという。これが雪かと思いながらかき氷のように口に含んだ。口いっぱいに鮮烈な冷たさが広がった。
 辺見さんは25歳の時に帰化して日本人となった。
 今では弟さんと一緒に空調設備を設置する会社を経営しながら、二人の娘を育てている。てとてとが開かれる団地の集会所のすぐ近くにある自宅で生活している。
 相模原市S団地には(元)外国人の住人が多いが、それは近隣の大和市に難民定住促進センター(1980-1998)があったからだ。日本にやってきた難民はまずこの施設に数ヶ月滞在し、日本語などを学んだ(難民定住促進センターは、大和市と神戸市の2ヶ所にあった)。辺見さんと両親も半年センターで過ごした。
 辺見さんの記憶によれば、センターにいるあいだは、一緒にやってきたカンボジア人がいたので、両親も自分も不安を感じていなかったという。日本で生きることの大変さを知るのは、センターを出てからだ。
 インドシナは複雑な植民地経験と独立闘争の歴史を持つ地域である。19世紀末にはフランスの重要な植民地となり、太平洋戦争中は日本軍に占領された。日本の敗戦後、インドシナはベトナム、ラオス、カンボジアに分かれて独立を宣言する。しかし独立を認めないフランスはインドシナ戦争に踏切り、そこに冷戦体制下の東西対立が加わって、インドシナ地域は1970年代まで長期にわたる戦争と内戦を経験することになった。
 ポル・ポト率いる革命政権クメール・ルージュがカンボジアを支配するようになったのは1976年である。クメール・ルージュは文明を否定し、識字階級を敵視する極端な恐怖政治を行ない、都市を破壊し、住民を農村に追いやった。クメール・ルージュ時代に殺戮された住民の数は200万人とも言われるが、これは当時のカンボジア人口の4分の1に相当する。1978年にはベトナムとの間に戦闘が発生し、ベトナム軍は首都であるプノンペンを攻略する。クメール・ルージュ政権は崩壊するが、カンボジア国内での戦闘は続く。この時期のカンボジアの人々が体験した政治的暴力は、過酷な出来事には事欠かない20世紀の中でも特筆に値する。
 辺見さんの両親が故郷を捨てて逃亡の旅に出たのは1970年代の終わりである。当時のカンボジアでは内戦が続いていたために、辺見さんの両親を迫害したのがどのような勢力なのかはわからない。カンボジアに侵入したベトナム軍かもしれないし、クメール・ルージュの残党かもしれない。あるいは他の武装勢力かもしれない。いずれにせよ、まだ10代半ばであった辺見さんの両親に、もつれあった状況を正確に理解する機会も能力もなかった。辺見さんの両親は、この何ヶ月にも及ぶ逃避行の途中で知り合い、夫婦となった。逃げている最中には、数多くの悲惨な出来事を目撃した。一緒に逃げていた子が、朝目覚めたら死んでいた。仲間たちが兵隊に捕まり、レイプされたり、遊び半分で殺されたりすることがあった。二人は命からがら逃げ続け、最後にタイ領内にあった難民キャンプにたどり着く。そこで数年のあいだ暮らすうちに辺見さんが生まれた*1。
 辺見さんは、幼い日を過ごしたこの難民キャンプについてわずかなことしか覚えていない。

*1 帰化の時に、出生証明書を求められたのだが、カンボジアにもタイにも記録がなかった。そのために手続きが一層複雑になった。

覚えてるのは、泥棒が来るんですよ。まあ兵隊さんなのか難民の中の悪い人なのかわからないですけど、そうなってくるとみんな泥棒来たって言って、みんな一気に住んでる家っていうか、テントを離れてまとまって逃げるんですよ。

──へぇー

まあ、で、結局その泥棒が兵隊さんだったり、ベトナムの兵隊さんとかが入って、もうそこで殺されるっていう。逃げなければ。だからもう、自分はお母ちゃんとかおばさんに抱えられて逃げてたっていう。

──あっ、逃げないと殺されるかもしれないんだ

もう逃げないと、なんかあの、なんていうんですか。どこに逃げたっていうのか覚えてないんですけど。抱えられて逃げたっていうのを覚えてますね、はい。

 このように難民キャンプでの生活も決して安心できるものではなかった。栄養面や衛生面でも問題があった。
 キャンプでは生まれたばかりの一番下の妹が栄養失調で亡くなっている。辺見さんは母親が泣いている姿を記憶している。辺見さんの両親は外国に移住することを決意する。
 インドシナ地域の内戦と体制変化は、国外へ脱出しようとする人々を多数生んだ。私自身──テレビで見たのか、雑誌に写真が載っていたのか──小さな漁船に乗り込んで海をさまよう「ボートピープル」と呼ばれた人たちの映像を覚えている。小学校低学年だった私の印象に残るほどお隣の国々からの「ボートピープル」は当時大きく話題になった。世論の高まりとアメリカからの圧力に押されて、日本はインドシナからの難民を一定数受け入れることを決定する。この受け入れが、日本の難民受け入れ体制の枠組みを作った*2。
 1979年から2005年にかけて日本にやってきた「インドシナ難民」(ベトナム、ラオス、カンボジア)は1万1319人。辺見さん一家もその一部として日本にやってきた。

*2 1981年日本は長年の懸案であった難民条約加入を果たすが、その後も難民受け入れに消極的であることは変わりがない。

学校でのいじめと孤立

 日本に来たばかりの頃、辺見さんの母親はカンボジアに帰りたいといってよく泣いていた。言葉の通じない、親しい友達のいない異国での不安は巨大だったろう。
 辺見さんが日本の小学校に入ったのは3年遅れの9歳の時だった。しかし当時、肌の色が違う外国人児童は目立つ存在だった。

──どんないじめがあったのか具体的に聞いてもいいですか?

まず横文字の名前(をからかうこと)から始まり、色が違う、で、国帰れよって言われて。その時にそうですね、落ちたペン、鉛筆を拾ってあげると(これは汚いから)もう使えないって言われたり。席を普通くっつけるじゃないですか、隣になったやつがすごい嫌だって、ヘン(辺見さんの当時の名前)が隣にいるよ、うわーっていう顔をしたり。

 当時の辺見さんは、テレビアニメや難民センターでの授業のおかげである程度言葉はわかったという。だから言葉が通じなくて孤立したというのとも違う。単純に、異質な存在を前にして子どもの残酷さが発揮されたのだ。しかし、教師や学校はなんとかできなかったのだろうか。
 いじめ体験が児童の心に深い傷を残し、心身への長期にわたる負の影響をもたらすことはよく知られている。とりわけ、それが外国ルーツの子どもであった場合、いじめは肌の色や言葉、文化習慣といった自分では如何ともしがたい属性によって、「日本人」──とりあえずは目の前のクラスメイトであるにしても、長じて日本社会一般と感じられるだろう──から排斥されたという痛みを刻印する。もちろん、学校コミュニティから排除されることで、日本語を学ぶ機会を失い、学力も学歴も低いまま社会へ放り出されることにもつながる。
 連載第9回で柚原さんも、外国人の子どもが体験する学校でのいじめについて繰り返し語っていた。日本の学校には異質なものを嫌う文化があり、先生もクラスがひとつになることを重視していることが多い。運動会や合唱祭といった学校行事の多さや、担任の細かな指導は、日本の学校の強みかもしれないが、同質性を保つ仕組みでもあるだろう。外国育ちの子どもが持つ異なる文化や異なる規範を包摂するには、教育現場に経験やノウハウがあまりに欠けている。いまだに明確な「移民政策」を持たない日本は、外国ルーツの子どもに日本語を教え、社会への適応を促すための仕組みも予算も人的資源もまったく足りてない。しかし10年後20年後を考えれば、外国ルーツの子どもたちの包摂は喫緊の課題だ。
 小学校の三年生くらいまで辺見さんは強烈な「孤独」を感じていた。この国は自分のいる場所ではない。幼い子どもにとっては、家庭と学校だけが世界のすべてである。その学校でクラスメイトから拒否されるのは大変なことだ。辺見さんにとっては決定的な体験であったといっていい。
 同じように世の中から拒否されているとはっきり感じる場所が役所と入国管理局だった。辺見さんは小学生二年生の時から、在留カードの更新のため親と一緒に市役所と入国管理局に通った。一番日本語ができるのが彼だったからだ。窓口の職員の言葉をなんとか噛み砕いて親に伝える。しかし複雑な書類、手続きを小学生が理解するのは容易ではない。窓口の冷たい対応に絶望した。
 その頃、父親と母親はいくつも仕事を掛け持ちして夜遅くまで働いていた。母は朝、昼、晩と三つパートに行っていた。フルタイムで働いていた父も、仕事を終えたあとに母と一緒に弁当工場に働きに行く。辺見さんは小学生の時から、台所に立って自分と弟のための食事を作った。

「やんちゃ」だった中高時代

 小学校も高学年になると、腕力でいじめを克服するようになる。「強けりゃみんな黙るだろうってことで、ちょっとワルに」「中学から逆にいじめをしてくるやつはボコボコにしてたんで」「力でねじ伏せたって感じです。いじめはさせないぞって感じです」。
 喧嘩には自信があった。もともと辺見さんは、一方的に差別されて黙っているタイプではなかった。小学校の時にすでに相手の歯を折ったこともある。こいつを怒らせたら手に負えない、という認識が周囲に広がることで、学校内で差別されることはなくなった。いきがってんじゃねえと締めにきた中学の先輩を逆にやり返すと、悪い仲間が集まってきた。遊び仲間には日本人も外国人もいたが、ワルたちの集団では出身で区別されることはなかった。辺見さんのことを「外人」と呼ぶものがいると、仲間たちが怒ってくれたという。高校時代は「暴走族みたいな感じ」だった。ずいぶん悪いこともした。コンビニの駐車場に停まっている車にパッと乗り込んで走り出してしまう。その車で仲間たちと平塚や江ノ島までいって騒ぐ。盗んだ車は河原に乗り捨て、消火器を浴びせて指紋を消す。車を盗まれた側にしてみればたまったものではないだろう。
 当時は「大人」に迷惑をかけてやりたいという気持ちがあったという。「迷惑かけるために悪いことしたんだと思うんですよ」「授業中に仲間と出ていって先生に迷惑かけたり」「バイクで警察に追われて警察に迷惑かけたり」。
 それは自分を拒否してきた日本を困らせてやりたいということなんですかと尋ねると、「そうなっちゃうんですかねえ」とうなずいた。
 辺見さんはこの時代のことを楽しかったし、懐かしかったという。けれども、19歳の時に辺見さんはとつぜん仲間たちとの関係を断ち切り、悪ふざけをやめて故郷であるカンボジアへ行く。

カンボジアへ旅立つ

 10代の少年が連日じゃれあうようにつるんでいた仲間たちとの関係を断ち切り、言葉の通じない異国の地へ一人で旅立つというのはただごとではない。この時、辺見さんの心で何が起こったのだろうか?

本当に悪いことして遊んでる時は面白かったですよ。みんなと海行ったり、楽しかったんですけど、だんだんと周りがカップルになったり参加できなくなったりしてくると、あれ、このままじゃずっと一人じゃねって。

 彼女がいたこともあったが、彼女の親が、「外国人」との結婚を許すとは思えなかった。そのうえ自分の両親もカンボジア人と一緒になるのを望んでいるとわかっていた。10代も終わりに近づいてくると、仲間も結婚したり、働き始めるようになる。もともと小学校に入るのが遅かった辺見さんは、遊び仲間より年上だった。自分はもう「子ども」ではいられないのだと痛烈に意識した。しかし、どのような「大人」になれるのだろう?

もうほんとその時にすごいいろんなことが想像できなかったんですよ。未来が。何にも出てこなかったんですよね。
あれ何もないじゃんこれって。日本に何もない。
遊んでるのはまだ子どもだから遊んでるわけであって、これが社会人になったら多分何もないなって思って。

 やんちゃ仲間と一緒の時は平等でいられる。でも一歩外に出れば「外人」である自分は仕事も家族も得られそうにない。「何もない」というのはそういうことだ。やんちゃが終わってしまえば「ずっと一人」なのだ。その時、彼が選んだのは両親の国で言葉を学ぶことだった。もっとカンボジア語が流暢[りゅうちょう]になって、通訳の仕事に就ければ金も稼げるだろうと思った。

──カンボジア語ができるようになりたい、通訳もやりたいっていうのは、自分がカンボジア人として中途半端だみたいな気持ちがあったんでしょうか?

ありましたね、カンボジア人なのにカンボジア語がしゃべれないってなんだろうなぁっていうのは。自分の国の言葉ぐらいはちゃんとしゃべれるようになろうと思って。

 将来が見えない苦しみの中で彼の心にルーツへの問いが生まれた。言葉の通じない国に一人で行くのは不安だったが、カンボジアの人々は温かく彼を迎えてくれた。現地にいるいとこの一人が「ボディガード」を買って出た。

──まだカンボジアはボディガードがついてないと危ないようなところだったんですか?

自分が行った時ですか? 多分今も危ないですよ。日本人はちょっと平和ボケしているからわからないかもしれないけど、自分が行った時は本当に危なかったですね。ボディガードをとりあえずつけて、近場で銃声とか聞こえたんで。夜になると、とりあえず家から出るなって言われて。

 カンボジアの貧しさにも目を開かされた。あちこちに生々しい内戦の傷跡が残り、生活はまだ近代化していない。水道がないので、水は湖から汲んでこなければいけない。
 2000年前後のカンボジア人の月当たりの所得はおそらく数千円程度だったと思われる。急速な経済成長を続けた10年後でも181米ドル(当時の為替で約1万6000円)である。国民間の格差も極端だった。空き缶拾いや物乞いなどで生きている人がたくさんいた。カンボジアという国の現状を自分の目で見たことで、自分が豊かな国で育ってきたと理解できた。
 だが一方でカンボジアでの生活は楽しかった。稲刈りの終わった田んぼで現地の人たちとサッカーをしたこと、いとこのバイクで二人乗りをしていたら牛に追いかけられてびっくりしたこと、屋台で食べた料理や首都プノンペンのメコン川沿いの風景などは今でもいい思い出だ。このカンボジア滞在は、19歳の辺見さんにあらためて先祖の地との絆を確認させるとともに、あらためて自分は日本で生きていこうと決意させたのではないか。
 そしてとても大切な出会いがあった。父親の友人の娘で、カンボジア語を教えにきていた女性と恋仲になったのだ。中国系カンボジア人で二つ下の彼女は、自分も辺見さんから日本語を学びながら、毎日昼食と夕食を作ってくれた。そのうち、辺見さんといとこと彼女の三人で遊びに出かけたりするようになった。彼女が今の奥さんである。

社会に出て再び差別に

 日本に帰って辺見さんは働き始めるが、またしても厳しい外国人差別に直面する。
 「日本国籍になる前の話なんですけど、電話してヘン・リット(仮名)ですけどと言うとうちの会社は外人はちょっと、と言って受け入れてくれないんです。もう本当に電話で終わってたんですよ。で職安行っても結局外国籍の人は……ていうんで、紹介してくれない」。
 2000年前後、日本の外国人労働者は約74万人。現在の230万人の3分の1だ。政府が「外国人材活用」を掲げて「特定技能」制度の創設や入管法の改定などを行うのは2010年代に入ってからだが、それ以前から建築、介護、農業、飲食などの分野では深刻な人手不足が進行しており、一定の外国人労働者が派遣・請負など不安定な雇用形態で働いていた。そうした労働者は、賃金が日本人の7、8割程度、社会保険も未加入というケースが多かった。「自分の年代は本当に(ひどかった)。今は結構日本も外人とか受け入れてるじゃないですか。その前は本当にひどかったんですよ」「それで日本国籍にして、辺見光になると面接はすごい増えたんですよ。もう本当に。電話したらすぐ来てくださいってなるんですけど、いざ行くと、あれ、外国人の方ですか、うちは外人は……っていう扱いだったんで、結局変えても意味ねえじゃんって」。もちろん辺見さんの日本語能力はネイティヴと遜色ない。しかし国籍が日本であっても肌の色で断られるくらい、就業における外国人差別は深刻だった。
 これは高校生の頃の話だが、全国有数の大型スーパーチェーンでアルバイトをした時、肌の色を理由にレジなどの仕事は任されず、バックヤードでの作業ばかりをさせられた。日本育ちなのにアジア系外国人としての見た目が接客に不適切だとみなされたのだ。豪速球の差別である。
 辺見さんと弟、いとこの三人が派遣の面接に受かったことがあった。現場は東京湾岸のお台場だった。ところが行くと、日本人の名前が書かれた偽の保険証を渡され、これを使って現場に入れという。派遣先は外国人を受け入れないところだったのだ。辺見さんたちは、偽名を使い、日本人のふりをしてドキドキしながら働いた。
 たぶんそういう方針だった会社は潰れてるんじゃないかと辺見さんはいう。「やっぱり今生き残ってんのって外人を受け入れてるところ。外人って安いんですね、正直」。
 日本人よりも簡単にクビになるため、外国籍の人間は必死で仕事の腕を上げようとしたという。なにより辺見さんがそうだった。
 20代、辺見さんは派遣やパートやアルバイトの形態で、数十にわたる肉体労働を転々とした。
 外国人の労働差別の難しさは、それが単なる偏見や悪意〈だけ〉に基づくわけではないところにある。なぜなら、賃金や待遇を日本人労働者より低く抑えることは企業に大きなメリットがあるからだ。つまり外国人の立場の弱さや労働基準局に訴えることの困難さが利用されているのである。製造業や建設業で外国人労働者が労災に遭う確率は日本人の2倍近いというデータもある*3。それだけ危険な作業に従事させられているということだ。
 人手不足のせいで外国人を理由に門前払いされるケースは減ったかもしれない。しかし労働条件の悪さは変わっていない。労働基準法は、「労働者の国籍」を理由にした賃金や労働時間の差別を禁じている(均等待遇の原則)。外国人の待遇が低く抑えられることは、日本人も含めた労働者全体の下降圧力として働く。むしろ全員平等に賃上げ・待遇改善を目指したほうが日本経済にとってプラスになるはずだ。

*3 「墜落死」、「腕切断」も頻発 技能実習生の労災死傷は「2倍」! https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/f6f0ce51569141f317782b34f84e95b67d65cbce

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著者略歴

  1. 杉山 春(すぎやま・はる)

    一般社団法人てとてと代表理事。東京生まれ。ルポライター。児童虐待、家族問題、ひきこもり、自死などについて取材してきた。著書に『満州女塾』(新潮社)、『ネグレクト 真奈ちゃんはなぜ死んだか』(小学館文庫 小学館ノンフィクション大賞受賞)、『移民環流』(新潮社)、『ルポ虐待:大阪二児置き去り死事件』(ちくま新書)、『家族幻想 ひきこもりから問う』(ちくま新書)、『自死は、向き合える』(岩波ブックレット)、『児童虐待から考える 社会は家族に何を強いてきたか』(朝日新聞出版)など。公営団地内で子どもや母親の居場所を仲間と一緒に運営している。

  2. 倉数 茂(くらかず・しげる)

    小説家、日本近代文学研究。著書に『私自身であろうとする衝動 関東大震災から大戦前夜における芸術運動とコミュニティ』(以文社)、『黒揚羽の夏』(ポプラ社)、『名もなき王国』(ポプラ社)、『あがない』(河出書房新社)など。現在ウェブで連載しているものに、「再魔術化するテクスト カルトとスピリチュアルの時代の文化批評」(https://note.com/bungakuplus/n/n720620af6f98)。東海大学文芸創作学科准教授。

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