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「津久井やまゆり園事件」が問いかけるもの ――元職員の被告接見録にもとづく検証

カフカの『訴訟』から考える(その3)

2016年7月に起こった「津久井やまゆり園事件」が問いかけるものはあまりに大きく重い。優生思想、「生産性」をめぐる議論など、われわれの社会を根底から揺さぶるこの事件の思想的課題について、被告との面会記録を踏まえて検証していく。


第10回 カフカの『訴訟』から考える(その3)

1.法の逆説性

 フランツ・カフカの『掟の門』では、門の内が法の世界、門の外が法外の世界と解釈されている。だが、法を法たらしめているものの一番中核にあるものは法=掟ではない。法の正統性は法によっては問えないので、法は、その起源において法自体の正統性を法ではないものに向けざるをえない。つまり、法ではないものに依拠して法自体を成り立たせなければならないのだ。法は法ではない外部を想定し、それを内に取り込む。『掟の門』の主人公が、門のなかに入り、到達しようとしたのは法を成り立たせている「法外なもの」なのではないか。では「法外なもの」とは何か。それは、端的には「暴力」である。『掟の門』の内側の世界は、『城』の高官たち、『訴訟』の裁判官たち、『変身』、『判決』の父親たちといった汚い権力者の姿に典型的に見て取ることができる。彼らは、人間社会の法=掟を正しく律してゆかねばならない高位の存在であるはずなのに、そうした自覚も意志も持たないかのように薄暗い部屋で「事務室や公文書保管室、住み古された黴臭くて薄暗い部屋」に住み着いている。出入りの禁じられた離れ部屋のなかで、だらしなく、半ばまどろみながらぼんやりとした日々を過ごしているに過ぎない、いわば、寄生虫のような存在である。しかしこの寄生虫は、いざとなると何の前触れもなく、突然、「権力」に満ちた存在として立ちはだかり 、人間たちに勝手な罪を宣告し、「権力」を使ってその存在を脅かす。『城』の太った役人クラムは、村の酒場にやってくると、いつも何もせずビールを前にして座ったままうつらうつら眠ってばかりいるが、実は絶大な「権力」を誇る城の高官である。ヨーゼフ・Kにやがて死刑判決を下す裁判官のひとりは、どういうわけか法律書ならぬ幼稚な学習ノートを抱えてKを審問する。息子のグレゴールに寄生するぐうたらに過ぎなかった『変身』の父親は、息子が害虫に変身するやいなや、突然、体中に力をみなぎらせ、やがてこの害虫にリンゴを投げつける暴力的な家長に「変身」する。『判決』の老衰した父親は、突然、ベッドから跳ね起き、気弱な息子に「溺死刑」を宣告する恐ろしい裁きの手と化す。これがカフカの世界なのだ。つまり、法=掟がどれだけ合理的な形式をとったとしてもその根源には「暴力」があるということだ。普段、法はそれを隠している。カフカがやろうとしたことは、その秘密を浮かび上がらせることだったのだ。法が具体的な姿を現す場所は条文ではない。法が存在する場所は《Der Prozeß》(プロセス)である。つまり、「過程」であり、「審理」であり、「訴訟」なのだ。「裁判」の場所に姿を現す のである。法が自らの起源を再生産するということは「法外なもの」を再生産することに対応している。「法外なもの」は、解釈のなかで再生産されるのだ。法の内側にある「法外なもの」が「暴力」だとすれば、法の外にある「法外なもの」とは法の外に追いやられた犠牲者たちである。法の外部にある「法外なもの」と法の内側にある剥き出しの「暴力」としての「法外なもの」が対峙しあっており、普段の国家の秩序、社会の秩序のなかで法の側が圧倒的な力をもって法支配という形で君臨している。そうした状況下において「正義」が実現されるとすれば、法外に追いやられた最も弱い立場にある犠牲者たちにたえず参照点を求めるべきではなかろうか。自己のノーマルな生を肯定してしまった時には救いも解放ないからである。
 被告は、「世界平和のため」と称して、意思疎通のとれない障害者の大量殺傷を行った。それは、職員・支援者という強者の立場であった。職員には利用者は不幸を産み出す根源として映ったのである。対象に原因を求めるのではなく、支援者である主体の側に原因を求めなければならない。すなわち、認識主体の対象の構成である。対象がどんなに不幸を産み出したとしても、入所者である以上、対象者にその原因を求めることはできない。支援の方法論を改めない限り、何度でも悲劇は繰り返されるであろう。

2.川崎殺傷事件、京アニ事件、「れいわ新撰組」について

 昨年2018年は、「座間事件」、今年2019年になっても「川崎殺傷事件」や農水省の事務次官の事件、「京アニ放火事件」が起こった。「ひきこもり」を含めこうした事件について被告はどう思っているのか。被告の手紙には次のように綴られていた。

(被告)
 自分が不幸だと、恐ろしいことを考えてしまうのだと思いました。ひきこもれる環境に問題があるよう映ります。誰もが生き生き働ける社会であればと思いました。お陰様で応援のお便りは本当に励みになります。しかし、「若い女を監禁して殺しまくる小説は面白かったので読んで下さい」と気色悪い手紙も届きます。彼は犯罪を重ねたあげく女性(27歳)を殺害しています。生き方を間違わないよう隔離すべきだったと考えましたが、いきなりおかしくなったのではなく、子供の頃からおかしかったと思います。誠実な先生方の全員一致で隔離すべきと思いました。アインシュタインやエジソンも「おかしい子ども」と云われましたが、人にえんぴつを刺したり、家に石を投げては「おかしい」の次元が違います。多少厳しくしても幸せを追及 できれば管理をして問題ないと考えております。

 参議院選挙で、「れいわ新撰組」のALS(筋萎縮性側索硬化症)の舩後靖彦さんと重度障害者の木村英子さんが当選しました。彼らについてどのように思いますか。障害者の人が沢山、国会議員になればよいと私は考えています。そのようなことをしなければ国や社会は変わらないと思っています。

(被告)
 神経の太い私でも重度障碍者に意見しにくい所です。人の不幸につけ込むようで、後ろめたくなるからです。無理心中や介護殺人、社会保障費。この3つの大きな問題には「最低限の自立ができない」という共通点があります。日本人は「収入に応じてしかお金は使えない」という事実に気づくべきと思います。私は自分が、移動、食事、排泄ができなくなれば、自死は認められると考えております。「自殺」と「自死」は、死を選ぶ点で同じでも、意味合いが違います。「自死」は、心底立派と思いますし、逃げるのではなく、戦うために死を選択しているのは、安楽死される方々の表情から一目瞭然と思いました。

3.LGBT、強制不妊手術、ナチスの優生思想、アイヒマン裁判について

 「LGBTは生産性がない」という議論や強制不妊手術の問題、ナチスの優生思想についてどう思っていますか。

(被告)
 LGBTでも働ければ、誰にも迷惑をかけていません。私が強制不妊に反対するのは、性的欲求が失われる恐れが有る為です。公言し難いだけかもしれませんが、働かない者に子どもを育てる権利はないと考えます。ヒトラーがユダヤ人を殺害していたのは知っていましたが、障害者をも殺害していたことは知りませんでした。ヒトラーと自分の考えは違います。ユダヤ人虐殺は間違っていたと思っています。ヒトラーの間違いは、ドイツ人の幸せしか考えなかった事だと思います。一人の他人しか愛せず他の同胞には無関心だとしたら、それは愛ではなく共生的愛着、あるいは自己中心主義が拡大されたものだと思います。

 ホロコーストを指揮したナチスの幹部アドルフ・アイヒマンが戦後ユダヤ人裁判官らによりエルサレムの法廷で裁かれました。防弾ガラスに囲まれた被告人席で「自分は上司の命令に従っただけ」と弁明し、テレビでも中継されました。アイヒマン裁判とは対照的に津久井やまゆり園事件は、障害者大量殺傷事件の裁判です。アイヒマン裁判では、被告人は世界中のユダヤ人によって裁かれましたが、障害者大量殺傷事件では、法廷の内外を問わず、大勢の障害者によって裁かれようとしています。この点については如何ですか。

(被告)
 家族を急に殺傷し、大きな事件でご迷惑を御掛けした皆様に本当に申し訳ありません。どれだけの御世話になったかと考えるととても恐縮に思います。しかし、「反省していない」と訴えられるのは抵抗があります。御遺族から4400万円と7500万円の損害賠償を請求されましたが、それは彼らが奪っていた金額です。憤りを感じるお気持ちも判りますが、障害者施設に入所しているということは、面倒だからと考えています。

4.正義とは

 被告は、『掟の門』のレポートでカントの『永遠平和のために』から「正義はなされよ、たとえ悪党が滅びるにしても」という格言を取り上げている。この格言は、ドイツ皇帝フェルディナンド1世の言葉、「正義はなされよ、世界が滅ぶとも(fiat iustitia et pereat mundus)」をカント自身が解釈したものである。『永遠平和のために』には次のようにある。

 「正義よ、なされよ、たとえ世が滅ぶとも」。やや大げさだが正しい。ただふつうは「正義よ、あれかし。世の悪党が滅びようとも」である。悪だくみや暴力行為を絶つべき法の原則である。悪党の数が減っても、世は滅びない。モラルの悪もまた、その特性と関係している。モラルの悪は自分との、また他人とのたくらみのなかで自己矛盾をきたし、自己破壊を起こし、いつしか善の原理に場をあけわたすという性格をもつからである。(池内紀訳『永遠平和のために』集英社、2008年、86頁)

 カントが繰り返して述べていることは人間の本性は、邪悪な存在であるということだ。人々はまがりなりにも法を尊重し、自らの権利を主張する。人々は法を廃棄することは考えず、法を通じて自らの権利を主張するが他者の権利も認めざるをえない。カントは法を普遍化する力が人間の悪の原理を克服する可能性があると考えた。永遠平和は、人間の利己心から生まれた自己正当化の応酬が少しずつ公法の状態を実現させ、正義を確立していくというのである。他方で、被告が取り上げているのが、カフカの「正義の神はじっとしていなくちゃ。でないと秤がゆれて、正しい裁きが下せない」という格言である。これは『訴訟』からの引用である。カフカの「正義の女神」は、ヨーゼフ・Kが画家ティトレリのアトリエで目にする絵画のモチーフとして語られている。「正義の女神」が登場するのは以下の件である。

 画家は小さなテーブルからパステルを取り、人物の輪郭を細かい線で陰影をつけたが、それでもKははっきりわからない。「正義の女神だよ」と、画家がとうとう言った。「そうか、なるほど」と、Kは言った。「これが目隠しの布で、これが天秤か。でも、かかとには翼があって、飛んでるんじゃないのかな?」。「ああ」と、画家が言った。「注文だから仕方がない。じつはね。正義の女神と勝利の女神を一体にしたやつなんだ」。「組み合わせがよくないな」と言って、Kはほほ笑んだ。「正義の女神はじっとしてなきゃ。天秤が揺れるでしょ。公正な判決が下せない」。(丘沢静也訳『訴訟』光文社古典新訳文庫、2009年、215頁)

 「正義の女神」は、ギリシア神話に登場する女神テミスである。目隠しをし、「剣」と「天秤」をもって静止しているが、このモチーフの中に正義のあり方が隠されている。司法・裁判の公正さを表す象徴・シンボルとして、古来より裁判所や法律事務所など、司法関係機関に飾る彫刻や塑像、絵画の題材として扱われてきた。女神が手に持つ天秤は正邪を測る「正義」を、剣は「力」を象徴し、「剣なき秤は無力、秤なき剣は暴力」に過ぎず、法はそれを執行する力と両輪の関係にあることを表している。目隠しは彼女が前に立つ者の姿を見ないことを示し、貧富や権力の有無に関わらず万人に等しく適用されるべきとの「法の下の平等」の法理念を表す。『訴訟』ではヨーゼフ・Kの側に正義があるか否かは必ずしも明らかにされていない。『訴訟』の冒頭の一文「誰かがヨーゼフ・Kを中傷したに違いない」ということさえも一筋縄ではいかない。「誰かがおれを中傷したに違いない」という言葉もヨーゼフ・Kの心の声なのか判断に迷わざるを得ない。この両義性が作品全体を貫いているのだ。『訴訟』は、実現されえない正義の立場から法の不条理を告発するという図式には収斂しえない要素を含んでいる。

 正義の女神S. Hermann & F. RichterによるPixabayからの画像)

5.裁判員裁判の前に

 2019年12月のある日、被告に面会すると43歳のつばさホームの男性遺族、26歳のはなホームの女性遺族が被告を相取り、民事訴訟を起こしていることが判明した。遺族が、被告人に極刑を望むことは理解できるが、他方で、膨大な損害賠償を請求することはそもそも両立可能なのであろうか。これは、命の価値の問題である。『訴訟』には「いのちは尊い」「かけがえのないもの」「交換不可能なもの」としながらも、「交換可能」、「代替可能」という言説が隠されている。掟=法の門とは告訴であり、個人はそこを介して司法のうちに巻き込まれていく。しかし、もっとも根本的で重要な告訴は、被告人自身によって言明される。つまり、告訴という門は、被告自身に向けられているのだ。裁判所は被告に何かを要請している。自分自身に対する告訴に踏み切らない限りはいかなる訴訟も存在しない。聖職者の語るところによれば、これが、「欺き」の意味である。門番は、「今、お前は入ることができない」、「この入口はお前のためだけにあった」と語っている。これは別の言い方をすれば、「お前は告訴されていない」、そして「告訴はお前だけにある、お前だけがお前を告訴することができる」ということを意味している。『訴訟』の主人公ヨーゼフ・KのKの文字は通常、カフカ(Kafka)のKの文字だとされている。だが、Kは、単に中傷=誣告ぶこく(kalumnia)を指すだけでなく、誣告者(kalumniator)、すなわち、「偽りの告発者」のことも指している。つまり、主人公は、自分自身に向けて中傷的な訴訟を提訴したのである。こうした観点を踏まえるならば、誣告が『訴訟』の鍵となる。誣告によって訴訟を引き起こす「誰か」(jemand)とは、ヨーゼフ・Kその人にほかならない。それはいわば、「自己誣告」への誘いであり、逮捕され訴訟に巻き込まれるがままになることへの誘いである。聖職者もまた門の番人であり、聖職者も裁判所に属している。そして、真の欺きとはまさしく、門番の存在であり、もっとも低級の職員から、弁護士や最高位の裁判官にいたるまでの存在なのである。彼らの目的は他者を「自己誣告」へと導き、訴訟以外のいかなる場所にも通じていない門をくぐらせることである。法の外にいる国民が法のなかに入り「法」について議論し、「法外なもの」を再生産する、それが裁判員裁判である。被告は、「心失者」か否かで境界線を引き、「心失者」の殺傷を実行した。そんな線引きはあってはならないと我々は表面的には考えている。だが、被告が線引きされ、死刑に処せられるとすればそれはどうなのか。人を殺した人間は死刑制度によって殺害してもよいが、人を殺していない人間は殺害してはならないという新たな境界線が引かれる。そしてこの「法」と「法外なもの」の境界線は「生きるに値する生」と「生きるに値しない生」の境界線に他ならない。そして、この境界線は、国家の法に基づいているか否かといった制度的な違いに過ぎない。死刑制度には、個人は人を殺してはいけないが、国家は殺してもよいという大前提が隠れているのだ。この「法」と「法外なもの」の関係に司法はどのような回答を与えるのだろうか。我々は注視しておく必要がある。

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著者略歴

  1. 西角 純志

    1965年山口県生まれ。専修大学講師(社会思想史)。津久井やまゆり園には2001年~05年に勤務し、事件の犠牲者19人のうち7人の生活支援を担当した。被告とは、2017年9月以降、手紙のやりとりをし、これまで10回以上接見している。著書に『移動する理論――ルカーチの思想』(御茶の水書房、2011年)、『開けられたパンドラの箱』(共著、創出版、2018年)などがある。

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