明石書店のwebマガジン

MENU

デジタル社会は立憲主義の夢を見るか?

デジタル主権とは何か

ここまで「デジタル立憲主義」について論じてきた。言うまでもなく、デジタル社会は既存の社会構造を地殻変動的に変えつつある。そうした変容を適切に捉えるべく、様々な概念や理論が案出され検討されている。今回は、新聞等でも目にするようになった「デジタル主権」について検討を行う。そして、この概念がデジタル立憲主義にどのように接続されるのかについても見ていく。(編集部)

 今回から、デジタル立憲主義以外のデジタル社会における規範理論、あるいは、規範理論の前提となる概念に着目し、当該規範理論や概念とデジタル立憲主義の関係、または、それらに基づくデジタル立憲主義への批判について検討していく。

 デジタル社会の規範理論は近年爆発的に重要度を増しており、続々と新たな理論や概念――デジタル主権、デジタル民主主義、デジタル権威主義、デジタル封建制、デジタル公共財、監視資本主義などなど――が生み出されている。これらの理論や概念とデジタル立憲主義の関係を明らかにしていくことで、デジタル立憲主義がどのような理論・概念であり、いかなる意義を持つかをより明瞭に示すことができると思われる。また、この試みは、デジタル社会の規範理論をめぐって氾濫するさまざまな理論と概念の見取図を得るという意味でも意義があるだろう。

 このような問題意識の下、今回は、デジタル主権という概念を取り上げる。

***

拡散するデジタル主権論

 現在、「デジタル主権(digital sovereignty)」という概念は世界的なトレンドになっている。たとえば、2024年に公表されたサミュエル・フラティーニらの研究によれば、2014年以降のデジタル主権に関連する271本の査読付き英語論文を分析したところ、191か国に関連する記述があったとされる[1]。もっとも、デジタル主権の議論は学術的というよりも、政策的な場面で言及されることの方が多く、世界中で、政治的リーダー、政策立案者、テック企業関係者、ジャーナリスト、市民団体、研究者らによって、デジタル主権について言及がなされている。日本においても、こうした言説が増加しつつある[2]

 その一方で、デジタル主権は「本質的に曖昧な概念であり、さまざまな主体が多様な方法でこれを用いている」とも指摘されている[3]。さらに、サイバー主権、データ主権、クラウド主権、AI主権、ユーザー主権といった関連する主権概念も数多く提唱されている。

 今回の主な目的は、「デジタル主権」について一定の整理を与えることである。すなわち、デジタル主権という概念にどのような意義があり、この概念を用いて論じるべき対象が何か、どのような点に留意する必要があるのか、を示すことである。その上で、デジタル主権とデジタル立憲主義との関係についても簡単な整理を行いたい。

 そこで、まずは、デジタル主権の議論においても意識されている伝統的な「主権」概念の含意を確認する。次に、伝統的な主権概念を踏まえて、デジタル主権論を整理していく。その上で、ごく簡単な考察を行う。

伝統的主権論

 「主権」とはそもそもが多義的な概念であり、憲法学においても様々な議論の積み重ねがある[4]。教科書レベルでは、主権には少なくとも3つの意味があると記述されるのが一般的である[5]

 第一が、国家権力の属性としての最高独立性という意味での「主権」である。主権概念は、「16世紀から17世紀にかけて、フランス絶対王政が確立していく過程で、国王権力を正当化するために用いられるようになった」と説明されるが[6]、この当時、国王権力の競合相手として、対外的には、ローマ・カトリック教会や神聖ローマ帝国が存在し、対内的には、封建諸侯(貴族)が存在した。すなわち、国王権力は絶対的なものではなかった。こうしたなか、国王権力がカトリック教会などの対外的勢力から独立し、対内的には封建諸侯に優位する、最高の権力であると主張されるようになる。主権の第一の意味とは、この点に由来する。

写真8-1 ジャン・ボダン

 第二が、国家権力それ自体という意味での「主権」である。ここでの主権は、国家が有する絶対的で永続的な権力そのもの(=国家の統治権)のことを指している。こうした意味での主権を最初に定義したのは、ジャン・ボダン(写真)であるとされる。また、ボダンは主権=統治権の具体的内容を、①立法権、②外交権、③人事権、④終身裁判権、⑤恩赦権、⑥貨幣鋳造権及び度量衡統一権、⑦課税権、⑧その他若干の微細な権力に整理していた[7]。今日では、統治権の内容を、立法権、行政権、司法権などに分割することが一般的である。

 第三が、国政についての最高の決定権という意味での「主権」である。これは、国の政治のあり方を最終的に決定する力または権威を意味し、国民主権や君主主権というときの用法である。つまり、国の政治のあり方を最終的に決定する力または権威が、国民にあれば国民主権となり、国王にあれば君主主権となる。

 第一・第二の意味での主権は「国家の主権」、第三の意味での主権は「国家における主権」と呼ばれることもある[8]。いずれにせよ、伝統的な主権概念は国家権力と密接に結びついており、また、最高権威(supreme authority)を一定の領域(territory)に結びつける、という考えに基づいている[9]。すなわち、各国家の「領土」における最高権威の性質・内容と所在を説明しようとする概念が伝統的な主権概念である。

デジタル主権を定義する試みとその核心

 次に、デジタル主権を定義する試みについて確認しておこう。冒頭で言及した通り、デジタル主権の定義は曖昧だとされるが、その試みを確認することで、どのような意味で曖昧なのか、何らかの共通項や核心があるかを探ることができるかもしれない[10]

 ところで、デジタル主権をめぐる主要なプレイヤーとなっているのがEUである。そのため、デジタル主権とは何かを考えるにあたって、EUの主張するデジタル主権とは何かということが重要なポイントになる。憲法学者である河嶋春奈は、EUのデジタル主権を次のように説明している。

〔EUのデジタル主権は、〕外国のDPFの台頭を前に、EU(加盟国)がデジタル空間の統治権を死守しようとして打ち出した①の意味〔対外的独立性の意味〕での対外的政治的スローガンであり、外国とDPFによる支配を排除しようとする意図が込められていた[11]

 続いて、研究者によるいくつかの定義――ポリーヌ・トュルク、ゲルダ・フォークナーら、ジュリア・ポーレ&トルステン・ティールによるもの――を紹介しておこう。

デジタル主権とは通常、国家がデジタル世界において規制権を行使して従わせる権能と、それによって国家の価値と利益を自ら決定し、国民の権利を守る権能を指す[12]

デジタル主権の核心は、物理層(資源、インフラ、デバイス)、コード層(標準、規則、設計)、および情報層(コンテンツ、データ)において、デジタルな対象を制御する必要性を明確にすることにある。ここでいう「制御(Control)」とは、デジタル技術の製造(必要な原材料の採掘および加工を含む)、設計、使用、そして出力を、影響下に置き、制限する能力を意味している[13]

国家、企業、個人のいずれのデジタルな自己決定能力を対象としているかに応じて、デジタル主権の主張を体系化できる。こうした多様な主張から生じる異なる言説のレイヤーに共通しているのは、それらが処方的かつ規範的な性質を帯びているという点である。つまり、それらは既存の制度や具体的な実践に言及するというよりは、むしろ多くの場合、将来への熱望や行動への推奨を表明するものなのである[14]

 以上の各定義からいえることの1つとして、表現の仕方に多少のズレや濃淡はあるものの、「デジタルな対象」[15]に関する自らの決定を他の主体に従わせる能力――最高権威ないし最終決定権――を共通の問題にしているということであろう。そうだとすれば、デジタル主権の「核心」は、〈デジタルな対象についての最終決定権の所在〉を示そうとすることにあるといえるのではないだろうか。なお、主権の及ぶ対象を、サイバー空間、データ、AI、クラウドなどに細分化して表現する場合、サイバー主権、データ主権、AI主権、クラウド主権などと表現され、これらを包摂してデジタルな対象全般を指す場合に、デジタル主権という表現をすると整理することができるだろう(図も参照)。

図8-1 関連する主権概念の布置関係のイメージ

デジタル主権の曖昧さ

 このような「核心」を観念できるとしても、デジタル主権が曖昧とされる理由として、少なくとも、①主権があるといえる条件の不一致、②主権を持つ主体の拡張、の2点を指摘することができるだろう。

 ①について、トュルクの定義は、デジタルを対象とする規制内容に国家が決定した価値が反映されていることを重視するが、フォークナーらの定義では物理的なデジタル技術の製造についても制御下にあること(制御する能力をもつこと)が要求されている[16]。また、前者の規制権については、自国の規制を国家が自律的に決定できるというレベルとグローバルスタンダードに自国の価値を反映させるというレベルを区別する必要もある。すなわち、㋐グローバルスタンダードに自国の価値を反映させようとすること、㋑自国の法規制を自国の価値に基づいて他国やテック企業から自律して決定すること、㋒デジタル技術の製造、設計、使用において他国またはテック企業への依存度を下げること(究極的には依存をなくすこと)、のいずれをもって主権があると考えるのかが一致していないのである[17]

写真8-2 ウルズラ・フォン・デア・ライエン

 たとえば、EUのデジタル主権について、よく引用されるのが、「私たちはヨーロッパの幸福と価値を守らなければなりません。デジタル時代において、我々はヨーロッパの途を歩み続けなければならないのです」という欧州委員会委員長ウルズラ・フォン・デア・ライエンの2019年の言葉である[18]。これは、基本的には㋑を主張しているものといえる。これに対して、AI主権――一般には「ソブリンAI(sovereign AI)」と呼ばれている――は、(こちらも定義が固まっていないが)「国家戦略の中核として自国のインフラやデータ、モデル、人材を利用して、独自のAIモデルや技術基盤を開発・運用する能力を持つこと」などと紹介される[19]。ここでは、㋒が念頭におかれているといえよう[20]

 ②について、ポーレ&ティールの定義は、主権を持つ主体が国家に限らないことを指摘している。これは、デジタル主権に関する議論が、伝統的な主権概念における「国家の主権」の延長線上にあるだけではないことを示している。デジタル主権は、(上記㋐~㋒のいずれのレベルが求められるかは措くとして)国家がデジタルな対象に対する最終決定権を持つべきであるとの主張だけでなく、デジタルな対象に対する主権を持つべき主体は国家であるべきではない、という主張を含意する。ここで注意が必要なのは、主権とは単なる自己決定権とは異なる、排他的で絶対的な最高の権威ないし最終決定権だということである。デジタルな対象に対する企業や個人の自己決定権や一定の自律性を問題にしたいのであれば、それを主権と呼ぶことはミスリードであろう。いずれにせよ、理論的には、企業や個人が主権を持つべき、という主張を基礎づけることができているのかが問われることになる[21]

 また、曖昧さを加速させている要因として、デジタル主権が、③スローガンや願望の表明という側面を有していること、も挙げられる。一般的に、スローガンや願望を表明する場合、厳密な用語法というよりもアテンションや訴求力が重視され、際限なく主張が拡散される傾向にあるといえる。デジタル社会の規範理論を考える場合に、この文脈で言及されるデジタル主権をどこまで真剣に受け止める必要があるかは慎重に検討するべきである。

デジタル主権と国家の領土

 上記の②のように、デジタル主権に関する議論は、主権を持つ対象を国家から広げようとする議論も含んでいるが、現状では、「国家の主権」の延長線上で用いられることが多いといえよう。たとえば、冒頭でも言及したフラティーニらの研究は、デジタル主権の理論上のモデルとして、権利基盤モデル、市場指向モデル、中央集権モデル、国家基盤モデルの4つを提示するが[22]、これらは実質的には国家のデジタル政策モデルというべきものである。これらをデジタル主権の理論上のモデルとして提示することには疑問があるが、デジタル主権に関する言説の多くが、各国家がどのようなデジタル政策モデルを採用するかを主権の問題と捉えていることの証左とはいえるだろう。

 加えて、デジタル主権を曖昧にする更なる要因として、④国家の領土との関係でデジタル主権概念を用いて論じようとする局面が複雑化していること、があると考えられる[23]。この複雑化には、巨大DPF事業者に代表されるテック企業の台頭が関わっている[24]。自国-他国、国内テック企業-外国テック企業というプレイヤーが状況に応じて異なる関係を取り結んでいるのである。以上のような状況を踏まえて、この点についても若干の整理をしておこう。

 この整理にあっては、まず、Ⓐ主権国家の領土内部の局面とⒷ主権国家の対外的独立性に関わる局面を区別すべきである。次に、ⒶⒷそれぞれの中でもいくつかの場面を区別することができる(表8-1参照)。

表8-1 デジタル主権の問題局面と国家の領土

Ⓐ主権国家の領土内部

Ⓐ-ⅰ 国内テック企業による統治権の簒奪

Ⓐ-ⅱ デジタルな対象に対する最終決定権の国内テック企業との競合

Ⓐ-ⅲ 国家の統治権のデジタル技術による補強・強化

Ⓑ主権国家の対外的独立性

Ⓑ-ⅰ 外国テック企業による統治権の簒奪

Ⓑ-ⅱ デジタルな対象に対する最終決定権の外国テック企業との競合

Ⓑ-ⅲ デジタルな対象に対する最終決定権の外国政府との競合(グローバルスタンダードをめぐる競争)

 

 まず、Ⓐ-ⅰとⒷ-ⅰでは、それぞれ国内テック企業または外国テック企業による国家の統治権の簒奪が問題となる。ここで念頭におくのは、立法権、行政権、司法権などの国家の統治権そのものがテック企業によって奪われるという場面である。類似の問題局面として、国家があるデジタル政策を実施しようとした際に、有力なテック企業からの反対に合い、一定の妥協をせざるを得ない場面が想起される[25]。こうした問題は、程度の差はあれ、これまでも様々な政策領域で生じてきたものである。抵抗の結果として、国家は立法権や行政権などの行使の一部を譲渡する形になることもありうるが、テック企業が国家に取って代わって統治権を完全に行使するわけではない。したがって、これらの問題は、Ⓐ-ⅱまたはⒷ-ⅱの問題として把握しておくべきであろう。なお、より微妙な問題として、デジタルプラットフォ―ム内部で生じた紛争の解決において、国家の提供する紛争解決システムではなく、DPF事業者が提供するシステムが利用されるという問題がある[26]。この場合、司法権が部分的に簒奪されているということができるかもしれない。この問題をどのように評価すべきかは、現在のところ、議論の途上にあると思われるが、事実上、DPFの紛争解決システムが用いられるとしても、国家が提供する紛争解決システムへのアクセスが担保されており、かつ、国家の司法権に基づいて下された裁定が終局性を持つのであれば、実質的な統治権の簒奪は生じていない、といえるように思われる。

 Ⓐ-ⅱまたはⒷ-ⅱは、上記で整理したデジタル主権の②の意味と重なる問題である。国家が最終決定権を持つべきだとの主張は、多くの場合、国家の規制権として具体化される。規制の目的としては、テック企業が提供するサービスによって生じる権利侵害からの国民の保護などが主張されることもあるが、この文脈では、デジタルな対象に対する国家介入を正当化するメタファーとしてデジタル主権が用いられていることもある。

 Ⓐ-ⅲでは、統治権を強化・補強するために、デジタル技術が用いられるが、この場合、安全保障、(国家機密も含む)データ保護など[27]、様々な要素のリスク管理が必要になる。しかし、国家が自らデジタル技術を開発することはかなり厳しい道のりであり[28]、国家はテック企業と何らかの関係を取り結ぶことでこれを実現することになる。この時、当該国家の政治体制、国家とテック企業の関係性、国内の産業状況などに応じて、テック企業の「馴致」[29]、テック企業との「協力」、国内テック企業の「保護・育成」[30]などのパターンが生じることになる。

 最後に、Ⓑ-ⅲは、上記で整理したデジタル主権の①の意味と重なる問題といえる。フラティーニらが示した4つの理論上のモデルは、グローバルスタンダードを争う4つのデジタル政策モデルといえるのかもしれない。グローバルなテック企業にとって、デジタル技術を領域別――各主権国家の領土別――に提供することが望ましいものでないとすれば、各国、テック企業が入り乱れるデジタル政策のスタンダードをめぐる交渉と競争が発生することは不可避といえよう。

デジタル主権を論じるにあたって 

 これまで見てきたように、デジタル主権に関する議論は多種多様である。さらに、デジタル主権は、冒頭に明記したように学術的な用語というよりは政治的・政策的な用語として用いられる傾向が強い。そのため、この概念をめぐる定義が収束する見込みはあまりなそうだが、アテンションを惹くワードであることもあってか、人気がある。そうであるとすれば、月並みだが、当面は、各論者や為政者がいかなる意味で「デジタル主権」に言及しているかを意識しておくことが重要である。

 ここまでの検討から、その「核心」には、〈デジタルな対象に対する最終決定権の所在を示そうとする〉含意があるとはいえそうだ。しかし、あえて、「主権」概念を持ち出して論じるべきものが何かを熟慮することが、少なくとも、研究者には求められよう。

 「主権」という言葉には、最高権威や最終決定権の排他的な帰属という含意がある。歴史的には、国家に権力を集中させるために「主権」概念が構築された。デジタル主権をめぐって今生じている混迷は、少なくとも、デジタルな対象に関して、国家への権力集中が動揺していることを象徴しているように思われる。この動揺の原因については様々な分析があるが[31]、国家あるいは特定の国家連合といえども、デジタルな対象に対して適切かつ有効な決定を下せない、という現実が明らかになっている。ここには、地政学的な要素もさることながら、デジタル技術及びその背景にある産業構造の高度化・複雑化、そして発展速度といった要素も関わる[32]

 こうした現実を踏まえると、デジタル主権の議論が、どこまで自覚的かは別として、主権を国家や区分された領域から解放することを示唆している点に興味を惹かれる。この議論を敷衍すれば、〈デジタルな対象に対する最終決定を行う交渉のテーブルに誰が座るべきなのか〉という論点が導かれるだろう。伝統的な主権論においては、主権が誰にあるのかが憲法によって名指しされていることが多いが、デジタル主権論においては、そもそも、誰が主権を持つのかが明らかではなく、それをめぐって争われている。さらに言えば、とくにグローバルスタンダード形成の局面を念頭に置いたとき、単一主体が主権を持ちえないといえる状況にあるのではないか。もしそうなら、安易に主権概念を持ち出すのではなく[33]、誰が、どのような資格で、どの程度、デジタルな対象それぞれに対する最終決定に関わるべきなのかを直截に論じるべきではないだろうか。この理論化こそが必要なのかもしれない。

デジタル主権とデジタル立憲主義

 最後に、デジタル主権とデジタル立憲主義の関係について、ごく簡単な整理をしておきたい。ここまで見てきたように、「主権」概念を用いることが適切かどうかはさておき、デジタル主権論はデジタルな対象に対する最終決定権がどうあるべきかを主題化したといえるだろう。これ自体は重要な問いといえるが、決定者が誰か、という問いとは別に、どのような決定であるべきか、という問いも見過ごしてはならない。とりわけ、伝統的な主権は「唯一不可分で最高独立であり、無制約であるという考え方」であると理解されてきたことからすれば[34]、決定者=主権者が包括的にすべてを決定できるかのような印象を与える。しかし、長谷部恭男が指摘するように、伝統的な国家の主権だとしても、「実際には、連邦国家のように中央政府と各州政府に統治権が分割されることもあるし、違憲審査制によって国民を代表する議会の立法権が裁判所によって制約されることもある。……主権が無制約であるとの考え方は、権力分立や違憲審査など、さまざまな制度によって国家権力を制約しようとする近代立憲主義の考え方と正面から対立する」[35]。これまで、主権の恣意的な行使を防ぐために、主権を制約するためのさまざまな試みがなされてきたのである。

 そうであるとすれば、デジタルな対象についての決定者の権力を制限し、決定の内容・質を担保させるための議論を別途用意する必要がある。本連載が焦点を充てるデジタル立憲主義は、立憲的価値に基づく統制を指向する決定の内容に関する議論の一つである。仮に主権的な最終決定者(ら)を選定する理論を提示するとしても、それらによる決定を望ましいものとするための議論とセットで検討されるべきであろう。現時点では、デジタル主権論が示唆するものとデジタル立憲主義はこのような関係にあると整理できる。

◆第8回 終わり


[1] Samuele Fratini, Emmie Hine, Claudio Novelli, Huw Roberts & Luciano Floridi, “Digital Sovereignty: A Descriptive Analysis and a Critical Evaluation of Existing Models” (2024) 3:59 Digital Society 58.

[2] たとえば、内田聖子「ユーロ・スタック――デジタル主権をめざす欧州の挑戦」地平2025年10月号164頁以下、谷脇康彦「デジタル主権を巡る欧州と米国の対立」Digital Policy Forum Japan (2025年11月25日)一田和樹「静かに進む「デジタル植民地化」──なぜ日本はデジタル主権を語らないのか」Newsweek(2025年11月28日)渡辺翔太「「デジタル主権」と日本の急所 AIからOS、クラウドまで――デジタル主権を考える①」NIKKEI Digital Governance(2025年12月10日)など。研究レベルではまだ低調だが、貴重な業績として、河嶋春奈「デジタル主権」法学館憲法研究所Law Journal 30・31号(2024年)187頁以下、須田裕子「情報の越境移動と主権――サイバー空間の領域かとデータ主権の台頭」年報政治学2024-Ⅱ号(2024年)94頁以下がある。

[3] Gerda Falkner, Sebastian Heidebrecht, Anke Obendiek & Timo Seidl, “Digital sovereignty: Rhetoric and reality” (2024) 31:8 Journal of European Public Policy 2099 at 2102.

[4] 文献は大量にあるが、議論状況を概観するものとして、渡辺康行「主権の意味と構造」大石眞=石川健治編『憲法の争点』(有斐閣、2008年)16頁以下などを参照。

[5] 芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法 〔第8版〕』(岩波書店、2023年)39-40頁、渡辺康行ほか『憲法Ⅱ――総論・統治』(日本評論社、2020年)65-68頁、新井誠ほか『憲法Ⅰ 総論・統治〔第2版〕』(日本評論社、2021年)58-60頁など。

[6] 新井ほか『憲法Ⅰ』・同上58頁。

[7] 佐々木毅『主権・抵抗権・寛容――ジャン・ボダンの国家哲学』(岩波書店、1973年)102‐103頁。

[8] 渡辺・前掲注4)16頁。

[9] See, Jens Bartelson, “Dating Sovereignty”, (2018) 20:3 International Studies Review 509.

[10] ただし、ここでの検討は無数にありうる定義を網羅的に調査したうえで行っているわけではない。また、現時点で有力ないくつかの定義が絞り込めるというわけでもない。したがって、ここで取り上げる各定義の選定は恣意的とならざるをえない。こうした限界はあるものの、デジタル主権をめぐって混迷する現状においては、デジタル主権とは何かを考察する上での手がかりになるとはいえるだろう。

[11] 河嶋・前掲注2)190頁(角括弧内の補足、下線は筆者)。ただし、「デジタル主権への志向は、政治的スローガンにとどまらず、立法や裁判のなかにも現れている」とも指摘する。同191頁。

[12] ポリーヌ・トュルク(河嶋春奈訳)「抵抗するリヴァイアサンとデジタル主権」ポリーヌ・トュルク=河嶋春奈編『プラットフォームと国家』(慶應義塾大学出版会、2025年)75頁(下線は筆者)。内田・前掲注2)166頁も同様の定義(「デジタル主権とは、国家がデジタル空間における自国の権利や利益を確保し、その管理や運用を行う能力を維持することを指す」)といえる。

[13] Falkner et all, supra note 3, at 2102 (下線は筆者).

[14] Julia Pohle & Thorsten Thiel, “Digital sovereignty” (2020) 9:4 Internet Policy Review 1, 8 (下線は筆者).

[15] デジタル技術と言い換えても概ね差し支えないと思われる。しかし、情報層(データやコンテンツ)を含むとすれば、やや違和感があるため、これらも含める場合は「デジタルな対象」という。

[16] デジタル主権に関連する概念として用いられる「戦略的自律(strategic autonomy)」は、「3C――『〔潜在〕能力』(Capabilities):何をすべきか知っているか、『キャパシティ』(Capacities):どれだけのことができるか、『管理』(Control):〔潜在〕能力とキャパシティを自律的に行うことができるか――によって成立する」と説明される。この概念も、国家の規制権を超えた能力を含意していると考えられる。ポール・ティマース(荒川綾子訳)「デジタル化と地政学化した世界におけるEUの主権」河嶋=トュルク編・前掲注12)118頁。

[17] ㋐~㋒は例示的なものであり、この他にもありうるだろうし、それぞれのいくつかの組み合わせを主権があるとする条件にするという観点もありうる。

[18] Ursula Von Der Leyen, "Check against delivery" (27 November 2019).

[19] 織田浩一「「ソブリンAI」で多極化進むAIインフラ――地政学と政治思想がAIの未来を左右」wisdom(2025年12月16日)。なお、KDDI BizのビジネスIT用語の解説では、AI技術が「特定の国や地域の法律に準拠していること」という要素も含めてソブリンAIを説明している。

[20] 究極的にはデジタル技術の国内での自給自足を示唆するが、これは現実的には大国といえども不可能であるだろう。不可能だからといって、直ちにハード面を含めた産業整備を放棄することを意味するわけではないが、どこまでのコントロールを確保するかは戦略的な視点を踏まえて検討することになる。なお、一つの経済的・政策的戦略として、各国が得意とする分野でグローバルリーダーとなることを目指し、それを「交渉カード」とすべきと主張する見解が注目される。ヴィリ・レードンヴィルタ「国家を超えた「クラウド帝国」の世界地図の現在、未来はどうなるのか?(前編)」Forbes Japan(2026年2月3日)。こうした戦略的問題と主権概念を結び付けることで、何らかの有益な観点を得られるのかは慎重に検討する必要があると思われる。

[21] なお、興味深いことに、Amazonが提供する世界最大級のクラウドコンピューティングサービスであるAWS(Amazon Web Services)は、デジタル主権への対応を公表しているが、これは、同サービスがユーザーに主権的なコントロール権を付与するという形になっている。これは、企業によるデジタル主権の主張とは趣を異にする。

[22] Fratini et all., supra note 1, at 59.

[23] なお、かつては各主権国家の物理的領土に収まらないサイバー空間の統治の問題として把握されていた問題群もある。第2回で紹介したように、ジョン・ペリー・バーロウが1996年12月に公表した、「サイバースペースの独立宣言」は、「サイバースペース」という「領域」に国家の主権が及ばないことを宣言していた。曰く、「産業社会の諸政府よ、肉と鋼鉄でできた退屈な巨人よ、我はサイバースペース、精神の新たな住処から来た。未来を代表して、過去のあなた方に告げる。我々から手を引くのだ。あなた方を歓迎する者はいない。我々が集う場所では、お前たちに主権(sovereignty)はない」。

[24] トュルク・前掲注12)73頁は、デジタル主権論が台頭している背景のひとつとして、「国家は、デジタルプラットフォーム事業者……という競合する権力の登場によって、その権能の行使を脅かされているように見える」と述べている。

[25] たとえば、日本における接触確認アプリ(COCOA)の事例や、ニュース・メディア交渉法をめぐるオーストラリア、オンライン・ニュース法をめぐるカナダの事例などである。山本龍彦「デジタル化と憲法(学)」自治研究99巻4号(2023年)22-23頁、木下昌彦「デジタル・メディア・プラットフォームの憲法理論」情報法制研究9号(2021年)30頁-33頁、山本健人「デジタル立憲主義――怪獣たちを飼いならす」石塚壮太郎編『プラットフォームと権力』(慶應義塾大学出版会、2024年)21頁以下などを参照。

[26] ヴィリ・レードンヴィルタ(濱浦奈緒子訳)『デジタルの皇帝たち――プラットフォームが国家を超えるとき』(みすず書房、2024年)1-3頁など。

[27] 横大道聡「安全保障の構造変容と情報法――米国の中国プラットフォーム事業者の規制を手がかりに」石井由梨佳編『〔講座〕情報法の未来をひらく 7巻 安全保障』(法律文化社、2025年)2頁以下などを参照。

[28] フランスの失敗について、河嶋は「デジタル社会において、外国DPFを完全に排除し、国家があらゆるデジタルシステムを自国企業の技術だけで構築し普及させるという目論見は、あまりに無垢で盲目的である」と指摘する。河嶋・前掲注2)197頁。

[29] 李衛東「中国:主権の変容――デジタル魔獣世界と法秩序のイノベーション」河嶋=トュルク編・前掲注12)180頁。

[30] 欧州の「GAIA-X」や「ユーロ・スタック」の構想は、この意味での「デジタル主権」の問題と位置づけられよう。

[31] たとえば、DPF事業者が国家に匹敵する権力を手にしたとし、その権力の源泉を分析するものとして、山本龍彦「近代主権国家とデジタル・プラットフォーム」山元一編『講座 立憲主義と憲法学 第1巻 憲法の基礎理論』(信山社、2022年)147頁以下がある。また、本連載の第1回も参照。

[32] 国家の規制に期待をかけるのであれば、国家が規制のために必要な知見を得るための適切なルートとプロセスを整備する必要がある。この論点については別の機会に扱いたい。

[33] 「一者」の絶対性に主権概念の本質をみる見解として、石川健治「憲法学における一者と多者」公法研究65号(2003年)127頁以下。加えて、デジタル主権を持ち出すことが、議論の混乱と硬直化をもたらす危険性についても考慮するべきであろう。もちろん、デジタル空間や各種インフラに関する安全保障の問題など、主権国家と関心を持つことが適切な場面は存在するが、この局面においても、背後に国家の主権が控えるとしても、主戦場は安全保障に関する議論となるのではないか。主権論を持ち出すべき場面はそれほど多くないように思われる。

[34] 長谷部恭男『憲法 〔第8版〕』(新世社、2022年)15頁。

[35] 同上。

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 山本 健人(やまもと・けんと)

    現職:北九州市立大学法学部准教授/慶應義塾大学KGRI訪問准教授/東京大学みらいビジョン研究センター客員研究員
    慶應義塾大学大学院 法学研究科 公法学専攻後期博士課程単位取得退学、博士(法学)。
    主な著書に、『承認と対話の憲法理論―法の下の宗教的多様性』(ナカニシヤ書店、2025年)共著として石塚壮太郎編『プラットフォームと権力―How to tame the Monsters』所収「デジタル立憲主義―怪獣たちを飼いならす」(慶應義塾大学出版会、2024年)など。また主な論文に「デジタル立憲主義と憲法学」(情報法制研究、2023年)、「デジタル立憲主義と情報空間の立憲化」(法律時報、2024年)、「デジタル技術による政治的コミュニケーションの変容と憲法―カナダにおける多面的アプローチ」(比較憲法学、2024年)など。

閉じる