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「津久井やまゆり園事件」が問いかけるもの ――元職員の被告接見録にもとづく検証

ある遺族のメッセージから考える

2016年7月に起こった「津久井やまゆり園事件」が問いかけるものはあまりに大きく重い。優生思想、「生産性」をめぐる議論など、われわれの社会を根底から揺さぶるこの事件の思想的課題について、被告との面会記録を踏まえて検証していく。


第2回 ある遺族のメッセージから考える

 2016年8月6日の午後、東京大学先端科学技術研究センターホールで「津久井やまゆり園」で亡くなった方たちを追悼する集会が開かれた。集会には約200人の参加者が集まったが、冒頭で、真っ先に読み上げられたのが、被害者家族からのメッセージであった。

1.匿名希望/被害者家族

「亡くなった被害者の実名が報道されていない件についての是非が問われているようですので意見を述べさせていただきます。私は親に弟の障害を隠すなと言われて育ってきましたが、亡くなった今は名前を絶対に公表しないでほしいと言われています。この国には優生思想的な風潮が根強くありますし、全ての命は存在するだけで価値があるということが当たり前ではないので、とても公表することはできません。加害者に似た思想を心の奥底に秘めた人や、このような事件の時だけ注目して心ないことを言ってくる人も少なからずいるでしょう。家族は弟と生きるために強くなるしかありませんでした。その力の源をある日突然にあまりにも残虐な方法で奪われてしまったのですから、しばらくは立ち向かうことができません。今はただ静かに冥福を祈りたいという思いは他のご家族も一緒なのではないでしょうか」

 続いて読み上げられたのが、津久井やまゆり園元職員である私のメッセージであった。「私個人は、亡くなった方や負傷者の氏名が匿名であるのは、違和感を覚えます。逆説的にいえば、『障害者はいなくなればよい』という容疑者の主張を正当化することにつながりかねないからです。被害者にはその人なりの人生があったはず。これを契機に障害者に対する匿名報道について議論や、障害者への関心を高めていかなければならないと思います。被害者の方々のご冥福をお祈りします」
 犠牲者の名前がないことを悲しく感じたのは私ひとりではない。被害者家族のこのメッセージは、テレビ朝日の『報道ステーション』でも報じられ、反響を呼んだ。「この国には優生思想的な風潮が根強くあり」、「全ての命は存在するだけで価値があるということが当たり前ではない」。「加害者に似た思想を心の奥底に秘めた人」や、「このような事件の時だけ注目して心ないことを言ってくる人も少なからずいるでしょう」。これはとても重たい言葉であるが、端的に今日的状況を表現しており、今も変わっていない。2016年10月16日、園と家族会の主催による「非公開」の「お別れ会」が開かれたが、この被害者家族を含めた3名については、名前も遺影もなかったのである。それだけに、このメッセージは今日においても重く受け止めなければならない。私が被告との面会を通してわかったことは、被告自身は、犠牲者の氏名が書かれた「起訴状」を弁護士を通じて見せてもらったということである。今後、匿名での裁判が予想されるが、遺族や被害者家族の全員が裁判の傍聴を希望しているかはわからない。横浜地裁による被害者家族向けの説明会に参加した家族は多くはないからである。ある遺族は意見陳述を行うであろうし、ある遺族は用意された特別傍聴席に座らない可能性もある。

2.「匿名性」と<法-外なもの>

 では、なぜ、匿名にしなければならないのか。ある追悼集会では、次のように語られた。
「亡くなった19人のそれぞれの親なり兄弟、家族が加害者という立場に立っているけれども、同時に社会の被害者でもあるのです。我が家にそういう子がいることを隠さざるをえない、恥と思わざるを得ないのは何だろうか。それは、社会という広い概念ではなく、世間というものなのです。世間が親を追い込んでいるのです。世間を作っているのは、私であり、皆さんです」
この文章は、とても説得力のある説明である。私もその通りだと思う。「恥」という言葉や、「世間」という言葉は、日本的風土に根差した言葉であり、ある局面においてそれが露呈して、差別や偏見を産むのである。「自分」という日本語表現もそうであるが、西洋の個人主義的な「自我」や「自己」ではなく、集団主義という日本的風土が土壌にあるからではないかと考えられる。
 だがしかし、「匿名性」の問題は、差別や偏見に留まらない。通常、我々が目にする事件の概要や被害者の名前は、報道を通して知る。報道機関の情報源は、いうまでもなく警察発表である。すなわち、警察発表の段階で、安否確認を含め、被害者の氏名は公表されるのである。公表された氏名を実名にするか匿名にするかについては、被害者家族の意向を踏まえて報道機関が判断する。しかし、今回の事件では、警察発表それ自体が「匿名発表」である。これには皮肉にも2005年4月から全面施行された「個人情報保護法」という大きな障害がある。児童8人が犠牲となった2001年の大阪教育大付属池田小事件では犠牲者の氏名が発表されたが、2013年のアルジェリア人質事件や、2016年7月のバングラデッシュのテロ事件でも当初、氏名や年齢は公表されなかった。もちろん、警察発表においては性犯罪に関する事例は、「匿名発表」になる場合がある。法の外に追いやり、法の及ばない境界を設け、排除したものをそこに合法的に置く。それが「匿名発表」だったのだ。これは、主権権力による締め出しの構造に他ならない。法治国家から法権利を擁護されているように見え、法的政治的には宙吊りにされているのである。

3.犠牲者が障害者であるということ

 報道という観点からすれば、名前を公表した方が、その人の人柄などを伝えることができ、国民の「知る権利」に応えることにはなる。だが、実名公表したところで、犠牲者の名前を知ったところでそれほど関心が高まるとは想像し難い。なぜか。それは事件の犠牲者が障害者であるからである。将来のある児童が殺された池田小事件や本年5月28日の川崎・登戸事件、あるいは秋葉原事件のような白昼での無差別テロは、容疑者に対する執拗なまで関心を抱かせ、大きな議論も沸き起こった。そこは、いつもの買い物や、デートの場所であり、もしかしたら、自分もその場所にいたかもしれないと感じたからだ。小学校は、過去の自分の記憶や自分の子どもと重ね合わせることもできよう。だが、今回の事件は、犠牲者が障害者であり、接点がまるでないのだ。事件が起こった場所は、自分たちが暮らす地域とはかけ離れた、人里離れた場所であり、施設という囲いの空間なのだ。しかも、自分たちとは姿や形の異なる身体や精神をもった人たちであり、そもそも視野には入っていないのである。
 では、なぜ、障害者は、特別扱いされなければならないのか。それ自体が差別ではないかという意見も当然あるだろう。障害者を主人公にした文学・芸術作品は多い。太古以来、障害をもった人はどんな社会にもある「聖なる存在」である。フランツ・カフカの『変身』の主人公、グレゴール・ザムザは、「巨大な害虫」であったし、『家父の気がかり』に登場するオドラデクは、「平べったい星形の糸巻のような雑種」であった。日本の昔話の「一つ目小僧」や「トーテム」もそうである。彼らは、家族的な共同体からは排除されながらも社会からは包摂された存在である。法や掟が支配する現実を超えた「聖なる存在者」なのだ。トーテムが「聖なる存在」であるという重要な条件は、もっとも醜くてグロテスクな存在であるからだ。ある境界を越えると最も否定的な価値のものが、最も聖なるものへ価値転換されるのだ。法は境界を画定し、境界の画定によって<法外なもの>を排除する力を行使する。この法と<法外なもの>のパラドックスを見極めることこそが、問題の本質を解明する手がかりになると考えている。

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著者略歴

  1. 西角 純志(にしかど・じゅんじ)

    1965年山口県生まれ。専修大学講師(社会学・社会思想史)。博士(政治学)。津久井やまゆり園には2001年~05年に勤務。犠牲者19人の「生きた証」を記録する活動がNHK『ハートネットTV』(2016年12月6日放送)ほか、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌にて紹介される。主要著作に『移動する理論――ルカーチの思想』(御茶の水書房、2011年)、『開けられたパンドラの箱』(共著、創出版、2018年)などがある。
    『批評理論と社会理論(叢書アレテイア14)』(共著、御茶の水書房)、『現代思想の海図』(共著、法律文化社、2014年)、「青い芝の会と〈否定的なるもの〉――〈語り得ぬもの〉からの問い」『危機からの脱出』(共著、御茶の水書房、2010年)、「津久井やまゆり園の悲劇――〈内なる優生思想〉に抗して」『現代思想』(第44巻第19号、2016年)、「戦後障害者運動と津久井やまゆり園――施設と地域の〈共生〉の諸相」『専修人文論集』(第103号、2018年)、「根源悪と人間の尊厳――アイヒマン裁判から考える相模原障害者殺傷事件」『専修人文論集』(第105号、2019年)、「法・正義・暴力――法と法外なもの」『社会科学年報』(第54号、2020年)、「津久井やまゆり園事件の『本質』はどこにあるか」『飢餓陣営』(第52号、2020年)ほか多数。

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