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「津久井やまゆり園事件」が問いかけるもの ――元職員の被告接見録にもとづく検証

カフカの『訴訟』から考える(その2)

2016年7月に起こった「津久井やまゆり園事件」が問いかけるものはあまりに大きく重い。優生思想、「生産性」をめぐる議論など、われわれの社会を根底から揺さぶるこの事件の思想的課題について、被告との面会記録を踏まえて検証していく。



第9回 カフカの『訴訟』から考える(その2

1.初日の面会

 2018年の3月のある日、カフカの『訴訟』の中の『掟の門』という短いテキストを大学ノートに貼って彼と面会した。被告の犯行予告の衆院議長宛ての手紙には、9.11や3.11を予言したともいわれる「イルミナティーカード」の複写5枚、それにイラスト2枚が入っていた。犯行予告の手紙は、T4作戦の先駆けとなる「クナウアー事件」や、『中央公論』(1963年年6月号)に連載された水上勉の「拝啓池田総理大臣殿」を連想させるものであった。「クナウアー事件」とは、1938年暮れにライプツィヒ大学医学部小児科病棟で生まれたある奇形児に対し、その父親(クナウアーという姓、名は不詳、ナチ党員)が、ヒトラー直々にあて、自らの子供の安楽死を懇願する手紙を出したことにはじまる。またベストセラー作家である水上勉の「拝啓池田総理大臣殿」は、水上の娘が二分脊椎症であったことから、障害者問題を我がこととして受けとめ、1万字を超える長文をしたためたものである。「クナウアー事件」にせよ、水上勉の「拝啓池田総理大臣殿」にせよ、そして、「津久井やまゆり園事件」にせよ、最初は1通の手紙からはじまっていることに共通点が見出せる。そのような思いをめぐらせながら被告に面会した。
 いざ、被告に面会してみると被告の彼は、誠実で、とても礼儀正しく、気さくな人柄で、どこにでもいるような好青年である。とても事件の首謀者だとは思えない。私の質問にも嫌な顔をせず、答えられる質問には笑顔で答えたのが印象に残る。

――「善とは何か」
被告「人を幸せにすることです」
――「悪とは何か」
被告「人を不幸にすることです」
――「では、法とは何か」
被告「社会が安定して暮らせるようにする秩序です。それがロクでもないものを守ることになっています」
――「それでは、暴力とは何か」
被告「肯定するべきではないが、会話ができないものに対しては、仕方のない手段です」
――「正義とは」
被告「人が幸せになるためのルールです」

 私は、犠牲者のエピソードを紹介しながら次のような質問を投げかけた。「犠牲者のなかで知っている人はいるか」。被告は、ためらいながらも次のように答えた。「名前は、はっきりとは覚えていないが、35歳の女性は報道を見て知ってます」。新聞記者同席の遺族の面会の様子も伺い知ることができたが、弁護士から、犠牲者のリストを見せてもらったというのには驚いた。被告は一通り、弁護士から説明を受けている様子であった。被告が参照した「世界人権宣言」も弁護士から見せてもらったそうだ。
 私が『掟の門』というこのテキストを選んだのは、様々なメディアやジャーナリストが、被告に接見するなかで、そのほとんどが、事件の動機や真相の解明、遺族への態度など同じ質問を繰り返すだけで、事件の本質を捉えていないと感じたからだ。確かに、それで明らかになったこともある。だが、一方的に被告を断罪するだけでは、この事件の本質を見誤る恐れがある。何故ならば、問題の本質が、悪魔的に浅はかで短絡的にしか見えない事件によって隠されてしまっているからだ。では、被告は何を問いたかったのか。そこのところを理解しない限り、通常の単なる殺人事件と同じになってしまうのではないか。謝罪を求める面会ではない。今更、謝罪をしたとしても誰も認めないであろう。だとすれば、この事件の本質はどこにあるのか。私自身、被害者家族や遺族とも面会を重ねてきたし、遺族が匿名を望む理由もよく理解できる。そこで、今回、カフカの『訴訟』に登場する教誨師のような役割を演じて、被告と接見することにした。 面会時、『掟の門』という短いテキストを音読し、彼と議論をした。被告の彼は、カフカについてよく知らない様子であった。このテキストは、法律家のみならず、学者にもよく知られている作品である。現代思想を代表するアガンベンをはじめ、ショーレムやベンヤミン、それにデリダやカッチャーリも参照しているこのテキストを彼自身が、どう考えるのか、どう解釈するのか、そしてどう描くのか。私にとってはとても興味深いところである。そこで、彼自身の体験を踏まえ、レポートしてもらうことにした。レポートというよりは、文学の「ロールシャッハ・テスト」である。これが、私にとっての裁き=審判といってよいかもしれない。被告にはカフカの『訴訟』を差し入れ、やまゆり園に勤めていた当時の様子や、問題関心に合わせてレポートを書くように原稿依頼した。以下が、被告のレポートである。

2.『掟の門』を読んで

 この度はフランツ・カフカの「掟の前で」のレポートを頼まれましたので私の感想を書かせていただきます。西角先生は、人を陥れ不幸を笑うような方ではありませんので、信用に値する人物なのですが、「とても有名な本」は、すでにあらゆる角度の解説がなされており、今さら私が話すことも残されていないよう感じます。そもそも西角先生は障害者施設を「千と千尋の神隠し」に例えてしまうような御方です。一応はジブリの作品ですから、やわらかい表現かもしれませんが、つまりは妖怪の世界ということで、施設職員の中には「ベルセルクの化け物」や「進撃の巨人」に例える方もいました。これを「ヒドイ差別だっ!!」と憤る方もいると思いますが、それは的外れな指摘であり、明確な例えで、施設を利用するほとんどの障害者は「障害者」と呼べるような枠には入っていません。

法について

 どんな犯罪でも無罪にできる心失者には、人権すら例外であると考えられます。しかし、どんな主張であれ今の「法律」は、殺人だと決められています。本来、法律は、「人間の感情」や「常識的な生活」を守るためにありますが、今や心失者を守る盾になることが少なくありません。それが全てなら黒人は永遠に奴隷だし、ユダヤ人は全滅しています。
 「法律で決められている」この言葉を使うのは弁護士や精神科医など「高学歴」「高収入」の人間です。負けるものかと勉学に励み、やっとの思いで手にした権力ですから、自分にとって無益で手間のかかる問題に触れるわけがございません。基本的に人間は自分の為でなくては行動できません。私は、「世界平和」を目的にしていますが、それはあくまでも商売として考えていますし、英雄として教科書に載るかもしれません。なにより、戦争で泣く少女を見て見ぬフリするより、意義がある人生と思えました。本来、「お金」は感謝の代価ですから、世界平和を実現できればブッチギリの金持ちになれます。とはいえ、心失者は超莫大な利権をつくっているため、それを壊す私が生き残ることもできないでしょうし、教科書に載ってもラクがきされるだけで腹が立ちます。人間は信じていることを信じたい生き物で、人間の特性として、マジメすぎると思考のブレーキが効かなくなります。そこを狡猾な者が利用してくるわけで、ブレーキがかかれば「これはおかしい」という勘が働きますが、悪い意味でマジメな人は、信じたことを疑おうとしなくなります。ウソの基本的技法とは、相手の聞きたがっている「良いニュース」を語ることです。結果的に、どれだけ論理的な説得より、狡猾な者の妄信を信用してしまいます。人のつくウソの中で最もありふれたものが、自分自身に対するウソです。人間は、あまりの真実には耐えられないものだそうです。日本の社会保障費は100兆円を超え、東京は、これから首都直下地震で30万人死ぬと想定されていますが、現在も人口は増え続けている通り、そんな恐ろしいニュースよりも、明るく儲かるオリンピックにしか目が届かないのです。これは「マインド・ブロック」とも呼ばれており、潜在意識レベルでマイナスに働く思考パターンの方が強ければ、恐れや不安のなかでなかなか前に進めません。どうして間違った法律を直さないのか、それは単純に「面倒臭い」から、もしくは、「手を出したら殺す」と脅かされてるかもしれません。私でも判る問題に、頭の良い人達が気づかない訳ありません。安楽死や尊厳死、大麻の合法化は、人間が幸せに生きるため必要不可欠なルールですが、日本では「犯罪者」としてタイホされてしまいます。人に嫌われたい人はいませんから、善い行いは全て教育によって学習できると考えております。

暴力について

 暴力は、物理的に限らず言論の暴力も存在します。障害児の家族は平気で嘘をつきますし、都合が悪くなると机を叩きながら大声で威嚇します。面倒で怖いので誰も関わりません。おかしい方を守れば、おかしくなっても仕方無いと思います。意思疎通がとれないものを、どうして「人間」として扱うのか、法律を信じて疑わない方には考えることができません。加えて、価値とは、それを取得するために支払われた対価にもとづきます。人生の多くを浪費した家族が現実を認識するのは極めて困難です。障害者の家族は、「私達は幸せだ」と発言されますが、不幸に思う人もいます。幸せなら自分の家で、自分のお金で育てるべきです。施設で働く職員が重度障害者の親になった時は「目の前が真っ暗になった」と云いました。御遺族の気持ちは判りますし、亡くなられた方々に申し訳ございませんが、仕方が無いと考えております。人間は命令に責任を押しつけ思考を止めることでどんな悪業も行うことができます。第二次終戦後、閉じこめられてガリガリに痩せ細いユダヤ人をみてドイツ人は、「知らなかった」と口を揃えましたが、「ウソだ。あなた達は知っていた」とユダヤ人は言いました。インターネットでつながれた情報社会は、現代戦争が悲惨で地獄であることを知りつつも黙殺しています。手足を縛り戦車で踏み潰し、檻に閉じこめてプールに沈め、首に爆弾を巻きつけて殺す動画をみました。彼らの表情が脳裏に焼きついています。人間が集まればヒエラルキー(みえない階級)が発生し、その場に最も適応した人間が尊敬されます。つまり、殺戮が認められる空間では、それが一つの正義となります。彼らは政治不正による歪みが産みだした被害者です。

正義について

 「正」という漢字を読むと、3ママ目のでっぱりには無理があると判ります。正しい事をすれば悪党が泣く事になり、皆が笑う事はありません。そういう事を考えるのは空想家であり、ほらふきであり、結局はなにもしません。カントやカフカは100年、200年前から人類の道徳的問題提起を挙げていますが、その識見はごく一部の人間にしか知り得ないように感じました。カント「正義はなされよ、たとえ悪党が滅びるにしても」。カフカ「正義の神はじっとしていなくちゃ。でないと秤がゆれて、正しい裁きが下せない」。悪からすれば正義は悪で、友が多ければ秤もズレてしまうかもしれません。カントやカフカに限らず人々は、「悪を倒す」と宣言しています。恐縮ながら“理性と良心”がなければ人間と考えることはできません。

   

『掟の門』(植松聖:画)

 

『カフカの肖像』(植松聖:画)

3.カフカの世界

 一般的には、『掟の門』のテキストは法の内側と法の外側の世界の問題として捉えられている。例えば、カフカの『変身』の世界を考えてみよう。会社勤めをしていた若い健全な肉体をもった青年がある朝、突然、「巨大な害虫」に「変身」する物語である。だが、変身するのは主人公だけではない。『変身』の父親は、息子が害虫に変身するやいなや、突然、体内に力をみなぎらせ、やがてこの害虫にリンゴを投げつける暴力的な家長に変身するのである。権力をもつ家長によって掟の外に追いやられたのが主人公のグレゴール・ザムサである。家族が掟=法の世界だとするとグレゴールは、まさしく、家族から置き去りにされた「法外なもの」である。今日でいえば、引きこもり、ホームレス、ニート、DV、児童虐待などをもこの図式で捉えることができる。家族から見捨てられ、邪魔者扱いされ、社会に放り出された状態である。グレゴールは、家族から厄介者扱いされたもののアレゴリーである。この描写を端的に表しているのが、カフカの『変身』である。
 被告は、法そのものが今や「心失者」を守る盾になっていると主張しているが、この問題は、刑法39条の問題である。刑法39条には、「心神喪失者の行為は、罰しない」、「心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」とある。つまり、心神喪失者、心神耗弱者は、罪を犯しても責任能力には問えず、減刑することが定められている。こうした状況下において2001年に大阪教育大付属池田小学校の事件が発生した。そして、この事件を契機にして、2003年にいわゆる「医療観察法」が制定されたのだ。「医療観察法」とは、「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律」である。重大な他害行為(殺人、放火、強盗、強制わいせつ、傷害)を行った人に対して、適切な医療を提供し、社会復帰を促進することを目的とした制度である。この「医療観察法」が成立することによって、心神喪失または心神耗弱と認められて不起訴処分になった場合、あるいは裁判によって無罪や減刑が確定した場合に検察官が地方裁判所に「医療観察法」による審判を申し立てることができる。つまり、「法」のなかは、「法外なもの」があり、「法外なもの」のなかにも「法」があるのだ。「法」は、起源としてあるのではなく、「法」を産み出す「法外なもの」があり、それによって「法」が成立するのである。「法外なもの」とは混沌とした無秩序状態であり、こうした状況下において「法」が成立するのである。だが、「法」が成立してもそれで全てが完結するのではなく、「法外なもの」が新たに立ち現れる。つまり、「法」は、「法外なもの」を内包すると同時に「法外なもの」を排除する力をもち合わせているのである。法がいったん成立すると法は、正義として人々を信奉させ、遵守するように訴える力をもつのだ。

 被告は、暴力は、物理的に限らず言論の暴力も存在すると述べているが、これは面会した障害者家族に叱責された経験が大きい。被告は「意思疎通がとれないものを、どうして『人間』として扱うのか」を問うている。何故か。それは、理性と良心をもっていないからだという。「自己認識ができ」「複合感情が理解でき」「他人と共有することができる」。それが被告のいう人間の条件である。カントは、人間には、理性と良心、人格の尊厳が備わっているとしたが、健常者や、成人男性を前提にし、障害者や女性、子供を対象にはしていなかった。カント哲学が法=掟の内側の「理性的なもの」であるとすれば、法=掟の外側にあるのが狂気や暴力といった「非理性的なもの」である。理性が暴力や狂気に変容する問題に対して解答を与えたのが、20世紀の思想家たちであった。哲学的な議論はともかく、被告はそもそも意思疎通をとろうと努力をしていたのかと言えば、疑問を感じざるをえない。むしろ、浅はかな知識で短絡的に判断したようにさえ感じる。安楽死にせよ、尊厳死にせよ、本人の意思の確認が前提だからだ。当事者の意思確認抜きで、「安楽死させる」などと語るのは危険な考え方である。これは、法=掟の内側の強者の立場の論理である。だからこそ、意思決定支援が欠かせないのである。わが国では2011年障害者基本法改正時に権利擁護で「意思決定の支援」への配慮が明記され、2013年施行の障害者総合支援法で「意思決定の支援」への配慮が行政や事業者の努力義務とされた。普段の日常的な支援においても、支援そのものが自己目的化していく事例もある。それが、虐待・暴力へと変容し、社会問題化している。これが、法・支援の自己目的化である。確かに、障害者の家族は、幸せな人もいるし、不幸に思う人もいる。施設にあずける家族もいれば、在宅でみる家族もいる。それは個々の事情によるものである。重要なことは、障害があろうとなかろうと、家族は、我が子を障害者としては見ていないということである。息子であり、娘なのである。だからこそ、障害者家族は激高するのである。被告は、「価値とは、それを取得するために支払われた対価にもとづく」と語る。重度障害者を養うのに膨大な社会保障費、人件費、労働力が費やされ、それに見合っていないという。だが、数量化で図られないところに介護の仕事の魅力がある。確かに利用者満足度調査であるとか、利用者に様をつけ、お客様扱いする風潮であるとか、これは偽善である。障害者を商売の対象としてしか見ていないからだ。法の内側にいるのが、健常者であり、福祉施設の職員であるとすれば、法の外側にいるのが障害当事者や家族である。法暴力によって法外に追いやられ、行き場を失う。法=掟の内側の人々は、法=掟の外側にいる人々を自由に操ることができ、法の内側には入れないのである。数量化されえない、正解がない世界だからこそ、やりがいがあり、面白味もある。この「法」と「法外なもの」のパラドックスが『掟の門』の世界なのである。

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著者略歴

  1. 西角 純志

    1965年山口県生まれ。専修大学講師(社会思想史)。津久井やまゆり園には2001年~05年に勤務し、事件の犠牲者19人のうち7人の生活支援を担当した。被告とは、2017年9月以降、手紙のやりとりをし、これまで10回以上接見している。著書に『移動する理論――ルカーチの思想』(御茶の水書房、2011年)、『開けられたパンドラの箱』(共著、創出版、2018年)などがある。

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