鎧われる言葉たち、こぼれ落ちる言葉たち(3)──家族と政治
杉山 春
「本当の家族」について
――お母さんが新しい家族と暮らし始めたり、ご自身が結婚して妻の家族と付き合うようになって、家族間の経済格差に気づいたのではないでしょうか。お母さんのパートナーは自分のためにお金が使える。妻の実家は兄弟たちが誰も奨学金をもらわないまま、大学に行った。中学受験をしている兄弟もいる。理不尽だとは思いませんか。
思わないです。父は仕事が楽しくて、趣味がないからお金を使わないだけ。確かに、妻の兄弟に奨学金の負担がないのは羨ましいですが、理不尽だと思ったとたん、父母を責めることにつながる。それは嫌だなと。
そう、Nさんは即答した。理不尽だと感じたくないかのようだ。
私から見ればNさんは、両親の離婚で、母の連れ子として新しい家族と生活を始めたが、まもなく一人暮らしを始め、野球と決別するなど、大きく影響を受けた。だが、不平は言わない。「親を責めるのは嫌だという大義」のために、自分の痛みは言語化しない。親が見たいように世界を見る。そんなふうにも見えてしまう。
親を非難しない子どもは親からすれば便利だ。だが、子どもの立場からすればそれは痛みの存在を自分自身に隠す生き方だ。自分の一部分を認めない生き方とも言える。
そのNさんの話に耳を傾けながら、私はコロナ禍の時期に行った、社会福祉法人子供の家ゆずりはの職員、高橋亜美さんへのインタビューを思い起こしていた。
アフターケア相談所ゆずりはは、養護施設や里親の下で社会的養護を受けた人たちのその後を支える活動を行ってきた。
高橋さんによれば、この時期、社会的養護保護経験者ではなく、保護にまでは至らないものの、支配的な親との関係に苦しんできた子どもたちからの相談が急増したという。親の意向に一方的に従うことは、苦しいことだ。家の外で過ごすことで苦しさは軽減される。だが、コロナ禍で親から逃げる場を奪われ、苦しさが倍加する子どもたちが相談に訪れた。高橋さんの次の言葉は印象的だった。
「親の支配下にいることに苦しむ子どもたちは、どこかで、家族は仲良くしなければいけないとか、親を悪く言ってはいけないとか、親は自分を愛してくれている、大事にしてくれている、と思わなければいけないと思っている場合があります。もっと酷い親子関係にいる子どもたちは、むしろ、自分の親から離れたいという気持ちを感じ取ることができません。それはDVと同じです。自分がDVを受けていると感じ取れない人たちが、よりひどいDVを受けています」
身を置いている環境が、自由に五感を使い、言語化し、他者とつながることを許さない時、当事者はその環境を肯定する。肯定しなければ生きられないからだ。
名づける、言葉を持つということは、他者を眼差し、評価をすることであり、優位に立つこと、権力を持つことでもある。現実を相対化して、そこで何が起きているのかを名づけるには、客観的な知識や他者の視点が必要になる。
「親を批判すること」。それは自分の痛みを見つめ、自分が生まれ育った環境以外の知識や文化を知り、相対化して抗議をするということだ。DVを受けているかのように親を客観視できないということは、親が生み出す環境の中に閉じ込められ、その環境を変えたら生き延びることができないという恐怖を生きているということでもある。
Nさんは、部活で理不尽な人間関係を受け入れることを学んだ。それらを「苦しみ」や「不快」として言語化しない。日々の活動は他者の言葉で埋められていた。だから、その「苦しみ」や「不快」との戦いを紐帯にして、他者とつながることができない。
主体的に環境を変え、自由に呼吸し、生きることができない。主権者として生きることができない。つまり、政治的な力を奪われているということだ。
環境が与える痛みを言葉にできないということは、目の前の現実は決して変わらないという絶望を生きているということでもある。
生きにくさの中で言葉を持てないということは、飼い慣らされるということでもある。環境に対して抗議をしたり、周囲に働きかけたりして居心地よく整えることを身につけられなかった。社会を変える力、政治力を信じることができなかったのだ。その方が権力側には都合がいい。
「専業主夫」という立場は、政治性がある。ジェンダー規範で縛られ、パワーの格差の中に置かれた女性たちは、税制や年金制度、就労問題など制度的に専業主婦であることに誘導されてきた。だが、「男性だって専業主夫でいいのだ」という発想は、男女の関係性を変える可能性を秘める。ジェンダーの縛りから自由になることは社会を変える力となる。
──男なのに主夫をやってるのは恥ずかしいとか友達に言いづらいみたいな感覚はないですか。
最初はありましたね。でも、今は、結果を出すしかないっていう方向性です。
──バイクの仕事がうまくいかなかったら、再度児相の正職員になるっていう気持ちもどこかにはある?
そうですね。保険として持っています。
──専業主婦なら、無収入でもいいようにも思うのですが、男だったら稼がなければという気持ちがあるのですか。
主夫だから稼がなくていいって考えたら、それは逃げだなぁって思う。そこは持ってた方が僕もやる気になるから、あえて逆に大事にしてます。だからバイクをかなり一生懸命やってる。バイトにも行く。近くの宿泊施設で清掃の仕事をしています。
――戸籍上は妻の姓なんですね。
僕が姓を変えたのは、妻の父が、妻の兄弟には孫は生まれないから、妻の子どもに自分の姓を残したいと言ったからです。僕の父は、兄の子どもが父の姓を継いでいるから、僕の姓は変えちゃっていいということでした。僕は戸籍上の姓にはこだわりません。マイナンバーカードに旧姓も記載しているのでそれで十分です。
気になるのは、お墓のことです。僕には最後は自分の本当の家族の墓に入りたいという気持ちがあります。まだちょっと先かもしれないので、ちょっとずつ考えが決まっていけばいいかなと思っています。
自分の本当の家族は18歳まで生まれ育った家庭だという意識があるのだ。だとすれば、やはり両親の離婚は大きな出来事であったことになる。
――籍を入れないということは考えなかったのですか。
考えました。ただ、籍を入れた方が経済的にも社会的にも得なことがいっぱいあるので籍を入れた方がいいと思います。
確かに社会制度は婚姻関係へと人を誘導するような作りになっている。子どもを産み育てる時、夫婦であれば税の控除が使える、年金も夫婦であれば有利だ。
Nさんはジェンダーの役割分業の縛りから完全に自由というわけではない。男だったら稼がなければならない。自分たち夫婦がどの姓を選ぶかについて、父親に許しをもらう。父権的な価値規範をNさんはもつ。
それでも「専業主夫」という新しく生まれた概念に従って、かろうじて逃げ場所を探した。新しい概念は生き延びるルートを作る。
外国に連なることと日本人であることと
──無料学習塾の子どもたちとはどんな風に関わっているんですか。
僕は勉強よりも、居場所づくりが狙いです。勉強はしてほしいけど、教えるのは他の先生が上手なので任せています。僕は、ここに来る子どもたちが目的を持てていないので、高校に進学するならどこがいいかとか、大学に進学したいのかどうかとか、そういう目的を明確にしてあげないといけないと思っています。中一のうちから、地元にはどういう高校があって、どこに行きたいかと目標を立てられれば、良い成績を取るようになるのではないかと思います。でも、彼らに甘えがあって、おしゃべりの場所になってしまっている。
ただやっぱり、僕は家庭が優先なので、毎回は学習塾には通えないのであまり言えません。
正確な情報を子どもたちに適切に与えることは確かに大切なことだ。
――日本で暮らす外国人は増えています。日本で育つ外国につながる子どもたちのための支援制度がきちんと整った方がいいと思いますか。
国が、外国につながる子どもたちを制度化して支援するという考え方には、少し疑問があります。頑張っているけれど困っている外国人と不法滞在の外国人を見分けるのが難しい。僕は、具体的には不法滞在の外国人を知りませんけれど、そうした外国人にまで支援をするよりも、まず日本人にお金を使ってほしい。例えば下水管が壊れて地面が陥没するまで放っておかないで、税金を使って直してほしい。それから外国人で納税してくれている方や、帰化している人には、しっかり対応する。
僕としては、S団地の無料学習塾に10万円くらいの補助金があったら、コピー機が買えて助かります。でも、ボランティアをしていることに対価がほしいわけではありません。そうなると責任が出てしまう。ボランティアとして学習塾に行くのは楽しいというよりも、大変です。妻と子どもを置いていくので。継続的なボランティアは現役の社会人に難しいです。
目の前の子どもたちが社会に居場所を得るための根本的な制度改革には踏み込まない。できる支援をできる範囲でしたい。ボランティアができることはそこまでだ。その考え方はわからなくない。
Nさんが政治に関心を持つようになったのは、妻と一緒に暮らし始めた時からだそうだ。投票によって環境を変えることを15歳年上の妻から教えられた。2025年7月の参議院議員選挙の最中にこのインタビューを行ったが、興味がある政党は、参政党と日本保守党だといった。
――どちらも外国人に冷たい党だと感じますが、大島教室で外国人教育に携わっているのに、不思議な感じがしました。
僕たちボランティアは、ここの子どもたちをもう外国人として見てないので。僕は、大島にいる子どもたちやその親のような、頑張っているけれど困っている人たちの味方でいたいと思います。僕自身はネットで意見を言うことはしませんけれど、機会があれば頑張っていても困っている外国の関係者のことを伝えたいかな。
Nさんの感覚では、日常的に出会う外国人と、メディアの中で排外主義の対象となる外国人とは別の存在なのだそうだ。
――日本人とそうじゃない人っていうのは、自分の中でちょっと分ける感じがありますか。
あると思うけど……。
――分ける基準はどこにあるのですか。
中国人が日本人の名前で活動することもあると聞いています。中国人が日本人のような姓で生活をしていることもある。戸籍がなくなると、外国人か日本人かの区別がつかなくなると思うんです。そういう時に、日本人かそうではないかを確認するのは、戸籍かなと思います。7月の参議院選挙では選択的夫婦別姓制度が話題になりましたが、これは、戸籍をなくすための法律だと聞きました。ですので、僕は反対です。
税金の使う先は日本人を優先してほしいと語る。それは排外主義的志向だと思われる。その感覚はどこからくるのだろう。
日本という共同体には、まず日本人であるということに価値があると考える人がいる。戦前、日本が植民地政策を行った時に当たり前にあった考え方と相似だ。こうした考え方の下では、日本人が最上位だ。続いて国の許可で生きる人(在留資格のある外国人)。不法滞在者はさらにその下という序列がある。
Nさんは、生まれながらに日本という共同体の一員だ。特別な努力や能力がなくても、日本という共同体の一員だと認められる。そのことにNさんはほっとするのではないか。頑張らなければ生き延びられない社会を必死で生き延びてきた。生き延びる戦いが過酷であればあるほど、日本人であるだけで人の優位に立てるということは、ほっとすることなのではないか。
差別は、人を自分よりも価値のない者だと示すことで、自分の価値を上げる。価値がある者でなければ、この世界に生きる資格がないという考え方を彼は内面化しているように感じられる。その内面化された認知を変えることは容易ではない。
私が取材した6件の虐待死事件で、DVや児童虐待の加害者たちは「人の価値」という社会的課題につながっていた。価値ある者(子育てが上手にできる親)はこの社会で認められ、存在が許されると加害者たちは刷り込まれていた。子育てがうまくいかなくなった時、彼らは助けを求めるのではなく、子どもを隠した。その結果、子どもが亡くなった。
だとすれば、識者がどんなにその考え方は間違っていると訴えたとしても、排外主義そのものがなくなることはないだろう。排外主義を抱えている人は自分の存在を肯定するために、差別できる対象を必要としている。自分よりも劣ったものがいなければ、自分を肯定できない。それほど過酷な状況にいるということもできる。しかも、その過酷さは自己責任だと信じている。過酷を生きなければならないのは恥なのだ。
むしろ、排外主義者も含め誰もが安心して生活できる社会を築くことが、排外主義を抑え込む手段なのではないか。社会にうっすらと広がる排外主義は、生きづらさがうっすらと広がることの表と裏なのだろう。
安心できる日常について
――政治のニュースなどはどこで見ますか。
インターネットで、政治系ユーチューバーもよく見ます。どの程度正しいかわかりませんけれど。僕もそうですけれど、芸能人でも政治でも全部が全部本当のことを言うわけではないと思うので。
――メディアに出ている者には、裏があって当たり前ということですか?
はい。目に入る情報ばかりに固執しないようにしています。
――でもそうすると、何が本当のことなのか、何を信じたらいいかわからなくなってしまいそうな気がします。未来に不安はありますか?
あります。参政党の人気が長く続くかわからないし。でも、現状は変わってほしい。自公政治を180度変えてくれる政治がいいです。
政治が180度変わってほしいという。だが、どこへ向かって変わってほしいのか。メディアの情報は正確ではないという。だとしたら、その先を丁寧に考えることは不可能だ。Nさんは自己責任に閉じ込められている。自分以外頼ることができない。そこから出て、楽になりたいと願っている。だが、何を信じたらいいのか。その寄るべなさが、「日本」という国家に頼りたいという気持ちを生み出すのではないか。
――児童相談所の一時保護所で、子どもたちが「社会の理不尽さ」影響を受けていることを見て、職場がきついと感じることはなかったのですか。
どっちかというとなかった。これは野球とも通じていて、スポーツって上手い人が試合に出られる。出られない人はベンチ。さらにそのベンチ外もある。それって結構理不尽なんです。スポーツをしている人は理不尽さを学んでいて、まあ、理不尽であっても耐えられるよなという感じです。
Nさんからみると、親から不適切な養育を受け、子どもの権利を制限されて、自由な生活ができない子どもたちの苦しさも、どんなに言われるがままに練習しても他者よりも劣った能力しか持てず、試合に出られない者の苦しさも同じ「理不尽」なのだ。
──あなたの生き方にとって、スポーツから学んだことは大きいんですね。
あとは父とのいろいろな会話からですね。オーストラリアでインターンがうまくいかないで終わった時や、小学校の支援級で上司とうまくいかなかった時、父に話を聞いてもらって、教えてもらって人間形成ができた。
──お父さんから聞いた話ですごく自分の中で生きている言葉とか何かあるんですか?
一番は理不尽なことは当たり前だっていうことですね。それが当たり前だから深く考える必要ないと言われ、そういう納め方が僕にちょうど良かった。
──お父さんもタクシー運転手は結構腹が立つこととかありそうですよね
夜勤してるのはすごいなと思いますね。でも楽しいっていうから。
──嫌な客が来ても、理不尽なこと言われても流していける力があるんでしょうね。そのお父さんのことを尊敬してらっしゃるの?
ある意味そうだと思います。
理不尽であることを受け入れ、置かれている場所で生き延びるという姿勢は、父から学んだのだ。理不尽さを受け入れる生き方は今もNさんと共にある。
Nさんには、家族が生きる足場となっている。
――Nさんが今、リラックスして、人間関係を作れる相手は妻ですか?
それは違うと思います。妻には気を使っているので。妻といるといい時もあるけど、一人だと楽になる。でも、一人で居る事もちょっと寂しい。全部、考えながら楽しんでいる、っていう感じです。
妻は温泉が好き、僕はバイクに触りたい。将来は、そんなふうに暮らしたい。だからそんな将来のために今頑張る、今の時間を大事にしているっていう感じですね。
教員として働きながら子育ての責任を大きく担っている妻はNさんが仕事のためであっても、頻繁に外出することは嫌がるそうだ。その気持ちはわかる気がする。ただ、木曜日に無料学習塾に出かけることは、当然のこととして送り出してくれるという。
Nさんの話をじっくりうかがうと、20代を通じて、客観的には理不尽であるとみえることに抗議せず、そのまま受け入れ、それでも自分らしく生きられる場所を一生懸命探してきたのだと思わされる。その間ずっとS団地の無料学習塾のボランティアがNさんの傍にあった。
最初の言葉に戻ろう。Nさんはボランティアを続けることについてこう語った。
「ボランティアは仕事と同じように考えなくてもいいんです。僕も子育て中なので、突然いろいろな予定が入ることもあります。それでも続けることが大事です」
S団地の無料学習塾は、今も、Nさんが主体的に選んだ、自分を肯定できる場所なのではないか。そんなふうに思うのだった。