明石書店のwebマガジン

MENU

「津久井やまゆり園事件」が問いかけるもの ――元職員の被告接見録にもとづく検証

安楽死・尊厳死を考える(その2)

2016年7月に起こった「津久井やまゆり園事件」が問いかけるものはあまりに大きく重い。優生思想、「生産性」をめぐる議論など、われわれの社会を根底から揺さぶるこの事件の思想的課題について、被告との面会記録を踏まえて検証していく。


第6回 安楽死・尊厳死を考える(その2) 

 太田典礼は、産婦人科医にして、旧社会党の衆議院議員として旧優生保護法の制定に寄与し、「日本安楽死協会」を設立した人物として知られている。その太田典礼が、はじめて安楽死の法制化に言及したのが『思想の科学』(1963年8月)に発表した「安楽死の新しい解釈とその合法化」という論考である。これが安楽死・尊厳死の法制化運動のはじまりである。太田はこの論考で次のように語っている。「苦痛を和らげることを主目的にするもので、死期を早めることを目的としない。従って、使用するのは薬剤であって、麻薬あるいは睡眠薬、神経安定剤である。ただ、その使用の結果、生命を短絡する危険があってもそれにこだわらないという立場に立つ」。すなわち、医師の立場から、苦痛緩和を目的とする間接的な安楽死の合法化を求めたのが太田典礼であった。

1.日本安楽死協会の設立の「前史」

 「日本安楽死協会」を組織した発端となったのは、1968年に植松正や稲田務らとともに設立した「葬式を改革する会」であった。「葬式を改革する会」は『葬式無用論』(稲田務・太田典礼編:葬式を改革する会発行、1968年)といった書物も刊行している。太田典礼は、『葬式無用論』に収められた論考「葬式無用と改革」において次のように述べている。
「私は、青年時代にキリスト教の洗礼をうけ何年も信仰生活をつづけてきたが、神の存在、霊魂の問題に対して疑念を抱き、数年間の苦悩の末、ついに神から自己をとりもどした。宗教のもつ良いところは認めるが、害悪の方がはるかに大きい。なるほど宗教は阿片であると悟り、一さいの宗教を否定し、それからずっと無宗教者として生きてきた。あらゆる宗教は、何らかのマジナイを伴っており、医者としても、マジナイ宗教はごめんだ」
 太田典礼は、戦前の唯物論研究会の会員であり、宗教に対しては、生涯にわたって厳しい批判者であった。『無宗教生きがい論』(みずうみ書房、1976年)では、「無宗教は非宗教であり、脱宗教、反宗教でもある。そのもとは現世の肯定、人間としての自信である」とし、「神にたよらず、自ら自身をもつことこそ人間の強さであり、そこではじめて人間性の回復、自立性の確立が可能となる」と述べている。そして、自らの無宗教の立場を「宗教的神秘主義をかなぐりすてた科学的合理主義に立つもの」であると述べている。太田が、キリスト教に惹かれた背景には、6歳で実母を癌で亡くした喪失体験、その葬儀では儀礼ばかりが重んじられ遺児の悲しみなど捨て置かれた孤独と傷心の体験、翌年父の再婚によって継母と心が通わず味わった疎外感などの諸事情があった。
 「葬式を改革する会」では、安楽死が何かと話題になり、会員の刑法学者の植松正の協力を得て『安楽死』(太田典礼編:クリエイト社、1972年)を出版することとなった。そして翌年には、今日的古典ともいえる単著『安楽死のすすめ』(三一書房、1973年)を出版し、安楽死立法化への再提案を試みるのである。
 太田は、『安楽死』に収められた「立法化への基準」という論考において、薬剤、心理的処置、宗教家の役割、医学的条件を列挙し、「不治の病」についての判断は極めてむずかしいとしながらも、死期の遠い不治に関しては「植物的人間と同格に議論がある」としている。その範囲には、「中風、半身不随、脳硬化症、慢性病の寝たきり病人、老衰、広い意味の不具、精薄、植物的人間」を含めている。
 安楽死立法化の発言が再開された1972年は、有吉佐和子の長編小説『恍惚の人』(新潮社、1972年)がベストセラーになって老人問題がクローズアップされたり、「植物人間」が話題になりはじめた時期である。『恍惚の人』は、森繁久彌の主演で映画化され、老人福祉行政の進展にも影響を与えた。1960年代から70年代にかけて日本の人口が1億を超え、1972年には東京でアジア人口会議が開催されている。当時の時代状況のもとで太田典礼自身のなかにおいて「植物人間」と「老人」は分かち難く結びついていき、安楽死運動となっていったのである。安楽死運動は同時代の植物人間・老人の問題と連動してマスコミに活発に取り上げられるようになった。
 また、ベルギーでのサリドマイド児を殺害した母親・医師・家族らに対する無罪の判決をめぐって賛否両論が渦巻いていたこともその背景にある。『婦人公論』(1963年2月号)は、ベルギーのこのサリドマイド事件を契機に「誌上裁判――奇形児は殺されるべきか」という座談会(石川達三・戸川エマ・小林提樹・水上勉・仁木悦子)を特集している。また、日本において司法の現場で、いわゆる「安楽死6要件」(1962年2月、名古屋高裁山内判決)が示されたことも背景にある。そして障害者による草分け的な文芸同人誌として知られる『しののめ』誌も「安楽死をめぐって」特集を組んだ。障害者が「安楽死」について議論することが極めて現実的なものとなったからである。
 『しののめ』誌とは、1947年、日本最初の公立肢体不自由学校「東京市立光明学校」(現、東京都立光明養護学校)の卒業生による手書きの回覧誌として始まったもので、花田春兆を編集長とした文芸同人誌である。同人誌という形式上、その規模は決して大きくはないものの1950年代後半から60年代後半にかけて光明学校関係者以外にも広がりを見せ、特に在宅障害者を中心に障害の種別を超えて全国各地にその輪を広げていった。1962年4月、「安楽死をめぐって」の特集号(47号)を発行し、『強いられる安楽死』(しののめ発行所、1973年)も刊行される。また10年後の1972年には2度目の安楽死特集号(75号)が発行されている。『しののめ』誌の特集号は「安楽死」を取り上げた議論としてもかなり早い時期のものである。
 「安楽死をめぐって」は、外部識者と同人たちとの往復書簡・外部者へのアンケート、評論、エッセイ等で構成されている。花田は、当時島田療育園園長であった小林提樹宛ての往復書簡のなかで特集の動機について次のように語っている。
「すべては健康な社会人だったのです……この事実は安楽死問題の提起が外からなされているものであり問題は社会と結びつけているのを示す証明にもなりましょう。議論された声として提出されていないのはむしろ障害者の側の声ではないでしょうか。イギリスの安楽死論争でも、……ライン内の人には理解力や発言能力で無理な人が多かったでしょうが、ボーダーライン層がどう反応したかもわかりません。全然報道されず、資料もキャッチ出来なかったのです。つまりこの論争は外でこそ火花を散らしていたのです」
 この特集は、安楽死の是非を問うというよりも、障害者の「安楽死」を議論する声が健常者側からばかり発せられることへの疑問があったから組まれたのではないかと思われる。こうした現状から障害者自身に発言権を与えるべきであり、その声がいかに過酷な現実から発せられているかを訴えることにこの特集の目的があったと考えられる。

2.「青い芝の会」の安楽死反対運動

 太田典礼による1972年の安楽死立法化の発言の再開と前後して、母親の障害児殺しに対し地元町内会や神奈川県心身障害児父母の会による減刑嘆願運動が起こった。そして「殺される側」からの異議申し立てを行ったのが「青い芝の会」神奈川県連合会であった。1972年、中絶を認める経済的理由の撤廃とともに胎児条項の追加を内容とする優生保護法の改正案が政府より提出され、「青い芝の会」は、「胎児条項」の導入を含む優生保護法の改正問題に対して激しい反対運動を展開していたのだ。こうした流れのなかで「行動綱領」も採択され、さらには原一男監督によるドキュメンタリー映画『さよならCP』も制作され、各地で上映会が開催された。「青い芝の会」のこれらの活動は、「障害者殺しの思想」を問うことを意味していた。1977年、九州大学で太田典礼と成田薫の講演会が行なわれたが、福岡青い芝の会と青年医師連合の抗議があったり、翌年の1978年の京都大学での学園祭実行委員による「安楽死のシンポジウム」で全障連(全国障害者解放運動連絡会議)の抗議により、太田典礼の参加が急遽取り下げられるという事件もおきている。
 横田弘は、『障害者殺しの思想』(JCA出版、1980年)において太田典礼の次のような発言を取り上げている。
「(典礼曰く:筆者)植物人間は、人格のある人間だとは思ってません。無用な者は社会から消えるべきなんだ。社会の幸福、文明の進歩のために努力している人と、発展に貢献できる能力を持った人だけが優先性をもっているのであって、重症障害者やコウコツの老人から『われわれを大事にしろ』などといわれては、たまったものではない」
 太田典礼のこの発言に対し、横田は次のように批判している。
「これは、『週刊朝日』72年10月27日号『安楽死させられる側の声にならない声』いう記事にある元国会議員で、『日本安楽死協会』なる物をつくろうとしている太田典礼の言葉だ。私たち重度脳性マヒ者にとって絶対に許せない、又、絶対に許してはならないこの言葉こそ、実は脳性マヒ者殺し、経済審議会が2月8日に答申した新経済5カ年計画のなかでうたっている重度心身障害者全員の隔離収容、そして胎児チェックを一つの柱とする優生保護法改正案を始めとするすべての障害者問題に対する基本的な姿勢であり、偽りのない感情であることを、私はまず一点押さえておかなければならない」
 こうして太田典礼は、優生保護法制定者、擁護者にして安楽死運動の立役者というレッテルを張られ心身障害者と真っ向から対立することになったのである。太田典礼の安楽死運動は、当人の意図に反してマスコミにおいてしばしば心身障害者問題と結びつけられて語られることが多かったが、太田の優生運動と安楽死法制化運動は、「青い芝の会」によって否定されたのである。

3.日本安楽死協会の設立に向けて

 1973年に刊行された『安楽死のすすめ』(三一書房)では、「立法化への期待」と題して「任意安楽死法案」を明文化している。「本人の意志、希望を原則とし、非任意、強制ではない」とし、宣言書や、法的要件について言及している。1975年6月19日、「日本安楽死協会」の設立準備会が開催され、翌年の1976年1月20日、「日本安楽死協会」が設立された。同年、11月には協会理事の石川治が私案を作成。1978年2月に第一次法案委員会が発足し、石川治、飛田人徳、和田敏明理事によってそれぞれ私案が作られた。そして最終的には石川私案を骨子に作られた「自然死法第一次要綱案」が5月の第2回年次総会で報告された。6月末には第二次法案委員会が発足し、翌7月には衆参両院の法務、社会労働、文教各委員に法制化推進を文書により要望。延命措置を中止させる権利の確立を共通の目標とすることが確認された第二回安楽死国際会議をはさんで、11月29日、協会の「末期医療の特別措置法」草案が完成した。草案は理事会の審議を経て正式な協会案として発表された。この法案は、「安楽死」法の適用は、致死薬の投与という積極的安楽死ではなく、また「死にまさる苦痛の除去」ではなく、「過剰な延命治療の停止」であることが明確にされたのである。そして、こうした安楽死法制化運動の動向において真っ向から反対したのが、武谷三男、那須宗一、野間宏、水上勉、松田道雄ら文化人5人を呼びかけ人とする「安楽死法制化を阻止する会」であったのだ。

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 西角 純志

    1965年山口県生まれ。専修大学講師(社会思想史)。津久井やまゆり園には2001年~05年に勤務し、事件の犠牲者19人のうち7人の生活支援を担当した。被告とは、2017年9月以降、手紙のやりとりをし、これまで10回以上接見している。著書に『移動する理論――ルカーチの思想』(御茶の水書房、2011年)、『開けられたパンドラの箱』(共著、創出版、2018年)などがある。

閉じる