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「津久井やまゆり園事件」が問いかけるもの ――元職員の被告接見録にもとづく検証

裁判から何が見えるか(その5)

2016年7月に起こった「津久井やまゆり園事件」が問いかけるものはあまりに大きく重い。優生思想、「生産性」をめぐる議論など、われわれの社会を根底から揺さぶるこの事件の思想的課題について、被告との面会記録を踏まえて検証していく。


第17回 裁判から何が見えるか(その5)

1.忘年会でホーム長と喧嘩

 丙Eさん(男性)は、2010年4月から勤務。園では生活4課に配属され、「いぶきホーム」(男子ホーム)を担当していた。植松と一緒に働いたことはなく、植松の勤務態度、利用者への接し方は知らなかったという。「平成27年(2015年)12月、園の忘年会があり、忘年会が終わっても店外で、植松とホーム長が『このやろう』と言い合っており、止め合っていた。翌日出勤して、植松が『こういう人たちって、要らないんじゃないか』といい、ホーム長が『そうじゃない』と否定し、言い合いになったと聞いた。平成28年(2016年)2月頃、植松は辞めたが、その時に警察が来たこと、障害者を差別するようなことをいったと聞いた。園内で『植松から連絡があったら直接対応しないで、園長か総務部長に言うように』という通知があった。園内に『不審者対策』としてカメラが設置された。職員の間では、植松侵入対策のため、ということになっていた」。この証言は、驚くべき事実である。「つばさホーム」の職員の調書ではその経緯について次のように記されている。
 「平成27年(2015年)12月、忘年会があり、職場からバスで会場に行く際、植松と席が隣になった。携帯の画面でイラストと英語の文言が書かれたカードを見せられ、イルミナティカードのことを説明された。例えば、東日本大震災の津波が予言されていたとか、銀座の時計台が崩壊する、などといったことである。また、『最近フェイスブックの名前を植松ではなく上松にしている。こっちの方がいいらしい』という話をしていた。そういう話をしているうちに、バスが着き、深い話はしなかった。迷信やオカルトの話を聞いたことはなく、興味があるんだと意外に思った。忘年会の一次会の後、植松とホーム長がもめた。植松はその時、『利用者を力で押さえつけた方がいい。その方が言うことを聞く』というと、ホーム長は『そんなこと言うと孤立するぞ』と諭した。その後ホーム長に対する失礼な態度もあり、私はホーム長に対する態度には腹立ったが、発言に関しては酒が入っていたものとして気にしなかった」。「つばさホーム」のこの職員は、植松と幼なじみ。やまゆり園では、「つばさホーム」で生活支援を担当しており、植松の元同僚である。「私と植松の関係は同い年で、幼稚園で知り合った。小学校は別の所で、中学校で再会。ただ、2人で遊ぶことなどはなく、大人数でいるときに一緒になる程度の関係。高校も一緒だったが、交流はなく、大学では別になった。年1、2回、同窓会がてら集まる時に顔を合わせる程度だった」という。
 「いぶき」と「つばさ」の2人の職員の証言から事件前年の忘年会時に障害者支援のあり方をめぐってのトラブルがあったことが確認できる。発端は、植松本人の持論である障害者不要論である。アルコールが入っていたとはいえ、通常、心に思っていても上司であるホーム長を前にしていう職員はいない。まして、職員間の暴力などがあったとすれば、この時点で懲戒処分もあり得る。翌日には謝罪・反省するどころか持論を繰り返したことが証言から垣間見える。そして、植松自身は、翌年の2016年年2月に辞職するまで働き続けた。不謹慎な言動があった時点で、何故、止められなかったのか。この時点で何か手を打つことができれば、事件をくい止めることができたのかもしれない。そこが悔やまれる。「植松から連絡があったら直接対応しないで、園長か総務部長に言うように」という「職員通知」や「監視カメラ」が植松侵入対策としてとられていたが、ほとんど機能をはたしていなかったのである。

2.職員の供述調書 第2回公判

丙Eさん(男性) 「いぶきホーム」での状況

 私は、25日午後5時ごろ出勤した。遅番の〇〇さんと一緒に夕食介助。オムツを替え、部屋に誘導。8時30分頃、誘導し終え、「いぶきホーム」の廊下消灯。その後、1時間ごとに見回り。部屋の電気は消していた。26日午前2時過ぎ頃、見回りのため、支援員室を出た。
 西棟2階、西側に「すばるホーム」。「いぶき」は701号室~712号室まで部屋番号がある。部屋には1~2人住んでいた。「いぶき」は計20人住んでいた。709号室の利用者は自閉傾向が強く、部屋から出てものを壊したり落ち着かなくなることがあるので、鍵を閉めていた。704号室、707号室、710号室は、通常鍵をかけていた。それ以外は外から施錠せず、利用者も鍵をかけなかった。
 午前2時過ぎ頃、各部屋見回り。廊下の電気は消えていたが、真暗でなく、人影や人の動きはわかった。部屋を見回り、起きている人は誰もいなかった。常夜灯のみがついていた。見回りを終え、少し休憩しようと、リビングへ行った。このリビングには部屋側の壁沿いに電気がついており、携帯の画面で子どもの写真を見ながら、早く会いたいと考えていた。
 2時30分前後、いきなりエレベーターホールの出入り口が鍵で開けられる音が聞こえてきた。鍵を持ってるんだから職員だと思い、職員が、職員会議のために早めにきたのかなと思った。足音が私の方に近づき、右側へやってきた。水滴のようなものがポタポタ落ちた。「なんだろう」と思い、目をあげた。刃物がみえ、さらに顔をあげると、帽子をかぶった人。見た瞬間「ウエマツだ」とわかった。「殺される、刺される」と思った。汗びっしょりで、ニヤついていた。息があがっていた。包丁が私に向けられ、「動かないでくださいね」と。逆らえば本当に殺されると思い「わかった」と答えた。植松は「携帯、渡してください」というので、渡した。植松はもう片方の手で携帯を受け取ると、床に置き、結束バンドを手にもち、「両方の親指に巻きつけて縛ってください」といった。私が巻きつけると「歯で引っ張ってください」と。殺されると思ったので、言われるまま、両方の親指を縛ってみせた。両方の親指にさらにもう1本縛りつけた。「こっちに来てもらっていいですか」というので、先導されついていった。
 704号室の前につくと植松は、私の両手首にバンドを巻いて縛った。別のバンドを出し、手すりに巻き付け縛った。そして、利用者の部屋に入っていった。「ウワァ」「グエッ」という声が聞こえた。私は植松が利用者を刺したと思った。私は植松が701号室~703号室の各部屋へ次々入り刺していくと思った。うめき声は静かなものもあったが、大きなものもあり、響いた。704号室にくると「この人はしゃべれるんですか」と。私は話せるかどうか尋ねられていると思い「しゃべれます」と答えた。植松は私に「隣の部屋はどうなんですか」と。乙Tと乙Sは、二人とも話せないので「しゃべれません」と答えた。「こういう人たちって要らないですよね」といいながら、705号室へ向かった。話すことのできない人が世の中に要らないという意味だと思った。私は植松が705号室の二人を刺したと思った。引き戸を引く音と、うめき声が聞こえた。
 705号室~712号室の各部屋を次々入り刺していると思った。植松は縛られている私のところに戻り、「隣の夜勤はいますか」と。「すばる」の夜勤と思い「います」と答えた。支援員室の方へ向かい、「ガチャ」というドアを開ける音が聞こえた。支援員室へ入ったと思う。「すばる」へは支援員室を通ってしかいくことできない。支援員室を通って刃物で刺すと思った。
 支援員室から走ってくる音が聞こえて、「逃げられた」という声がした。712号室の方へ走っていった。712号室の非常口を開ける音が聞こえた。植松が逃げて行ったとわかった。尾野さんが「痛い」といって、私の方へやってきた。私は恐怖心で這って、尾野さんに「痛いけど頑張って」と。「Aリビングの前に置かれている携帯とって。四角いのとって持ってきて」と。尾野さんはAリビングの携帯をこっちにもってきた。私は110番した。110番した時刻は3時10分だった。手にもって携帯に口を付けるとオペレータが出た。「事件です。不審者が刃物をもって入ってきました。結束バンドで縛られています」。廊下の方を覗きこんだら、708号室の前あたりに1人利用者が倒れているのがみえた。その状況も伝えた。植松がまた戻ってきて110番しているところを見つかったら殺されると思い、「これから来てください」といって切った。携帯を切ると私の手は震えていた。携帯をその場に落としてしまった。乙Sさんが部屋から出てきて、血のついた洋服を着替えさせてと服をもってきた。乙Mさんはリビングに座り込んでいた。尾野さんはずっと「痛いよう」と言っていた。私は「誰か来てくれるからね。痛いけど頑張ろうね」と。
 しばらくして出入り口の扉が開く音がした。植松が戻ってきたと思った。「大丈夫ですか」という声。丙Cさんだとわかった。「助かった」と思った。安心して「助けて、繋がれてるからハサミ持ってきて」といった。切ってくれたので、「すばるホーム」の様子を見にいった。すでに警察が来ていて「いぶきホーム」に灯りがついていた。床に血、惨劇状態だった。2時30分前後に「いぶきホーム」に入り、「いぶき」から5~10分位して植松が立ち去り、しばらくして110番したのが3時10分。2時30分~2時40分頃までの10分間位のことだと思う。「いぶき」の704号室、709号室、710号室は私が施錠した。それ以外は、すべて、植松に刃物で刺されたり、怪我を負わされたりした。長い時間、親指を縛られた。事件以降、職場を休ませてもらっている。いまだ現実感がなく、夢を見ているのかと思ったりする。暗くなると植松に刃物を向けられた時のことを思い出し、「ドキッ」とする。

3.「いぶき」職員の供述調書から見えてくること

 丙Eさんの供述調書から2つの点が確認できる。一つは、居室の施錠についてである。居室は施錠することができ、施錠していない部屋の利用者は刺されたということだ。夜勤職員は、自らの判断で施錠をしていた様子が垣間見られるが、不運なことに施錠していない部屋の利用者は刺されたのである。だが、施錠は、職員個人の判断で行ってはいけない。身体拘束の「同意書」が必要となる。「切迫性」「非代替性」「一時性」の3つを満たさなければ身体拘束はできないのである。施設側は、この「同意書」をとっていたのか否かは定かではない。
 もうひとつは、刺された利用者が職員を助けた点である。乙Sさん、そして尾野剛志さんの息子、一矢さんである。一矢さんは、腹部や首に重傷を負い、一時期は、生死の境を彷徨ったという。私自身も、職員時代、一矢さんの支援をしたことがある。その頃は、顔への自傷が激しく、大きな声を出したり、一言二言の繰り返しが多かった。例えば、「いるよ~!」と大声で叫んだり、「よ~、よ~、よー」といったりしていたことを今でも鮮明に覚えている。
 事件当初、一矢さんが、重症を負いながらもテレビに出ているのをみて、胸を撫で下ろした。しかし、不幸にも、一矢さんと同じ部屋であった甲Oさん(55歳男性)は、命を落とした。検察官によって読み上げられた調書では、甲Oさんの遺族は事件当日の心境を次のように語っている。
「7月26日の早朝、私のもとに信じられない悲報が届いた。妹が『テレビで大変なことが起きているよ』というので、血の気が引く思いでニュースを見た。自宅から園に電話したら職員が『申し訳ありません。ニュースを見たと思いますけれど、悲しいことなのですけれど、甲Oさんが亡くなりました』と。私は、すぐには信じられず、出かける支度をしながらニュースを見た。本当なんだと、心臓がバクバクした。電車とバスで園へ向かった。園は大勢の人だかりで、何か現実でないことが起きたとわかった。兄が死んだ事実を受け止められず呆然とした。顔はとても穏やかで今にも起きてきそうだが、とても信じられなかった。犯人は働いていた植松聖と報道で知ったが、名前は、聞いたことはない」(第4回公判より)
  同じ居室で刺されながらも一人は亡くなり、一人は生き残った。生死を隔てる境界は何であろうか。まさに「悲劇」である。
 私自身は甲Oさんのことも一矢さんと同じように鮮明に覚えている。お悔みを伝えるために挨拶に行こうと私自身も何度も訪問を試みたが、かなわなかった。家の前のアコーディオン門扉には「マスコミ関係の方はお断りです。宜しくお願いします」と白い張り紙が貼られてあった。インターフォンを押しても反応はない。居留守なのか部屋の暗灯はついていた。公判で、甲Oさんの妹の「心情意見陳述書」が読まれたとき、その気持ちの一端を伺い知ることができた。

4.甲Oさんの妹の「心情意見陳述」

 被害者の遺族として、裁判所に意見を申しあげたいと思います。被告人がこれまで重度障害者について考えてきたこと、話してきたこと、実行したことは全く間違っています。それを強く言いたいです。私の兄は、ちゃんと感情がありました。私たちが兄に伝えたいことをちゃんとわかっていました。言葉でのコミュニケ―ションは難しかったですが、うれしいとき、悲しいとき、ビックリしたとき、気に入らないとき、身体の動作で全身を使って会話をすることができました。兄は、生後、高熱で病気になって障害をもったけれど、両親から深い愛情をもらい、褒められたり、また、叱られたりしながら育ちました。だから、兄としての自覚もあったし、正義感も持っていました。兄は私たち妹と一緒に遊んでくれましたし、留守番もしてくれましたし、家族の誕生日も知っていて、誕生日にはカレンダーの日付を指さしておめでとうという気持ちを表現していました。こういう兄が、人としての尊厳もなく殺害されていいわけがありません。私は、被告人が意思疎通できない人は安楽死させるとか、それが世界平和につながるとかいった考えは全く理解できませんが、被告人なりに考えに考えた末に到達した考えだと思っていました。しかし、被告人が言っていることを聞いてみると、単なる思いつきだったと思いました。こんなことのために亡くなった兄がかわいそうでなりませんし、兄もさぞ無念だっただろうとあらためて悔しい気持ちでいっぱいになりました。私は、被告人のことも、偏った考えも絶対に許すことはできません。以上です。

(第14回公判より)

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著者略歴

  1. 西角 純志

    1965年山口県生まれ。専修大学講師(社会思想史)。津久井やまゆり園には2001年~05年に勤務し、事件の犠牲者19人のうち7人の生活支援を担当した。被告とは、2017年9月以降、手紙のやりとりをし、これまで10回以上接見している。著書に『移動する理論――ルカーチの思想』(御茶の水書房、2011年)、『開けられたパンドラの箱』(共著、創出版、2018年)などがある。

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