鎧われる言葉たち、こぼれ落ちる言葉たち(2)──自分の足で歩くということ
杉山 春
自立を目指しての日々
Nさんは、大学3年になる時、野球部を辞めて家を離れた。家を出た理由を尋ねると、こんな答えが返ってきた。
このまま母親といると、すごく楽な生活になるなと思ったからです。そんな生活をしている自分が嫌だったので、自分のために選択しました。
私はステップファミリーとして生活をしていた時期のNさんの日常生活を「過酷」と名づけることが可能だと感じる。だが、Nさんは「母に頼ったすごい楽な生活」として私たちに説明するのだ。そのように親たちに言われたのではないか。不機嫌な義父から離れる必要があったとも言わない。Nさんは自分の実感からは語らず、他者の言葉に従う。自分自身の状況を感じる力も削がれてしまっていたのだろうか。もしそうであれば、それは暴力を受けている状態だと言える。
──母親の再婚で、自分も何か新しい刺激に出会えるかもってわくわくしたとおっしゃってたけど、両親の離婚に対してどんなお気持ちですか?
母親に対してはプラスマイナスどっちの気持ちもありますよね。良い部分は自分が18歳になるまで離婚を待ってくれたこと。それまで母がサポートしてくれたことは事実です。母親の人生なんであんまり干渉せずにいます。まあ、悪いところとしてはやっぱり父のことです。父は今兄と住んでいますが、配偶者はいない。これからも多分、状況は変わらない。だからペットを飼わせるとか、新しい趣味を作らせるとか考えます。
Nさんは、70歳手前だという父親の老後を心配し、対処を考える。父を一人にしたことに対して、母に批判的だ。父の味方だとも言える。
だが、離婚は2人の意思によるものだ。Nさんの父は私とほぼ同世代だ。私の感覚では、自分の人生を息子に心配されるとしたら、余計なお世話だ。自分の老後は自分で考えたい。Nさんの父親は仕事好きだという。なぜ、Nさんは父の心配をするのか。
ふと息子のNさんは、両親に求められる役割を生きているのではないかという考えが頭をよぎる。両親は、自分たちの現在を肯定することを息子に求め、それが息子の認知を歪ませているのではないか。家族関係では、しばしば認知の歪みの中に立場の弱いものを閉じ込める。微かにDVの匂いがする。DVとは親密なもの同士の支配とコントロールだ。
大学3年になり、Nさんは都内のシェアハウスに移り住んだ。野球を辞め、S団地にある無料学習教室のボランティアとして外国につながる子どもたちとの関係が始まった。集まってくる子どもたちの苦しさを感じ取る力を持っていたことはすでに述べたとおりだ。子どもたちに触れ、日本語教師への関心が広がった。都内の日本語学校に通い、日本語教師の資格を取った。
勉強する楽しさはあったけれど、通うのが大変でした。節約のために移動は自転車でした。シェアハウスから大学。そこからアルバイト先に行って、日本語教師になるための学校に通って。そうした忙しさを我慢できたのは、やっぱり部活を続けてきた強さだなと思います。根性を据えるというか……。それが当たり前だったので……。部活を続けてきて良かったですね。日本語教師の資格は無事にとることができました。
Nさんは優秀だ。感情を閉ざして現実に立ち向い、成功する。精一杯の頑張りは、Nさんの人生を前に進ませる。
だが、思いがけず、単位をとり忘れていたミスが見つかって、卒業が半年延びてしまった。そこで卒業後、日本の企業が行なっているオーストラリアのメルボルンで日本語教師のインターンをするという活動に参加した。現地には常駐の日本人スタッフが4、5人いて、そこでインターンをした後、ワーキングホリデーのビザで日本語教師として働くという仕組みだった。Nさんはマニュアル通りの教え方に違和感を持ち、自分のやり方で教えようとする。それが受け入れられず、インターンを終えて日本語教師として働くことができず、孤立した。
あの時僕は、マニュアル通りにすればよかったのかと思う気持ちもありますし、いっぱい挑戦をした自分を褒めたい気持ちもあります。
自分自身の目で見て、考えて、行動すると現実に適応できない。そんな体験だった。一方、この時期、不器用ながら、自分自身と向き合う。
自分には今何が必要なんだろうかと考えて、家族が必要だと思ったり。友達だけでいいのかなと考え直したり。自分はどんな仕事がしたいだろうかとか考えたり。それを一番頻繁にやっていたのは、オーストラリアにいた時でした。
ただし、この時期も誰かに話を聞いてもらうことはなかった。自問自答。自己完結だ。横にいる誰かの会話に耳を澄ませ、考えを膨らませた。
生きにくさを抱える子どもたちに心を寄せて
2021年の5月に帰国した。募集が出ていた相模原市内の小学校の非常勤教員に応募。支援級の担当になった。23歳だった。
教育の仕事に向き合ったのは、この時が最初で最後です。教師を極めたいと思ったのですが、知識がなくて、これは時間がかかると思いました。
周囲の教員たちは自分より優秀に見えた。上司からの評価は低い。劣等感を抱える。それでも自分にしかできないことがありそうだとも感じる。
赴任したP小学校で、僕はこの子は課題がありそうだなと思ったけれど、他の先生は気が付かなかった。他の先生は忙しくて対応を後回しにするのですが、僕は動ける。僕なりに情報を集めて、子どもを見ていく。小学校は比較的裕福な家の子どもが来ていて、先生たちも優秀な方が多いんですね。それでも、僕には人間的なところで伝えられることもあるかなと思った。
Nさんは、ここでも傷を負い、うまく生きられない子どもたちに惹かれていく。一方、こんな仕事の状態を、1日8時間を週に5日、約40年間続けられないという思いもあった。
「人間的なところ」を自分の特徴として働きたいという気持ちが生まれた時に、知人から児童相談所(児相)で働かないかと誘われた。教員じゃなくて、児童相談所もいいかなと思って応募。児童相談所の非常勤職員になった。夜勤はあるが、1週間に4日働くという勤務体系はNさんには合っていた。「児相で働きたいから退職したいと」と申し出ると、慰留されることもなかった。摩擦を起こすことなく転職を果たした。
Nさんの就労や転職の特徴は、職場での自分での売りを見つけようとすることにあるように思う。自分がその「労働市場」の商品として価値があるか否かを測っている。それは常に評価の対象であるということであり、少なくともある点で、他者と比較し、何かしら優位に立たねばならないと考えているようだ。それは人としては辛いことではないか。
高度資本主義社会が先鋭化する時、労働力の商品化は避けて通ることができない。求人側の価値基準に合わせなければ、生き残れないという焦りが生まれる。
だが、働く者が仕事を選んでいいはずだ。仕事を選ぶ時、必ずしも誰かと能力を比較しなければならないわけではない。好悪、志、希望、愛情、善意、正義、好奇心など、金銭的な評価とは異なる価値規範で選択し、収入面で折り合えばいいということもある。やっているうちに、新たな発見もある。自分を知る機会にもなる。
仕事をする者の主体性は非常に重要だ。「やりがい」は、何かを作り出す時の大きな原動力だ。やりがいが思いがけず、場を動かし、枠組みを変えることもある。ただ、そうした試行錯誤を体験するには、その職場での自由度も重要になる。
Nさんの児童相談所での仕事は、一時保護所で子どもたちと一緒に過ごすことだった。Nさんは、子どもたちが一時保護所で過ごす目的を「安定を取り戻すこと」だと説明してくれた。対応したのは小学生から中高生まで、夜は小さい子どもの相手もした。
入所中の子どもたちは基本的に一時保護所からは出られない。勉強は小さな教室で元教員が教える。敷地内の小さな運動場で運動する。入所期間は基本は2ヵ月を超えてはならないとされ、延長がある。Nさんがいた当時は、収容年月が長くなり、ここで2、3年過ごす子どももいたそうだ。
いつも定員オーバーで、一人部屋のところに2人でねーとか。規定通りにはならない。子どもの一部は児童養護施設でみてもらうこともあるけれど、そちらも満員になってしまう。(子どもに対する)職員は少ないです。非正規の僕より、正規の職員の方が絶対大変だと思う。だから邪魔にならないように、でしゃばりすぎないように、正規の職員さんのサポートをすることを考えていました。
受け身でいることは、Nさんは得意だ。それでも「若いという立場を強めに生かして」子どもに付き合った。一緒になって、開けてはいけないと言われた扉を開けて覗いてみた。
大人たち、職員たちは好きなところで好きなものを食べているのに、(子どもたちには自由がない)なんでそんなに偉そうなんだって思っちゃう。
Nさんは自然に子ども目線になる。
――Nさんは言葉を選んで話しますよね。強い言葉や激しい言葉は使わない。
それは大事にしてます。例えばイチローさんのメディアでの話し方、スピード感を見て、あ、こういうふうに言葉一つ一つ選ぶのかと思いました。あとは児相では、子どもにかける言葉は、言い方一つで誤解が生じる。特殊な場所なんで。そこでプラスの言葉で伝えるようにしていました。「嫌い」じゃなくて、「大好きじゃない」とか、「怖いの?」じゃなくて、「何が嫌なの?」みたいに。
――そういう話し方を児相で習ったんですか。
僕の考えです。他の人はしてないんで。感情的な言葉を使わない。そこは絶対にコントロールしないと。感情的になったら1回どっか行くか。何も話さないとか。まあ自分でルールを決めればいいことですが。
Nさんは一時保護所で、自分の感覚を自覚し対処を考えていた。
――怒鳴る人はいるんですか?
いないですけど。僕はいてもいいと思うんです。感情的に怒鳴るのは違います。でも、職員は子どもに裏切られるんですね。こんなに一緒に考えたのに、結局、お前嘘つくじゃないかとか、そういうときには怒鳴ることはあってもいい。社会の一般の環境に比べたら、子どもたちは甘やかされている感じがするんですね。子どもたちは社会に出たら大変ではないかと思います。
野球部でコーチや監督の指導を受けてきたうえでの、あるいは、日本語教師のインターンとして、支援級の教員として働いてみての実感なのだろうか。
――研修はなかったのですか?
一応あるけど、僕は1回2回受けて、あとは受けませんでした。内容は素晴らしいんですが、現場では取り入れてないじゃんっていう気持ちがあった。職員同士でこの子にはどうしてあげたらいいだろうかという話し合いはなかった。普通の業務が忙しすぎて、会話する暇がないんだと思う。
私はこの言葉を聞いて、なるほどと思う一方、残念にも思う。Nさんが児相にいた時期は、福祉の現場で子どもの捉え方の変革期に当たる。2016年に児童福祉法が改正されて、子どもを権利の主体とするという考え方が導入され、2023年にこども家庭庁が作られ、「こどもまんなか社会の実現のため、各分野において取組を進める」と方針が出された。研修には職員にどのように考えてほしいのかというメッセージが大きい。価値観を揃えておくことは重要だ。現場は急に変わらないとしても、子どもに触れる職員にとって、正規非正規問わず新しい情報を得て、自分のこれまでの対応を振り返ることは大事だ。共同体内で自分自身の意見を出すために、新しい価値規範を拠り所にすることも重要だ。
Nさんは「自分は組織が苦手だ。上に立つ方が得意だと思うと」言った。
組織という共同体の中で、共同体を覆う価値規範に一方的に従うことは苦しい。しかし、トップではなくても、自らその場の価値規範を理解し一員としてアイデアを出し、主体的に組織を動かしていくルートを作ることもできるはずだ。他者と意見をすり合わせる時には摩擦も起きる。Nさんはとりわけ他者との摩擦が苦手のようだ。
その一方でNさんには先ゆく者として、弱い立場の子どもたちに処世方法を教えたいという気持ちがあるようだ。小さな共同体で上に立つ方が楽だという感覚は、上位下達で相手を思い通りに動かすことの方が楽だとも聞こえる。その場合、下の者の声が聞こえなくなることもありそうだ。それは一歩間違うと暴力になる。
――脱走する子もいるでしょう?
いますね。その時は、正職員でも非常勤でも関係なく探しに行きます。みんな協力して動きます。そういうときは、みんなつながって、協力し合うので、組織もいいなと思えるときです。
児相では4年間働いて仕事を辞めた。
そして父になる
Nさんはこの間に、父になり、家族を持った。教員から児相の職員に転職をする時に、妻と出会い、妊娠、結婚したのだ。
妻は元幼稚園の教員で、小学校の教員に転職して2、3年目の時、Nさんが去る支援級を担当することになり、その引き継ぎの会議で知り合った。妻は15歳年上だ。その時の雑談で妻が、人工授精をして妊娠したいという希望を持っていることを知った。Nさんは、その話を聞いて、「そのために自分の時間を使ってもいいと思い」アプローチした。とんとん拍子で話が進んだ。妻の親にも積極的に会った。
──Nさんは25歳で、子どもがほしいという気持ちがあったんですか?
いや、ないです。ただ、この人にいい思いをしてほしいという感覚でした。葛藤はないけど不安はありました。
配偶者を得る、子どもを持つということは、人生の大きな選択の1つだ。Nさんは既存の価値規範には縛られず、人生のコマを進める。
2年ほどして妊娠し、息子が生まれた。妻は出産後2年間の育児休業をとった。子どもをどのように育てるかは、妻が主導する。子どもを自然の中で育てたいと、相模原市の郊外に転居した。広い庭がある家に移り住み、自分のバイクの修理も気軽にできるようになった。その作業に夢中になり、次第に中古のバイクを修理して売ることを自分の将来の仕事にしてみたいと思うようになった。
子どもが1歳になる頃にNさんは、児童相談所を退職した。もっともNさんは「自宅で一人でできる仕事ならなんでもよかった」とも言う。遠距離通勤を望まないことも決断の後押しをした。
専業主夫という言葉が広がり、それを選択肢と考えることを受け入れる社会的土壌が生まれつつあった。妻の両親の反応が気になったが、特に反対はなかった。両親も反対しなかった。
1年後に妻が教員に復職し、Nさんの専業主夫生活が本格的に始まった。Nさんは自分の立場に合わせて、料理のレパートリーを増やすなど、努力をしている。
ただし、専業主夫の仕事の一つには子育ても含まれると思われるが、それは妻が中心だ。Nさんには子どもは面倒くさいな、という気持ちがあるそうだ。
子どもが、妻が大好きなんですよ。僕より妻の方が遊んでくれるし。妻は子どもに好かれるように行動するので、子どもがめちゃくちゃ要求してくる。寝る時間になっても、遊ぼう、遊ぼうって。常に妻に甘えている。疲れているんだったら、嫌われるぐらいのことしないとダメなんじゃないのと妻には言いますけれど。
うーむ。わざと子どもに嫌われることをして、そばに寄せ付けないという考え方には賛同しかねる。それは子どもを支配しコントロールすることに通じるからだ。健康に育っている子どもは、要求を遺憾なく主張する時期がある。それは子どもの特権だろう。それを押さえつけるのは、Nさんが家庭という小さな共同体で、妻や子どもの上に立つことのようにも見える。その考え方を支えるのは、男性は妻や子どもを思い通りにしていいという家父長的価値規範ではないのか。
私が妻の立場なら、疲れている時には、代わりに子どもを甘えさせる夫であってほしい。妻に、代わりにもっと遊んであげてほしいと言われないだろうか。
言われます。僕はもう少し子どもが大きくなったら、関わろうと思っています。だから土日には、よく実家に連れていきます。父のところと、母のところと、妻の実家の3ヵ所のどこかに連れて行きます。父も母も大変なので、毎週末に行くことは遠慮しています。
実父はNさんの妻や子どもともよく話すそうだ。Nさんから見て、離婚して父が変わったと思う点だそうだ。父も人生の大きな体験から学ぶことがあったのかもしれない。
一方、母は子どもの扱いが上手だ。
母は4人子どもを産んでいるので慣れていますね。体力があってすごいです。子どもと外で遊んで、ご飯もちゃんと作って。高校生の義理の弟もちょっと遊んでくれます。優等生的な性格ではないけれど、勉強はできるみたいです。
親族の助けを得て子育てを行っているのだ。
今はバイクの修理は、個人名義で購入した古いバイクを時間をかけて修理をして知人に渡すという形で行っている。バイクという「もの」に自分の技術力で、満足できる仕上がりのために注力をする。自己有用感を感じる体験だろう。職人の意識に似ているかもしれない。
作業を経て入る謝金は時給換算では僅かだ。今はまだ、二輪自動車整備士(バイク整備士)の2級の資格が取れていないので、ビジネスとして成立させることはできない。それでも、いずれ必要な資格を取り、事業とするつもりだ。
もの作りを通じて、コミュニケーションが広がる。母親のパートナーが持っている工業用ミシンを借りてシートを作り直すつもりだ。かつては、母のパートナーの不機嫌さが気になったが、今は、助言を求める。ものを間に向き合う時、リアリティに従ってつながることができる。世界はモノによって広がる。