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居場所がうまれるとき~団地の「語り」から見えてくるもの

95パーセントの日本人は優しい?

杉山 春


 李さんが日本に来たのは、2007年8月だ。相模原市に隣接する東京都町田市に住む。そこから「てとてと」の近くにある工場に通う。
 弟の妻が同じ会社の支社で、経理として働いており、その売り込みで話が決まった。
 李さんの弟は、来日に際しては、李さんに、家族揃ってきた方がいいと助言した。ビザを取って、出発を待っていたときには、母親が大腿骨骨折をした。李さんは、来日を取りやめて母親の世話をしようかと考えた。そのときには、弟は娘の将来を考えると、日本に来た方がいいと言った。李さんは、弟の判断に従った。
 李さんの弟は、7年前に来日して、IT会社を立ち上げた後、人材派遣の会社も営んだ。日本人だけでなく、中国人や、それ以外の国の人たちも対象だ。日本で働き、生活する外国人にとって、家族が一緒にいる日常があることの大切さを知っていた。
 日本の社会で暮らす外国人は、コロナ後も増え続けている。現在では、340万人が日本で暮らす。李さんが来日した17年前は215万人。1.6倍だ。
 現在は、中国人が一番多く約80万人、ベトナム人約52万人、韓国人約41万人の順番だ。李さんが来日した、2007年には、中国人は約60万人が暮らしていた。
 なお、現在の労働者数を国籍別にみると、ベトナムが最も多く51万8364人(前年比12.1パーセント増)。次いで、中国39万7918人(3.1パーセント増)、フィリピン22万6846人(10.1パーセント増)。日本社会を支えるためにそれだけの人たちが働いている。子連れも増えている。

 李さんは、2007年8月に長春の空港から来日したときには、中国と日本の違いに驚いた。長春の空港ではバスに乗って飛行機のそばまで移動し、タラップを登って搭乗する。スーツケースは預けたが、多量の荷物を座席にもち込んだ。何をもっていったらいいかわからず、ありったけの荷物を詰め込んだ。それが日本の空港に着いたら楽なのだ。飛行機から空港のビルまで歩いて行ける。エレベーターも使える。
「この日、弟たちが迎えに来てくれていました。弟がいたので、日本で暮らすことは、そんなに心配していませんでした」
 娘は、9月から一旦両親から離れて、弟家族のもとで、都内の公立中学に通った。弟の妹から「お姉ちゃん、Lちゃんがいじめに遭ったら大変だよ、外国人で、日本語ができないと喧嘩もできない」と言われたからだ。日本を良く知る弟家族が、慣れるまで引き取ることになった。
 弟は、食事の暇がないほど仕事が忙しかったが、三者面談があると、仕事を抜け出してタクシーで学校に駆けつけてくれた。弟の妻は半年の間、娘の生活の世話してくれただけでなく、中国で体験していなかった水泳の授業のために、水泳教室を探し、通わせてくれた。自由に行動できるように自転車も買い与えた。弟夫婦の全面的なバックアップで、李さんとその家族は安心して日本に慣れることができた。弟家族には、今も深く感謝している。
 娘の学校では思いがけず、配慮があった。
「1日1回45分、ボランティアのように担任の先生が毎日、日本語を教えてくれるんです。数学や英語で100点を取ると、賞状を出してくれました。励みになったようです」
 規定以上に、娘に日本語を教える時間をとり、気にかけてくれる学校に李さんは、心から感謝した。中国から転校して、すぐにクラスで一番の成績を取るだけの実力を李さんの娘はもっていた。それだけ、中国での学習熱は高まっていた。

 私たちの「てとてと」は月に2回、S団地の集会場で開いている。別の曜日には、同じ場所で外国人の子ども向けに無料学習塾が開催されている。その代表のY先生によると、市内には、600人ほどの外国につながる小中学生がいるという。コロナ以降、1.2倍程度は増えている感触があるそうだ。最近では、インドやインドネシアの子どもたちが増加しているとのことだ。
 日本に来る外国につながる子どもたちは、母国の政治・経済の流れや、社会状況の中から、それぞれの理由をもち、他国に行こうとする親たちと共に来日する。日本側も人手不足などの課題を抱え、状況によって、受け入れ幅を広くしたり、狭くしたりしながら、こうした人々を受け入れてきた。
 Y先生によると来日した子どもたちに、どのような日本語支援をするかは、自治体で差があるそうだ。相模原市は、小中学校とも週に1回2時間、1年間の支援が行われている。その程度では学校や社会についていけない子どもたちもいるのが現状だ。
 それでも、高学歴の親をもつ子どもたちの中には、李さんの娘のように、高い学力を身につけている子どもたちもいるとのことだ。
 李さん自身は、日本語は、大学の第二外国語で学んだ。だが、実際には英語の方が話せる。来日当初はもっぱら英語で会話をしていた。日本語で困ることはほとんどなかった。
「役所の窓口でも、銀行でも、『私、日本語がわからないので、紙に書いてもらっていいですか』と言うと、必ず書いてくれました。筆談をすれば、大体わかる。みんな親切でした。それでも私、日本語をずっと練習しました。娘の学校の三者面談で困るから。私、橋本駅のそばの公民館で開かれている日本語教室とか、淵野辺(駅)のそばの国際ラウンジに、自転車で通って、日本語を学びました。車をもっていなかったからね。淵野辺まで自転車で1時間。大変でした。そのときは本当によく頑張ったの。翌年になって、やっと中古のマーチを買いました」
 淵野辺駅のそばの国際ラウンジには、近くに大学があることもあり、アジア系の人たちだけでなく、ヨーロッパやアメリカの人たちも来ていた。李さんはもっていた電子辞書を使って、英語が苦手な日本語教師に通訳をしたこともあった。
 どこにいてもオープンに人に関わっていく李さんだ。
「日本に来たばかりの頃、自転車で移動していて一度地図をもたずに出かけて、迷子になったことがあります。おばあちゃんに道を聞いたら、『ごめんなさいね。自分はこの辺りの人ではなくて』って言うんです。でも、おばあちゃんは、そのまま行ってしまうのではなく、一緒に別の人が来るのを待ってくれた。そして次の人が来たら、ちょっとお願いしますと言って、いなくなった。そうするとその人もしばらく一緒に待ってくれて、まるでリレーのように4人目まで待ってくれました(笑)。そして、4人目の人が、それなら、そこを右にいって、次に左に行って、と話してくれたのです。
 そのときのことは、17年経ってもよく覚えています。特に最初のおばあちゃんのことはよく覚えていますね」
 李さんにインタビューをするとき、私は心のどこかで、日本との文化差に苦しんだ話を期待していたように思う。だが、実際に伺うのは、優しい日本の人たちとの出会いの話が多かった。

 他にもこんな話がある。李さんは自宅から職場まで、車で通うこともあれば、徒歩で向かうこともあったそうだ。李さんは、仕事から徒歩で帰るとき、畑で働く農家の人たちから、野菜を買うことがあった。そのときに、余っているからと大量の野菜をもらうこともあった。そんなときには、お礼に餃子を作ってもっていった。手作り餃子の皮は、夫が作る。私もいただいたことがあるが、とても美味しい餃子だ。李さんによれば、中国では夫も妻も対等に仕事も家事も担当するのだそうだ。
 あるとき、残業で遅くなって、会社を出たところ、農家のお婆さんがずっと立って待っていた。その女性は80代。少し前、野菜のお礼に餃子を作って渡したところ、さらにお礼を渡したいと待っていたのだそうだ。この女性は、いつだったか、「昔、私の国があなたの国に悪いことをしました。ごめんなさい」と言って謝ったそうだ
 別の農家では、知り合いだったその家のお婆さんは元気かと尋ねたところ、すでに亡くなっていた。その息子は、袋にいっぱい野菜を詰めて渡してくれたそうだ。表情豊かで、他者の中に怖がらずに入っていく李さんには、たくさんの人たちが安心して心を開く。
 これまで嫌な思いをしたことはないのだろうか。
「うーん。ないことはないよ。自動車教習所で縦列駐車を教えてくれた人は、意地悪だった。だから、私、縦列駐車は今も苦手なの(笑)」
と教えてくれた。
 李さんは娘を育てることには、非常に気を配ってきた。地元中学に移ってからも、娘の成績は良かった。その中学には、外国につながる子どもは、それほど多くはなかった。クラスには他に、フィリピンからきた女子生徒がいた。その生徒の成績は良くなかった。やがて、クラスの皆が無視するようになった。だが、娘は、そのフィリピン出身の子どもに挨拶を続けていた。友達が、「なぜ、挨拶を続けるの?」と聞いたそうだ。娘は、「同級生なんだから、たくさん挨拶をしたらいいじゃない」と答えたという。
「私はその話を聞いて、Lちゃん偉いねと言った。そんなとき、私だったらどうしたらいいかわからない」
 私もまた、李さんの娘の、同調圧力には流されない、主体的な力に感服する。同時に、李さんの、当たり前のように娘を尊敬し、照れることなくその気持ちを話すその姿勢に心地よさがあった。
 トラウマについて学んでわかったことだが、トラウマを抱える人たちは、自分が考えていることや感じていることをそのまま語ることがとても難しい。その場の圧力を感じ、語っていいことと、語っていけないことを無意識に分ける。パワーをもつ側の価値規範そのものを生きてしまう。それが昂じるとき、心を病む。
 自分が感じていることを言葉にできること。言葉にするかしないかのコントロールができることは健康の印だ。
 来日して4年後、2011年3月11日に東日本大震災が起きた。娘は高校2年生生だった。李さんと娘、弟の妻とその3人の子どもたちは、夫たちを日本に置いて即座に帰国した。このとき、放射能への不安から、多くの中国人が帰国している。
「高校の先生は、娘を連れ帰ると言ったら、とても残念そうでした」
 優秀な娘が、日本を去ることを残念に思ったのだ。
 中国では教育熱は高い。帰国して、転校できる高校のことが気になった。親戚や友人で教員をしている人たちは多く、次々に、教科書を用意して、娘を引き受けると言ってくれた。だが、李さんは迷った。結局、帰国して1週間後、日本に戻る決心をした。大学受験前に中国に帰っても、中国語の国語の授業にはついていけない。日本と中国とでは数学の解き方が違う。子どもの大学進学はとても大きな子育ての節目だ。
 1年後、娘は無事、日本の大学に進学した。学生時代、クラスメイトとの関係がいつも良好だったわけではないようだ。仲間外れにされたこともあった。そんなとき、李さんは自分を責めた。着るものや鞄など安価な物しか与えられなかったからではないと思ったのだ。
「私、親として緊張しました。もしかして、これはいじめかな。心理的な問題が出てくるのかなと。『それだったら、お母さん、今度の休みにアウトレットに行って、何かちょっといい服を買ってあげるよ』と言った。そうしたら娘は、それは必要ないよと言いました。
 でも、このままでは問題が解決しないよ。そういうことをするのはどんな子たちか話して、と私は言いました。あなたはその中心になっている子よりも何が上なの? と聞いたら、英語の授業は成績でクラス分けをしていて、その子よりも上だと言った。そして、卒業まで、いつもその子よりも上のクラスにいるように頑張ると言ったのです。実際卒業までずっと上のクラスでした。
 あのとき、私は中心にいる子と話をしようかとも言いました。そうしたら、娘はそれは無理でしょうと言うんです。『そんなことしなくても大丈夫よ。私自分で関係作るから』って。その後、その子たちとの関係はだんだん大丈夫になった。私は子どもに感謝しています。
 このことが起きたとき、私、自分の能力が足りないと思った。娘にもたせる携帯電話も古いし、住んでいる家も古い。でも、娘も私と同じで、人よりもいいものをもたないとダメというような感覚がなかった。それがとても良かった」
 娘がいじめにあったときの、李さんの不安と悲しみ、自責、そして李さん親子の強さが伝わってくる。

 娘は大学を卒業後、日本の企業で働いている。営業職で会社での評価は高いそうだ。結婚し、子どもがいる。李さん夫妻の現在の大切な役目の1つは孫の世話だ。
 李さんは、娘との関係で、こんな話もしてくれた。
「中国は、一人っ子政策の影響があって、みんな結構、子どもに一番いいものを与える。今は、孫の面倒を見ているのだけれど、ジュースを飲みたいというとすぐ、買ってあげる。それを見て、娘が、『お母さん、私が子どもの頃は、あなたは水が一番と言って、ジュースをねだっても買ってくれなかった。それが、Mちゃんがほしいと言ったら、なんでも買ってあげるのね』って言うの」
 娘には、健康第一に考えて甘い飲み物は極力飲ませなかった。だが、孫には甘い祖父母だ。親が厳しければ、祖父母は甘やかしてもいいのかもしれない。
 娘家族との関係で考えているのは、娘たちと中国的に付き合ったほうがいいのか、日本的に付き合ったほうがいいのか、ということだそうだ。中国人の親族関係では、親は子どもの日常に口を挟む。日本人の家族は、子どもにどこか遠慮をしていて、距離があると感じている。
 娘には、「日本に連れてきてごめんなさいね。中途半端な中国人になってしまった。中国の文化とか、あまり知らないよね」と言ったことがあった。すると、娘は「いいんじゃないの。満足している」と語ったそうだ。
 李さんは言う。
「日本にきて、娘の先生たちは皆優しかった。出会う95パーセントまでの日本人は私たちに優しかった。今、自分も安定した生活ができている。たまに(周囲の人々のために薬を自前で買ったり、村に電力を引くために活動したりした)父のことも考えます。
 お礼をしたいと思って、ボランティアに応募しました。日本に来て、東北の震災の前に、子どもの6人に1人が貧困だというニュースを見て、驚きました。以前からボランティア登録はしていたのですが、子育てが一段落したこと。以前ほど仕事が忙しくないため、時間を作りやすいことなどで、実際に活動をしてみようと思いました。
 それに、私、子ども好きなんです。友達や親戚同士で集まるとき、みんなが酒を飲む間、子どもたちの相手をします。私、お酒が飲めないので。
 中国にも、有料ですが、子どもを預かって、ご飯を食べさせて、勉強をさせるというシステムがあります。ああいうのをやってみたいという気持ちはありました」

 日本に住みながら、中国で暮らす友人たちと中国版ラインとも呼ばれるWeChatを通じて毎日交流している。
 一つは、2020年に仲間が始めた「老子(道徳経)」を毎朝読み合うグループだ。WeChatを通じて、仲間で順番に節をつけて歌うように読んで、音声を送り合う。2000年以上も前から、中国で読み継がれてきた人の「道」を説く至言集だ。李さんは自分の気持ちを静めたり、生き方を探るとき、その老子の言葉を思い出すそうだ。他に、WeChatで、太極拳のグループに入って、一緒に体を動かしている。
 ネットが中国で暮らす友達との関係をつなぎ続けてくれる。
 さらに、時々中国に帰り、友人たちに会う。中には、過去の日本の侵略を思って、日本を許さないと言う人もいるそうだ。
「私は日本の95パーセントは優しいよ、と伝えます。そのうちの一人は髪が長いので、お土産に資生堂のトリートメントをもって帰ります。日本のことを許さないなら、このトリートメント要らないんじゃないの、と言うけれど、彼女は受け取りますね(笑)。日本のことを見ないで、よくない国だって言うんじゃなくて、一度見においでよ、と言っているんですけど、来ませんね(笑)」
 少子化高齢化の中で、外国につながる住民たちは、重要な力をもっている。その子どもたち、つまり、「てとてと」に集まる子どもたちもそうなのだが、そのほとんどは、日本で育ち、学び、多くの場合、将来も日本で生活をする。日本で育つ子どもたちが幸せであることは、私たちの共同体の豊かな未来や、安心につながっていく。
 李さんは、「てとてと」の子どもたちについて、こんなふうに語る。
 「ここの働いている親たちは、子どもたちと過ごす時間があまりないのが、心配です。親が応援しないと、子どもの勉強はよくできないと思います。私はもっと日本語が上手になって、ここの子どもたちに読み聞かせをしたいです」
 李さんは日本に来て、初めて図書館に行ったとき、本だけでなく、日本語学習のテープでも、CDでも、借りられることに感動したそうだ。
「本が読めると、大学に行かなくても、自分で調べることもできるし、いろいろな人の体験を自分も経験できます。世界が広がります」
 未来を共に作るために、子どもたちの世界を一緒に広げていきたい。

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著者略歴

  1. 杉山 春(すぎやま・はる)

    一般社団法人てとてと代表理事。東京生まれ。ルポライター。児童虐待、家族問題、ひきこもり、自死などについて取材してきた。著書に『満州女塾』(新潮社)、『ネグレクト 真奈ちゃんはなぜ死んだか』(小学館文庫 小学館ノンフィクション大賞受賞)、『移民環流』(新潮社)、『ルポ虐待:大阪二児置き去り死事件』(ちくま新書)、『家族幻想 ひきこもりから問う』(ちくま新書)、『自死は、向き合える』(岩波ブックレット)、『児童虐待から考える 社会は家族に何を強いてきたか』(朝日新聞出版)など。公営団地内で子どもや母親の居場所を仲間と一緒に運営している。

  2. 倉数 茂(くらかず・しげる)

    小説家、日本近代文学研究。著書に『私自身であろうとする衝動 関東大震災から大戦前夜における芸術運動とコミュニティ』(以文社)、『黒揚羽の夏』(ポプラ社)、『名もなき王国』(ポプラ社)、『あがない』(河出書房新社)など。現在ウェブで連載しているものに、「再魔術化するテクスト カルトとスピリチュアルの時代の文化批評」(https://note.com/bungakuplus/n/n720620af6f98)。東海大学文芸創作学科准教授。

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