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居場所がうまれるとき~団地の「語り」から見えてくるもの

父と戦争──上田孝之さん(1)

倉数 茂

子どものような人

 上田孝之さん(仮名)は1957年生まれ68歳の男性である。月2回開かれるてとてとに毎回来て手伝ってくれる。おそらく皆勤賞だ。そんな人はなかなかいない。
 てとてとをやっていて困っていることはいくつもあるが、最大の悩みはスタッフが足りないことだ。やんちゃな男子がたくさんいるので、目を離すと、遊びが高じて会場の備品を壊してしまったりする。それに学校や家庭で苦しい思いを抱えている子どももいて、本当はじっくり話を聞きたいのだが、そのための時間が取れない。だから、毎回必ず来てくれる大人は貴重だ。上田さんが来るようになって2年くらいになるだろうか。
 ずっと不思議な人だと思っていた。子どもに溶け込む様子があまりに自然なのだ。見た目は年相応の大柄な男性だが、てとてとで子ども(就学前から小学校高学年くらいまで)と一緒にいると、なりが大きいだけで、むしろ子どもの一人であるように思えてくる。
 上田さんの振る舞いを観察しているとわかるのだが、子どもたちに好かれようとしないし、大人として子どもを導こうという雰囲気も微塵も感じられない。なんというか、徹底してフラットなのである。
 てとてとで大人たちは、勉強を見て、軽食を作って、室内で大騒ぎしている子どもが怪我をしたり備品を壊したりしてないか目を配って、さらには始まってしまった喧嘩の仲裁をして、といつでもスタッフはてんやわんやだ。そんなとき上田さんが子どもたちのあいだに座り込んで、楽しそうにおしゃべりをしているのを見て、もう少し手伝ってくれないかなあと思ってしまうときもある。しかし一瞬そう思っても、上田さんがいかにもくつろいだ様子で子どもたちに溶け込んでいるので、すぐにこれはこれでいいか、と感じてしまう。こういう、上から目線のいっさいない不思議な大人がいた、という記憶は、後になっていい思い出に変わるのではないか。
 インタビューをしていても、上田さんの素直さや無邪気さが強く感じられた。うつの既往歴や家庭内の葛藤についても躊躇なく口にする。辛かった体験や悲しかったことを隠そうとしない。自慢をするときは、実に楽しそうに自慢する。とにかくあっけらかんとしている。まだ自意識の鎧で自分を守っていない、思春期前の子どもと話しているような感じがしてくる。

父の話

 生い立ちを尋ねると上田さんはまずしばらく前に4回忌を迎えたという父親のことから語り出した。
 父親の弘一さん(仮名)が生まれたのは1923年(大正12年)。祖父は鉄道省の職員。五つ下の母親は1928年(昭和3年)生まれ。たばこ屋の娘だった。
 父は小学校のときは品川区の大井町にいて、二.二六事件を体験したという。短い期間会社勤めを経験したあと、志願して兵士になり、それも皇居を守る近衛師団に抜擢された。近衛師団は陸軍の花形であり、甲種合格者のなかでも、体格、頭脳、容貌の優れたものしか選抜されなかった。弘一さんはそのいずれもが秀でていたのだろう。
 エリート部隊である近衛師団は、本来首都にいて天皇を守るのが任務である。しかし実際には戦線の拡大につれて、近衛師団も戦場に投入され、父親はアジアを転戦した。

満州行って、それから中国の山東省行って、それから上海行って、それで船に乗って、それでまずマニラで荷物を積んで、マニラ湾から出たところで魚雷にやられて、それでもう一発目はかわしたけど、二発目が当たって、それで海に飛び込んで、ドラム缶の筏があったので、そこに行ったときに、サメが来て。

 輸送船が沈没したときに助かったのは、暑苦しい船倉を避けてたまたま甲板にいたからだった。魚雷の第一弾は運よく当たらなかった。第二弾がやってきて、誰かが「退避!」と大声で叫んだ。父親は甲板から海に飛び込んだ。船倉にいた戦友は皆助からなかった。船は沈んだが、運よく近くに浮いていたドラム缶に這い上がった。やってきたサメを恐れながら、救助を待った。「それから比べたら、いろんなことがあってもどうってことはないよねってクソ度胸がついちゃって」。
 父親は要領のいい優秀な兵隊だった。インドネシアにいたときは、いち早くインドネシア語をマスターして、現地人との交渉に重宝された。中隊長付きに抜擢もされた。上官の求めているものを瞬時に判断して機敏に行動する。そういう能力に長けていた。

「自分たちでワニ捕まえたり。ワニの目と目の間を撃ち抜くんです。あと蛇とかトカゲとか、捕まえて食べて。サバイバル生活ですね。戦争じゃなかったらもっと面白かったかもしれないねって言ってましたよね」。東南アジアで日本軍は補給の不備による食糧不足に苦しみ、膨大な数の餓死者を出した。実際には過酷な日々であったはずだが、父親は上田さんには、戦地での生活をお伽噺のようにおもしろおかしく語ったらしい。

復員兵の体験談

 復員後、父親は会社には復帰せず、自分で商売を始める。闇屋をはじめ色々な職業を体験したが、ベアリング工場を始めたのが復興の波に乗って成功した。
「真面目一方だった人間が遊びを覚えたら手が付けられなくなったなんて聞いたことあるけど、うちの親父もそうだったんでしょうね。20代で大金が入ってきたもんだから」。
「はっきり言ってむちゃくちゃいい男だったんですよ。だからほら(上田さんが)女の子とか家に連れてきてもお父さんは素敵よねとかお父さんはハンサムねとか、そんな感じですもんね」。後年、上田さんが結婚していたときの妻も「若い時のお父様って素敵だったでしょ」と言った。
 上田さんの語りのなかの父親は、どこまでも明るく華やかである。二枚目で、頭がよく、戦争体験で培われたクソ度胸があり、弁舌が達者で、とにかく女性にモテる。そしてそのことを語る上田さんもとても楽しそうだ。心底父親のことが好きなのだろう。まるで父親が上田さんにとっての永遠のヒーローであるかのようだ。

 少しだけ、わたしの個人的な思い出に触れたい。おそらく小学校の中学年だと思うのだが、わたしも祖父の倉数正一に戦争の話をせがんだことがある。そのとき、わたしはぼんやりと、よほど悲惨な話か、あるいは反対に勇敢な冒険譚のようなものが返ってくるのだろうと思った。
 意外なことに、祖父が話したのは物資を運ぶトラックの下に潜って空を彩る花火のような輝きを眺めたという体験だった。なんとも華やかで面白かったという。もちろん戦場に「花火」が上がるはずもなく、それが砲撃であることは理解できた。しかしそのあまりにあっけらかんとした内容に、わたしは肩透かしを食らわされ、と同時に、わたしの質問を祖父は不快に感じているのだなと漠然と了解した。
 それ以降、祖父が自分から戦争体験を口にすることはなかった。ただ酔うと、北満、北支、台湾、ジャワ、ラバウル、フィリピンと自分が移動した地域を数え上げ、ひでえ目にあったと呟くのは何度も耳にした。また戦友会には異常な執着を見せていた。晩年、ほとんど腰が立たなくなってからも、遠方で開かれる戦友会に参加すると言って、世話をしていた母と大喧嘩になった。とても電車や飛行機を利用できる状態ではないので、結局会場まで十数万円かけてタクシーで往復した。母は、舅の頑固さに呆れてものも言えない様子だった。それくらい戦友同士でしか共有できない話題、感情があったのだろう。祖父の戦友会への執着は、家族に戦場での出来事を語ろうとしなかったことと表裏一体の関係にあるのだろうと思う。
 後年、祖父の態度がありふれたものであることを知った。戦後に復員してきた兵士たちの多くは、家族に自らの戦争体験を積極的に語ろうとしなかったし、語ったとしても、断片的なものにとどまった。
 日本に限った話ではない。ベトナム戦争時にも帰還兵の沈黙が問題になった。兵士がみずからの体験を語らない、あるいは語れないのには理由がある。
 過酷な戦場体験はPTSDと結びついており、思い出すこと自体が苦痛である。平和な時代でもいじめられた体験などは口にするだけで不快な記憶がよみがえるのと同様だ。戦争トラウマや心理的安全性といった概念がなかった時代、日常空間で、戦争という「非日常」体験を語るのは大きな心理的困難がともなった。戦場で兵士は戦火にさらされ死の淵に立たされる被害者であるとともに、敵や住民を殺し、財産を破壊してきた加害者でもある。平和な時代に、妻や子どもに、夫や父である自分が血まみれの被害者/加害者であると告げるのは勇気がいる。家族に不安や恐怖を与えるだろうし、家庭のなかで孤立してしまうからだ。戦場を知らない人間には、自分の体験は「伝わらない」という思いもあったろう。祖父も戦友会以外に、自分の体験を共有できる相手はいないと考えていたに違いない。
 戦後「平和国家」を標榜するようになった日本社会は、被害と加害とが絡まり合った兵士たちの凄惨な記憶を継承しようとせず、個々人の内側に埋葬したままだった。元兵士たちは、その記憶を戦友会以外の場所では掘り出すことができず、抱えて生きていくしかなかった。「弱音を吐くな」という兵士としての男性文化も沈黙を選ばせた。

上田さんの生い立ち

 上田さんが生まれたのは1957年だから、ちょうど高度経済成長が始まった頃だ。生地は横浜市鶴見区。京浜工場地帯の中心部であり、当時はさぞや活気があったことだろう。父親の経営する小規模な工場も順調に利益を上げていた。
 子どもの頃はやんちゃだった。「どちらかといえば治安のよろしくない場所」で、学校にもわんぱくな子どもが多かった。とっくみあいの喧嘩がしょっちゅうで、上田さんもプロレスごっこが高じて4日間入院する羽目になったことがある。そのときは、クラスの女の子たちが見舞いに来てくれた。女の子からは二度と喧嘩しないという「証文」(?)を書かされ、学校に復帰するとその署名入りの証文が教室の壁に貼ってあった。わんぱく坊主の一人として女子たちから愛されていたことを彷彿させるエピソードだ。
 父親から言われたのは決して女の子には手をあげるなよ、ということだった。「親父は遊び人だからね。女子には優しくするもんだって」。「だから(自分も)奥さんに殴られたことあるけど、殴ったことないです」。
 母親は教育熱心だった。小学校の頃、成績が悪かったのに母親が激昂して、そろばんで思い切り殴られた。そろばんが壊れて、玉がバラバラと飛び散るような殴り方だった。上田さんの弟は丼で殴られたという。こちらも丼が縦にぱっかりと割れるくらい激しい殴り方だった。母親は息子二人を勉強させていい学校にやろうと必死だった。
 小学校を出て、神奈川にある私立中高一貫校に進んだ。当時、私立中学に進むのは1クラス5人くらいだった。
 しかし中学校に進学してからの成績は振るわなかった。その学校には田園調布などから来ている富裕層の子弟がたくさんいて、彼らとは大きな学力差があった。能力別編成で一学年5クラスあったのだが、上田さんはいつも一番下のクラスだった。
「もう、劣等生ですね。だから、本当に先生には殴られるし。殴りますよ、昔は。授業中に花火打ち上げるバカとかいるし。企画したのは僕なんだけど」
 成績の悪い上田さんたちのグループに対して「お前たちは緊張感がないからバカなんだ」と毒づく嫌味な教師がいた。当時、「日本の夏、金鳥の夏」というナレーションとともに花火の映像が流れる蚊取り線香のCMがあった。上田さんたちは、その先生をからかってやろうと授業中に花火を発射した。

──それ授業中にやったんですか?

授業中に。それで1週間停学で反省文書いたら停学とりけしてやるって言われて、しょうがないから反省文書いて。

両親の不和

 実は家庭のなかの雰囲気は決して明るくなかった。
 父親には彼女がいた。昼間は母親と一緒に仕事をしているのだが、夜になると彼女のところに行ってしまう。

──ちょっと話を整理すると、お父さんは家に時々帰ってきて、他の女性の所に行っちゃってて。

そうそう、同棲してました。

──同棲していて、昼間は働いている。

そうそう、だからまともな家庭ではないですよ。

──お母さんはそこの家で経理とかそういうのをしてるんですか?

そうですね。

──だからお母さんも会社の仕事をしていて?

手伝っていました。母がいなかったらやっていけなかったと思いますよ。
父は頭が良くても金銭感覚がないから、それをしめてくれたのが母。
だから昔学生の頃、友達にお前のところお袋いなかったらとっくに潰れてるよな、家庭崩壊してるよな(と言われた)。そいつんちも複雑な家庭だったんですけど。

 女性にモテる父親は、相手は変わってもつねに恋人がいた。たいていはキャバレー勤めで、その女性から小遣いをもらってはパチンコや競馬で遊ぶという日常だった。しかし恐ろしいのは、昼間は夫婦で同じ工場で働いていることだ。
 当然、母親は夫の身勝手さを恨む。仏壇に向かって手を合わせ、夫の死を祈ることもあった。それをわざわざ息子の前で見せつけるようにやるのだ。

やっぱり複雑な家庭だったなとは自分でも思いますね。

──お母さんがあまりにかわいそうだという感じがするんですけど。

その奴当たりが僕らに勉強しろってことだったのかなと思います。

──お母さんつらかったしイライラしてた。

だからそれを全部私と弟に向けたんじゃないかなとは思います。

 父親は外では陽気で魅力的な男だったかもしれないが、上田さんの家庭の内側には激しい怨念と執着が渦巻いていた。
 そのような状態でも離婚せず、昼間は一緒に働いているということに驚いてしまう。まだ女性が一人で生きていくのは困難な時代だったし、工場が夫のものである以上、別れればすぐに生活に困ったろう。離婚は夫を解放するだけだという考えもあったのかもしれない。しかしだからといって、毎日女のもとに帰っていく夫を見送ることができたのだろうか。いや、夫の方も妻の憎しみを感じながら平常心でいられたのだろうか。自分に置き換えてみたらとても耐えられないと思う。この妻にとって夫は、そして夫にとって妻はどのような存在だったのだろう。
 上田さんは「結局惚れてたんでしょう」という。しかし「惚れていた」なんて単純な言葉で割り切れるものではないだろう。
 ボーリング好きの父親は遊び仲間と一緒によくボーリングに行った。旅行にも行った。そうした自由気儘さがまた妻を苛立たせる。自分が苦労して工場の経営を支えているのに、夫は好き勝手に楽しんでいる。まだ小さかった上田さんを連れて競馬場に行っていたことがバレて、夫婦喧嘩が始まったのを上田さんは覚えている。
 母親は長男である上田さんを夫への怒りや愚痴をいう捌け口としていたようだ。子どもとしては辛い役回りだ。

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著者略歴

  1. 杉山 春(すぎやま・はる)

    一般社団法人てとてと代表理事。東京生まれ。ルポライター。児童虐待、家族問題、ひきこもり、自死などについて取材してきた。著書に『満州女塾』(新潮社)、『ネグレクト 真奈ちゃんはなぜ死んだか』(小学館文庫 小学館ノンフィクション大賞受賞)、『移民環流』(新潮社)、『ルポ虐待:大阪二児置き去り死事件』(ちくま新書)、『家族幻想 ひきこもりから問う』(ちくま新書)、『自死は、向き合える』(岩波ブックレット)、『児童虐待から考える 社会は家族に何を強いてきたか』(朝日新聞出版)など。公営団地内で子どもや母親の居場所を仲間と一緒に運営している。

  2. 倉数 茂(くらかず・しげる)

    小説家、日本近代文学研究。著書に『私自身であろうとする衝動 関東大震災から大戦前夜における芸術運動とコミュニティ』(以文社)、『黒揚羽の夏』(ポプラ社)、『名もなき王国』(ポプラ社)、『あがない』(河出書房新社)など。現在ウェブで連載しているものに、「再魔術化するテクスト カルトとスピリチュアルの時代の文化批評」(https://note.com/bungakuplus/n/n720620af6f98)。東海大学文芸創作学科准教授。

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