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居場所がうまれるとき~団地の「語り」から見えてくるもの

相模原で生きる──佐藤あかりさん(1)

倉数 茂

少女時代

 S団地で開かれている居場所「てとてと」。その「てとてと」に関わる人々の「ふつう」の人生を追っていくのがこの連載である。今回と次回は、60代の女性佐藤あかりさん(仮名)の生活史を語っていく。

 佐藤あかりさんは、子どもの居場所「てとてと」に来ている17歳(当時)の文香ちゃんの母親だ。会場に使っている団地集会所の鍵の受け渡しなどでいつもお世話になっている自治会の役員さんでもあった。
 今こうしてインタビューの音声データを聞き返して、まず印象的なのは口調から伝わってくる明るさとこちらへの気遣いである。よく知らない人に生い立ちを話すというのは、それなりに緊張を感じることだろうに、佐藤さんはハキハキした口調で楽しそうに子ども時代のことを語っていく。話しているときの身振りも大きかった。そこに表れているのは、辛かったことや苦しかったことも受け入れて笑い飛ばす大らかさであり、そういう前向きな態度で人と関わることで色々な困難を乗り越えてきた生き方であると今は感じられる。
 佐藤さんが生まれたのは1964(昭和39)年。母と祖母が住んでいた家に父になる人が転がり込んできて、やがて長女の佐藤さんが生まれた。
 祖母は、地元で「加持祈祷」をしている人だった。

 大きい神棚とその横に仏壇があって、そこでおばあちゃんが拝んで、お客さんが来て、看板とか出してないし、口伝えでお客さんが来て、悩み事をお話しして、おばあちゃんが拝んで、これこれこうしなさいとか言うんですよ。たまに手に墨で書くんですよ。お水持ってきてと私が言われて、洗面器にお水を入れて、手をつけてその後手ぬぐいで手を吹くんですね。するとニョキニョキ、手からなんか出てくるの、びよ~んびよ~んって。虫、かんの虫、私もやってもらったことあるんですけど。で、おいくらですかと聞かれて、お気持ちだけでいいですよというと、五百円置いてく人もいれば千円とか、そんな感じでおばあちゃんはずっと。

 のっけから「加持祈祷」という言葉が出てきて驚いた。祖母は御嶽山信仰とも関わりがあったという。御嶽山は山岳信仰の聖地として、古くから修験道の行者たちが修行していた岐阜と長野の境目にある霊山である。
 江戸期までは各地をへめぐりながら、祈祷や占いを行い、薬などを与える修験者(山伏)や霊を口寄せして託宣やお祓いなどを行う巫女・市子は身近な存在だった。しかし近代化を推進する明治政府は、1872(明治5)年に「修験道禁止令」を出し、さらに翌年には「梓巫・市子、並びに憑祈祷・狐下げ」などを人民を幻惑せしめる所業として一切禁止している*1。それらの民間信仰が、神道と天皇制を軸に中央集権国家を作り上げようとしていた政府にとっては目障りだったからだろう。神仏混淆(こんこう)を排して、全国の寺社から仏像を廃棄する廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が盛んな時期でもあった。
 しかし1970年代の神奈川で、まだそうした古来の民間習俗は生き続けていた。祖母は看板を出していないのに「口伝えで」お客さんが来た。祖母が亡くなった後でも来る人がいたという。それだけ、祖母の祈祷は地元住民に信頼されていたということだろう。地域のコミュニティに根付き、住民の悩みや苦しみに耳を傾けるという生き方は、佐藤家の女のひとつの特徴なのではないかと思えてくる*2。

*1 川村邦光『巫女の民俗学─〈女の力〉の近代』青弓社、2006年)
*2 アンリ・エレンベルガーがその長大な精神医学史『無意識の発見』の第1章をシャーマニズムの記述にあてているように、精神医療や心理療法の起源に、宗教的な民間療法をおくのは今や一般的な見解と言える。

 手から「びよ~ん」と出てくる「虫」とはなんだろうか?
 今では「疳(かん)の虫」といえば幼児が大泣きしたりひきつけを起こしたりする状態をいうが、昔は本当に体内に細長い虫がいて子どもを苦しめると思われていた。さらに体内にはさまざまな虫がいると考えられていた。道教に由来する三尸という虫などは、庚申(かのえさる)の日に天に昇って宿主の悪事を天帝に告げるとされたため、虫が体内から出られないよう、夜通し寝ずに飲み食いして楽しむ庚申待(こうしんまち)が盛んに行われていた。
 佐藤さんが見たという「虫」に、祖母や祖母のもとにやってくる人たちがどのような意味を与えていたのかはわからない。しかし、悩みや苦しみを解決するためにまじないで虫を体から追い出すというような習俗が信じられ、語られていたのは興味深い。
 と同時に、佐藤家にはピアノがあり、佐藤さんも小学1年からピアノを習っているという近代的な家庭でもあった。住んでいたのも新築の県営住宅だった。
 幼少期の佐藤さんの日常には、経済成長していく日本社会の近代的な雰囲気と、古い習俗が不思議なかたちで入り混じっている。それは暮らしている神奈川県相模原市という土地柄のせいもあるだろう。
 神奈川県北西部の相模原市は、広大な関東平野の西の果てに位置し、西の山岳部と東の平野部に分断されている。水の得にくさから戦前は稲作よりも畑作と養蚕がメインで、決して豊かな土地とは言えなかった。しかし首都近くに広大な平地を確保できるところから、昭和10年代には、陸軍士官学校とその練兵場、陸軍造兵廠が設置され、急速に「軍都」として発展していく(これらの軍事施設があった土地は、今でも米軍基地として使用されている)。
 戦後には拡大する首都圏の辺縁として爆発的な人口増加を経験している。「てとてと」のあるS団地も当時の人口急増に応えるため、1974年に竣工したものだ。
 こうした歴史から、橋本などのターミナルにはタワーマンションが並ぶ一方、少し離れるとたちまち畑地、工場、倉庫などが点在する風景が広がる。都市と非都市が入り混じり、首都圏でありつつ東京の消費と流通を支えるバックヤードでもあるというこの地域の〈境界性〉は、S団地の住人のあり方にも大きく関わっている。
 佐藤さんの父親も、大学出のセールスマンという都会的な職業人だった。

 父親はセールスをしてたんですよね。大学を出てて、当時山崎町に大学を出てる人ってあまりいなかったんですよね。それでうちに来てくれって役所から言われたりしたんですって。父はトップセールスマンだったんですよ。(…)だからいっぱいトロフィーが飾ってあって、お正月になるとそのトロフィーをおろして磨いてた覚えがあります。だから収入はたくさんあって、父親のお父さん、おじいちゃんに母が毎月3万円、渡してって。今、親に3万円、もう親いませんけど、渡せって言われても無理。その当時の3万円ってすごい金額。

二つの死

 しかし二十歳前後の佐藤さんを二つの悲劇的な死が見舞う。
 ひとつは大好きだった祖母が肝臓癌で亡くなったことだ。当時家を新築中で、祖母のための部屋も準備してあったのだが、そこに入ることなく亡くなってしまった。
 もうひとつは、21の時に一番下の弟が突然死したことだ。弟は19歳だった。
 トラック運転手をしていた弟は、その日は頭が痛いといって、仕事を休み、家で寝ていた。母も佐藤さん本人も仕事や旅行で家にいなかった。仕事を終えて家に帰ってきた母親が、布団の上に寝たまま息を引き取っている息子を見つけた。

 そのうちには引っ越したおばあちゃんも入れなかったけど、弟も、19で亡くなって、それで亡くなったあと解剖と言われたんだけど、母がやめてくれと言ったんですって。解剖というと切り刻まれちゃうイメージがあって、やめてくれと言って、解剖はしなかったんです。病名は心不全と書かれていたんですけど、多分くも膜下じゃないか。弟喘息を持っていて、苦しくなると吸入器をやっていたので、たた喘息で苦しくなるときってここもすごくなっちゃうんですって。亡くなる時苦しくて、だけど全然苦しそうな感じじゃなくて、口はぽうって開いてたみたいですけど、苦しそうじゃなくて、亡くなった後の状況をかかりつけのお医者さんに言ったら、それはくも膜下ですよと言われて。

 当時暮らしていた新築の家は「おばあちゃんが入ることなく亡くなった」家、弟が突然布団の上で亡くなった家として語られる。
 それは佐藤さんの記憶の中でこの時期が重大な二つの死によって彩られているからだろう。死は、身近な人間の死であるとき、映像や空間をともなった具体的な出来事として記憶される。祖母は「大好きなおばあちゃん」であっただけでなく、地域の人が相談に訪れる有能な祈祷師でもあった。やがて父親となる人も祖母と母がいる家に転がり込んできたのだから、祖母には女家長の面影もあったのかもしれない。
 その祖母が亡くなって数年も経たないうちに、今度は弟が不意打ちで命を失う。弟は長男として「一番いいお部屋」をもらっている存在であった。家族に愛され、尊重されていた。一家の最長老と、愛されていた人間が立て続けに去って、一家が激しく動揺したことは想像しなくてもわかる。
 40年近く前の弟の死は、佐藤さんにとっては何度も語ってきた出来事だったのだと思われる。それゆえ、口調が大きく変わったり、表情が明らかに沈んだものになったわけではなかった。それでも聞いているこちらの脳裏に、布団の上で静かな死に顔を見せている弟や裸で病院の台の上に寝かせられている姿がまざまざと浮かんだのは、その声調に込められた情動の変化ゆえだったと思う。そこではまだ悲しみが色褪せることなく息づいているのが感じられた。
 生活史の聞き取りをしていると、身近なものの死は、どれほど時間が経っても消え去ることはないのだと思い知らされることがある。確かに当初の衝撃は薄れ、波だっていた感情は鎮まるだろう。しかし何十年か前の話をしていても、肉親の死に話題が及ぶとき、語り手の声と表情に微かな変化が訪れる。それは、深い海の中に沈んでいた何ものかが緩やかに浮上して、黒い影を水面に見せるような瞬間である。荒れ狂うわけではない。泣き伏すわけでもない。むしろ、何度も回想され、すっかり人生の一部になった感情が、久方ぶりに姿を見せる。痛切な悲しみは消えてなくならない。差し当たり意識の表面から姿を消しても、身体の底の方でひそやかに鳴り続けている。

結婚と借金

 最初の夫と23歳で結婚する。相手は知り合いの知り合いで電気関係の会社に勤めていた。最初はカノジョが欲しいという彼を、佐藤さんの女友達を引き合わせるために会ったのだが、彼と女友達の仲は発展せず、佐藤さんが彼と恋仲になった。

 母を会社まで送って帰るときに、ちょっとぶつけちゃって。ライト、左かなんか、ぶつけて壊しちゃって。(…)壊して、すごいショックで、「どうしよう、お母さんに怒られちゃう」って思って。怖かったので母が。こんなんなっちゃって、もう落ち込んで落ち込んでこんなんなってるときにたまたまその元の旦那から電話があって、「今日ちょっと家に行っていいかな」って言われたんですよ。うちの場所は知ってたので、でもこんな落ち込んでて、どうしようってっていうその気持ちがいっぱいで誰かに助けを求めたいって、やってきたら、「壊しちゃってどうしよう」って言ってたら、まあね男の子だから、「そんなすぐ直るよ」とか言ってライト買ってきて、うん。替えてくれたんですよ。頼りになるなってね、そんときに、どうしていいかわかんないってときに来て、うちの私の部屋のところで、よかったーってこの心がこんなんなっちゃってるときに「付き合ってくれ」って、多分そこで言われたんですよね。

 夫は優しいところのある人だった。普段は穏やかで、「子どもをどこかに連れてって」と頼むと、甥っ子も一緒に連れて、遠くまで行ってくれるような人だった。しかしお金の管理ができず、借金をやめられないという問題があった。パチンコやパブで飲むためにお金を際限なく使ってしまう。子どもたちのためにと一生懸命貯めていた学資保険を使い込まれてしまう。自分のカードまでも勝手に抜き取られ、キャッシングされてしまう。佐藤さんは後々まで夫に作られた借金で苦しむことになる。

 キャッシュカード、キャッシングができるやつ、多分寝てる間に取っちゃうんですよね。そんで、他のカードを入れておく、色が似たやつ。そうすると私は気がつかないから、うん。私その頃は保険会社に仕事行ってたので、帰りにジュース買おうかなって、お財布見たら、なんか違う、何か違和感があって、よく見たら、やだ、ないじゃん、何でこんなカードがね、こんなところに入れてもないやつがあるのと思って。だからね、開けた瞬間にないと不審だと思うから、違うやつ、ダミーを入れてた。帰り車で電話して、もう怒鳴りまくって、車運転しながら、もう気違いのように、他の人に聞こえてるかもしれないんですけどね(笑)。

 バレるのが怖くてよく似た色味のカードを財布に入れておくという小細工がコメディみたいに感じられて、つい笑ってしまう。佐藤さんもまるで笑い話のようにして語る。
 だがこれは当時の強い憤りや困惑があり、それが長い時間を経て笑いに転換されていると考えるべきだろう。夫が知らない間に自分のカードでキャッシングしているというのは辛い体験だ。本来助け合い、ともに生活を支えるはずのパートナーを少しも信頼することができなくなる。だから彼女は「気違いのように」なり、車を運転しながら怒鳴りまくる。
 実はお金のことでは、佐藤さんのお母さんも苦労していた。
 若い頃は敏腕セールスマンだった父だが、たくさん稼いでもあればあるだけ使ってしまう人だった。その上、仕事がうまくいかなくなると、家にお金を入れなくなった。母親が昼は工場で働き、夜は内職というように、いくつもの仕事を掛け持ちして、家族の生活を支えた。父は働かず、家族を支えようとせず、母も父親の食事の世話などをしなくなった。父は父で焼きそばを作って家族とは別に一人で食べるような寂しい生活をしていた。両親の関係は冷え切っていた。
 お産の時に実家に帰ると、寝ている佐藤さんの横で母親はずっと内職をしていたという。佐藤さんも起きて手伝ったりもしたが、母は「あんたお腹が大きいんだからもう寝なさい」と労ってくれた。
 佐藤さんも離婚して、自分の力で子どもたちを育てることにした。

 もう駄目だと思って、これ以上一緒にいたら、子どもたちが飢え死にしちゃうからね。だったらひとり親になって。給料はもう持ってこなくなっちゃってたし。「給料は?」っていうと、「いや、もうすぐ持ってくる」とか、6万ぐらいしか出さなくて「何これ」っていうと、「後でまた持ってくる」とか言い訳して。全然その「後で」がないし。それで、なんだろ、もう同じ家には帰ってきてるけど、もう一切、家庭内別居みたいな。帰ってこないし。給料日なんか帰ってこない。多分給料日になるとキャバクラ行って、「2時間で何か6万5000円ぐらい使ってたよ」っていうの、私の耳に入ってきて。教えてくれる人がいてね。そう。冗談じゃないよねってなって。でも本当にもう、「離婚届を書いて」って言っても書かないんですよ。だからしょうがないから、調停かけて、だけど呼び出しにも来ないし、あの人。もう駄目。

─当時3人お子さんいたわけですよね。

 そうそうそうそう。でも一緒にいたら、餓死しちゃうと思ったんですよね、借金もあるし、うん、そうですね、給料持ってこないし、とにかく一緒にいたらあの人の、あの何だっけ、銀行でも、結局その何かで借りちゃうんですよ。5万とか6万とか。そうしたら、銀行って翌月に全部払わなきゃいけないんですよね。うん。たとえ月1万2万だったらまだしも、6万とかだって毎回私が結局払わなきゃいけない。お金ないよと思って、自分のものもどんどんなくなっていくし、もう払えないし、もうこんなことばっかりやってたらね。

(佐藤さんの回、次回に続く)

 

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著者略歴

  1. 杉山 春(すぎやま・はる)

    一般社団法人てとてと代表理事。東京生まれ。ルポライター。児童虐待、家族問題、ひきこもり、自死などについて取材してきた。著書に『満州女塾』(新潮社)、『ネグレクト 真奈ちゃんはなぜ死んだか』(小学館文庫 小学館ノンフィクション大賞受賞)、『移民環流』(新潮社)、『ルポ虐待:大阪二児置き去り死事件』(ちくま新書)、『家族幻想 ひきこもりから問う』(ちくま新書)、『自死は、向き合える』(岩波ブックレット)、『児童虐待から考える 社会は家族に何を強いてきたか』(朝日新聞出版)など。公営団地内で子どもや母親の居場所を仲間と一緒に運営している。

  2. 倉数 茂(くらかず・しげる)

    小説家、日本近代文学研究。著書に『私自身であろうとする衝動 関東大震災から大戦前夜における芸術運動とコミュニティ』(以文社)、『黒揚羽の夏』(ポプラ社)、『名もなき王国』(ポプラ社)、『あがない』(河出書房新社)など。現在ウェブで連載しているものに、「再魔術化するテクスト カルトとスピリチュアルの時代の文化批評」(https://note.com/bungakuplus/n/n720620af6f98)。東海大学文芸創作学科准教授。

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