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「津久井やまゆり園事件」が問いかけるもの ――元職員の被告接見録にもとづく検証

安楽死・尊厳死を考える(その3)

2016年7月に起こった「津久井やまゆり園事件」が問いかけるものはあまりに大きく重い。優生思想、「生産性」をめぐる議論など、われわれの社会を根底から揺さぶるこの事件の思想的課題について、被告との面会記録を踏まえて検証していく。


第7回 安楽死・尊厳死を考える(その3)  


1.「安楽死法制化を阻止する会」と松田道雄

 1978年5月に「安楽死」法案草稿の議論が始まるやいなや、同年11月には、協会の正式な草案が作成されるに先立つ形で、武谷三男、那須宗一、野間宏、水上勉、松田道雄ら文化人5人を呼びかけ人とする「安楽死法制化を阻止する会」が結成された。「安楽死法制化を阻止する会」の声明は、次のようなものである。

 最近、日本安楽死協会(太田典礼理事長)を中心に、安楽死を肯定し、肯定するばかりでなく、これを法制化しようとする動きが表面化している。しかし、このような動きは明らかに、医療現場や治療や看護の意欲を阻害し、患者やその家族の闘病の気力を失うばかりか、生命を絶対的に尊重しようとする人々の思いを減退させている。こうした現実をみるにつけ、我々は少なくとも、安楽死法制化の動きをこれ以上黙視し放置することは許されないと、社会的な立場から考えざるをえなくなった。現在、安楽死肯定論者が主張する「安楽死」には、疑問が多すぎるのである。真に逝く人のためを考えて、というよりも、生残る周囲のための「安楽死」である場合が多いのではないか。強い立場の人々の満足のために、弱い立場の人たちの生命が奪われるのではないか。生きたい、という人間の意志と願いを、気がねなく全うできる社会体制が不備のまま「安楽死」を肯定することは、事実上、病人や老人に「死ね」と圧力を加えることにならないか。現代の医学では、患者の死を確実に予想できないのではないか……。これらの疑問を措いて、安楽死を即座に承認することは、我々には到底できない。実態を学びつつ考え、討論し、正しい方向を追求するためには、我々は「安楽死法制化を阻止する会」を組織し、真に生命を尊重する社会の建設をめざそうとするものである。
  右、声明する。

1978年11月
安楽死法制化を阻止する会
発起人  武谷三男 那須宗一
野間 宏 松田道雄
水上 勉

 「阻止する会」の発起人で、中心的な役割を担ったのが松田道雄である。松田は、小児科医として『育児の百科』などのベストセラー育児書の著者として知られている。戦後日本の代表的な思想家であり、知識人である。ルソーや、ロシア革命史の研究のほか、「べ平連」等の市民運動において大きな役割を果たした。松田は、自らの思想を体系的に提示する思想家ではなかったが、困窮者の結核治療から出発し、戦後、開業医として幼児の治療にあたる傍ら、広く時の知識人のあり方や、ロシア革命について数多くの論文や著書を発表している。最晩年には、『安楽死』(岩波ブックレット、1983年)や、『安楽に死にたい』(岩波書店、1997年)を刊行している。
 『生きること・死ぬこと』(筑摩書房、1980年)に収められた2つの論考「自己決定権」「安楽死法制化に反対する」では次のように述べている。
「『安楽死法制化を阻止する会』は、いまの医療の実情のなかで、医者に患者を殺してもいいという法律をつくらせないようにするのを目的としている。……私個人の立場では、いまの医療をやっている医師のなかに、患者をころす権利をもたせては危険な人もあると思うので、法制化に賛成できない。いまの医者のなかには、患者の自己決定を全然みとめない人がいる。……こういう医者に、重症の患者の死期をきめさせ、医療の欲するときに生命を絶たせることに、私は危惧を感じる。それは患者の自己決定という名で、医者が臓器移植に都合のいい時期に重症者をころす決定権を行使させることになる」。「『安楽死法制化を阻止する会』にもう一つの原則があるとすれば、強い人間と弱い人間とがいる場合、弱い人間の立場を大事にしたいということであります」。「強い立場にある医者と弱い立場にある患者とが、治療の仕方について争っているとき、医者に患者を死なせる権限をあたえる法律をつくることは、さらに医者を強くし、患者にとっては不利であると思います」。
 松田は、ここで安楽死の法制化が患者からではなく、医師の側から提案されていることを問題にしている。医師は、強者の立場であり、患者は弱者の立場である。患者の自己決定が無視されているというのである。そればかりではない。安楽死の法制化は、患者の「自己決定権」という名の下で、臓器移植や医療費削減などを理由に医師が、患者の都合の良い時期に殺す決定権、いわば、生殺与奪権を持つというのである。医師に重症患者の死期を決めさせ、医師の欲する時に生命を絶たせることが可能となるというのである。
「法制化論者のいうように、末期患者の延命治療によってもうけている病院があるとすれば、そういう病院は、延命治療がもうからないものだと判断したら、患者が『リビング・ウィル』の署名者だとわかれば、病院の都合のいいときに、法の名で生命をたつことも考えられます」。「さらに重大と想えるのは、安楽死法制化が公になったときに、重症患者の看護にあたっている看護婦や付添についている肉親や心身障害者、精神障害者から、はげしい反対がおこったことです」。

2.松田道雄と太田典礼の交錯

「太田さんは、重症の心身障害者を積極的安楽死(医者が注射によって永久に眠らせる)の対象からはずしているだけではない、消極的安楽死の対象にもなりにくいといっている。生きている限り治療を打ちきれないというのはそれである。それでは太田さんがどうして心身障害者から大悪人のように思われるようになったか。それは心身障害者の『非常識』とか『マスコミの無責任な扱い方』にすべてをあずけてしまっていいか。それを私は太田さんの『安楽死のすすめ』が『弱者の論理』によってつらぬかれていないせいだと思う」(『人間の威厳について』筑摩書房、1975年、138頁)。
 松田道雄と太田典礼は、旧制第三高等学校の同窓であり、医師同士としても付き合いがあった。太田が1968年に「葬式を改革する会」を結成したとき、松田は発起人になることを依頼され、断ったという経緯もある。だが、意外にも、太田が最初に安楽死を提起した編著『安楽死』(クリエイト、1972年)に次のような「推せん」文を寄せている。
「かつて医師と法学者との問題であった安楽死は、いま一般市民の切実な問題となった。誰もが死に近づくと病院に運ばれ、密室的状況のなかで病院の経営のペースで生命をのばされる。ガンが全身をおかし、生が疼痛しか意味しないときになっても『生命の尊重』ということで生かされる。この非業の死からのがれる唯一の道は安楽死の権利を基本的人権として回復することである。本書は安楽死とは何か知る恰好の案内書である」。
 この「推せん」文の叙述から松田が、太田の安楽死運動の啓発・啓蒙に賛同していたことが伺われる。松田は、ある時期まで安楽死運動に理解をしていたのも確かだ。松田が安楽死に関して最初に発言したのは1953年の『芝蘭』61号によせた「安楽死について」である。高草木光一『松田道雄と「いのち」の社会主義』(岩波書店、2018年、216頁)によれば、1953年の時点で松田は「安楽死に関心を寄せつつも、明確な安楽死反対論を展開していた」という。それが1970年代になれば、様相が変わってくる。『暮しの手帖』10号(1971年2月)に掲載された「晩年について」では、条件付きで「安楽死」を容認する考えを示しているのだ。

3.松田道雄が安楽死法制化に反対した理由

 では、何故、松田は、安楽死の法制化に反対の立場に立ったのか。その手掛かりになるのが、松田が文芸同人誌『しののめ』(75号、1972年)によせた寄稿文である。『しののめ』誌は、「青い芝の会」と深い繋がりがある。1972年は、太田の『安楽死』の刊行の年でもあり、『しののめ』誌への寄稿の年でもある。
「からだの不自由な人間にたいして十分に世話ができる状況がつくりだされれば、本人が、これは自分の人間としての尊厳が傷つけられたと思うことは、ずっとへるだろう。だから、まわりの人間はどうして安楽に自殺させるかをかんがえるよりさきに、どうして十分に世話ができるかをかんがえなければならない。それでもなお、そんなに人の厄介になるのはいやだと思う人間がいたら、その人に楽に死ぬ権利をまわりの人がさまたげることはできない。自力で自殺できない人の自殺の権利と委託殺人の犯罪性をどうやって調和できるかが、安楽死の最大の問題であろう」。
 ここで、松田は、医師による自殺幇助を法的に認めるか否かを提起し結論は控えているが、高草木がいうように「安楽死をともかく議論の俎上に載せようとしたため」だったのではないかと考えられる。かつて大谷いづみが『思想』(2006年1月号)によせた論考「『市民的自由』としての死の選択――松田道雄の『死の自己決定論』」において指摘したように松田と太田は共通項がある。それは、「死の自己決定権」、「老人の自殺権の容認」、「威厳ある死」を求める姿勢である。大谷は、松田道雄と太田典礼を徹底的に分かつものが「心身障害者」への態度であるとみている。「日本安楽死協会」が自発的積極的安楽死を運動方針から除くことを明文化するのは1981年の運動方針転換による。太田典礼自身は、1963年の提案の時から致死薬投与の合法化を明確にしたことは一度もない。しかし立法化のために条文や草稿以外は、「半人間」という概念がある。太田典礼は『死はタブーか――日本人の死生観を問い直す』(人間の科学社、1982年、131頁)で次のように述べている。
「この半人間の実態はどこまでもあいまいなままにされているが、是非明らかにしてもらいたいものです。……人間の形だけしておれば人間なのか、そのためまともな人権が侵害されることになるのをどう考えるのか、どちらの人権が尊重されるべきか、もっと公正に論じて対策を立てるべきではないでしょうか」。
 太田のいう「半人間」の範疇とは、「中風、半身不随、脳硬化症、慢性病の寝たきり病人、老衰、広い意味の不具、精薄、植物的人間」である。これに対し、松田は、「安楽死の問題を医者と患者のあいだのことだけ考えることに、疑問をもつようになったのは、安楽死の問題が日本でとなえられるようになっておこった、心身障害者の側からのはげしい抵抗のため」であると述べている。大谷によれば、太田は、「半人間」と一括りにしたのに対し、松田は、「心身障害者の側からのはげしい抵抗」を深く受け止め、これを最後まで手放さなかったとする。そして、心身衰えた「老衰人間」の死の自己決定権と、それを実現するための自殺幇助の合法化を、松田は同時に主張したのである。松田は、『わが生活わが思想』(岩波書店、1989年)に収められた論考「市民的自由としての生死の選択」では、「老人問題のコペルニクス的転回」を唱えている。
「『近代的自我』が憲法でいう個人の尊厳と基本的人権の保障にあたるものならば、日本人全体に『近代的自我』の意識をつよめる必要がある。老人医療だけでなく、日々の市民の医療に医師の説明義務を法的だけでなく、市民の義務として、患者にも医者にも常識化させなければならない。それができないかぎり、老人問題のコペルニクス的な転回というべき老人主体の解決はのぞめない」。
 松田のいう「老人問題のコペルニクス的転回」とは、老人問題を社会保障費、医療費の対象=客体として捉えるのではなく、当事者意識として、自らの問題として捉えることを意味している。それは、今日でいう「私たちの事を私たち抜きで決めないで(Nothing About Us Without Us)」という「障害者権利条約」の理念である。
 1970年代の「安楽死」ブームのなかで、明確に安楽死法制化反対運動を形成したのは、確かに脳性マヒ者を中心とする障害者運動と「阻止する会」であった。しかし、こうした反対運動を下支えした医学界、法学界があり、反対運動に共鳴する人々が一定程度いたこともまた事実である。安楽死法制化運動は、法案自体が、審議未了廃案となり、運動は、終息に向かった。
 現在の「日本尊厳死協会」は、いうまでもなく太田典礼の思想がそのまま引き継がれたものではない。太田は安楽死という名で大量殺人を試みたわけではないが、植松聖被告のいう「意思疎通のとれない人間は安楽死させるべきだ」、「人間の形だけしておれば人間なのか」などという主張と通底している。それは、健常者・健全者という「強者の立場」である。1970年代、「日本安楽死協会」の動向は、マスコミによって大きく取り上げられたが、それに比して会員の増加はなかった。会員数が急激に増加を見せるのは「日本尊厳死協会」へと改称してからである。2005年、尊厳死法制化の請願の仲介をした当時の中山太郎衆議院議員が委員長になり、「尊厳死法制化を考える議員連盟」が発足した。2007年には終末期における延命措置中止等に関する法律草案が提示されたが、日本医師会から「尊厳死はある程度あうんの呼吸で行われており法制化はこれを制約する可能性がある」との意見が出されたこともあり、成案には至らなかった。現在、平川克美(経営者・文筆家)、中西正司(DPI 日本会議理事)、川口有美子(難病患者会)らを呼びかけ人とする「尊厳死の法制化を認めない市民の会」の声明が公表されている(http://mitomenai.org/)。 また、雨宮処凛「尊厳死法制化の動きと、その裏にあるもの」『マガジン9』(http://www.magazine9.jp/karin/130206/)も必見である。
 尊厳死が法制化されるとすれば、国家による生の選別が可能となり、被告の安楽死思想を後押しすることに繋がりかねない。私が最も危惧するのはこのことである。太田典礼と植松聖被告は、「強者の立場」に立って安楽死を唱えているところに共通性がみられる。それに対して松田道雄は、「弱者の立場」に立った視点を持ち合わせている。だが、松田の安楽死思想の流れは矛盾を孕んでいる。それは、『しののめ』誌をはじめとする心身障害者たちとの出会いにより、大きく不可逆的転回をしたためだ。松田は、当事者たちの激しい抵抗を深く受け止め、後に「コペルニクス的転回」を主張している。それは、弱者の視点であり、当事者意識であり、「私たちの事を私たち抜きで決めないで(Nothing About Us Without Us)」という「障害者権利条約」のスローガンとも重なる。太田典礼は、旧優生保護法を制定した人物としても知られているが、今日、多かれ少なかれ、こうした優生思想が社会に蔓延している。「安楽死」の問題然り、「生産性」の問題も然りである。そしてこうした危険を孕む優生思想に対峙するのが、日本が2014年1月20日に批准した「障害者権利条約」であることを我々は忘れてはならない。

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著者略歴

  1. 西角 純志(にしかど・じゅんじ)

    1965年山口県生まれ。専修大学講師(社会学・社会思想史)。博士(政治学)。津久井やまゆり園には2001年~05年に勤務。犠牲者19人の「生きた証」を記録する活動がNHK『ハートネットTV』(2016年12月6日放送)ほか、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌にて紹介される。主要著作に『移動する理論――ルカーチの思想』(御茶の水書房、2011年)、『開けられたパンドラの箱』(共著、創出版、2018年)などがある。
    『批評理論と社会理論(叢書アレテイア14)』(共著、御茶の水書房)、『現代思想の海図』(共著、法律文化社、2014年)、「青い芝の会と〈否定的なるもの〉――〈語り得ぬもの〉からの問い」『危機からの脱出』(共著、御茶の水書房、2010年)、「津久井やまゆり園の悲劇――〈内なる優生思想〉に抗して」『現代思想』(第44巻第19号、2016年)、「戦後障害者運動と津久井やまゆり園――施設と地域の〈共生〉の諸相」『専修人文論集』(第103号、2018年)、「根源悪と人間の尊厳――アイヒマン裁判から考える相模原障害者殺傷事件」『専修人文論集』(第105号、2019年)、「法・正義・暴力――法と法外なもの」『社会科学年報』(第54号、2020年)、「津久井やまゆり園事件の『本質』はどこにあるか」『飢餓陣営』(第52号、2020年)ほか多数。

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