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「津久井やまゆり園事件」が問いかけるもの ――元職員の被告接見録にもとづく検証

安楽死・尊厳死を考える(その1)

2016年7月に起こった「津久井やまゆり園事件」が問いかけるものはあまりに大きく重い。優生思想、「生産性」をめぐる議論など、われわれの社会を根底から揺さぶるこの事件の思想的課題について、被告との面会記録を踏まえて検証していく。


第5回 安楽死・尊厳死を考える(その1)

1.NHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」

 2019年6月2日の日曜日、NHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」が放送された。重い神経難病を患っている一人の日本人女性が、安楽死を切望し、彼女の選択と向き合い続けた家族の姿を描いたドキュメンタリーである。番組の説明には次のようにある。

「安楽死が容認され海外からも希望者を受け入れている団体があるスイスで、一人の日本人女性が安楽死を行った。3年前に、体の機能が失われる神経難病と診断されたAさん。歩行や会話が困難となり、医師からは『やがて胃瘻と人工呼吸器が必要になる』と宣告される。その後、『人生の終わりは、意思を伝えられるうちに、自らの意思で決めたい』と、スイスの安楽死団体に登録した。安楽死に至るまでの日々、葛藤し続けたのが家族だ。自殺未遂を繰り返す本人から、『安楽死が唯一の希望の光』だと聞かされた家族は、『このままでは最も不幸な最期になる』と考え、自問自答しながら選択に寄り添わざるを得なくなった。そして、生と死を巡る対話を続け、スイスでの最期の瞬間に立ち会った。延命治療の技術が進歩し、納得のいく最期をどう迎えるかが本人と家族に突きつけられる時代。海外での日本人の安楽死は何を問いかけるのかを見つめる」

2.番組への批判と抗議声明

 安楽死は、日本では認められていない。法的に安楽死を認めている国はあるが、外国人にも適用できるのはスイスだけである。日本の場合、患者が医師に「安楽死」を要求したとして実行した場合、医師は、刑法199条の「殺人罪」で死刑か、無期、もしくは5年以上の懲役となる可能性がある。また安楽死の協力者や仲介者も、刑法202条の「嘱託殺人罪」に抵触する。積極的安楽死が認められない日本では、患者本人の意思表示の有無に関わらず、薬物を投与した医師は、第199条の対象になる。第202条は、医師による自殺幇助も該当となるのである。NHKのこの番組には既に各団体から抗議声明があがっている。それは、津久井やまゆり園事件の被告の思想と通底しており、障害者の生を否定するものだというものだ。そればかりではない。日本自立生活センターからは「介護の苦しみによる介護殺人や尊属殺人をも後押ししかねないメッセージを含んでいる」という批判や声明もあがっている。「死んだ人のことをあれこれ言うな」「私たちもつらい」「そっとしてほしい」という家族の訴えは一見するともっともらしく聞こえる。そっとしてほしいのであれば、誰にも知られずに、ひそかに息を引き取ることもできたはずだ。「彼女がそうしなかったのは、ただひっそりと死にたかったわけではなく、自分の死に方を社会的に認めさせる主張をするためにテレビに出演し、書籍を出したからにほかなりません。一連のテレビ出演には、自らが死ぬことを通して自己の主張を正当化するねらいがあるのです」(全国「精神病」者集団;公式サイト)。
 もし、そうだとすれば、死とは何を意味するのであろうか。改めて考えさせられる問題である。被告は、衆議院議長あての手紙にて「私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死させる世界です」と述べたが、2018年1月31日の面会時に確認してみると「日本尊厳死協会」や、その前身である「日本安楽死協会」のことも知らなかった。すなわち、手紙を書いた時点では、安楽死と尊厳死の区別がされておらず、その意味について深く考察したものではなかったのである。「安楽死」という言葉は、一見すると響きがよく聞こえるかもしれない。私の担当の授業で学生にアンケートをすると半数以上が賛成する。この現象は学生に限ったことではない。脚本家の橋田壽賀子の『安楽死で死なせて下さい』(文春新書、2017年)では、「国民の7割が賛成している」と記されている。その他では、ジャーナリストの宮下洋一『安楽死を遂げた日本人』(小学館、2019年)も参考になる。宮下氏は、NHKのこの番組に登場する女性にスイスの民間団体を仲介した人物でもある。宮下氏はインタビューで次のように答えている(DIAMOND online「日本人への安楽死適用が難しい理由、Nスぺ安楽死のジャーナリストが語る」)。
「これまでに日本人が同団体で安楽死を施行した例は、1件もありませんでした。世界中から応募者が殺到しているため、半年でできればまだいい方で、そもそも施行できること自体が珍しいのです。最終的には女性医師の判断によりますが、Aさんの場合、このタイミングを逃したらもうできないとわかっていることや、待機リストの人が亡くなったりして、申請してわずか3カ月弱の11月に奇跡的に施行できることになったのです」

3.「安楽死」と「尊厳死」

 わが国には、かつて「日本安楽死協会」があった。今日の「日本尊厳死協会」の前身である。「日本安楽死協会」は、1976年1月に産婦人科医で、旧社会党の国会議員でもあった故太田典礼を理事長として医師や法律家、学者、政治家などが集まって設立された。太田典礼は、産婦人科医にして、国会議員として1948年に「優生保護法」の制定に寄与した人物として知られている。「日本尊厳死協会」のサイトでは、「尊厳死」と「安楽死」の違いについて次のように説明されている。「尊厳死は、延命措置を断わって自然死を迎えることです。これに対し、安楽死は、医師など第三者が薬物などを使って患者の死期を積極的に早めることです。どちらも『不治で末期』『本人の意思による』という共通項はありますが、『命を積極的に断つ行為』の有無が決定的に違います。協会は安楽死を認めていません。わが国では、いわゆる安楽死は犯罪(違法行為)です。ただ一定の要件を備えれば違法性を阻却できるという司法判断は出ています」。重要なことは、意思疎通がとれないから安楽死させるというのではなく、「本人の意思による」と明記されていることである。そして、その意思確認の方法が「リビング・ウィル」と呼ばれる「終末期医療における事前指示書」である。つまり、「自分の命が不治かつ末期であれば、延命措置を施さないでほしい」と宣言するということである。
 超高齢化社会を迎えた日本において「安楽死」「尊厳死」は現実的な問題である。安楽死は「致死薬の投与により肉体的苦痛を除去して直接死なせること」であり、尊厳死とは「延命治療を拒否あるいは中断して自然な死にまかせること」である。安楽死や尊厳死の研究は海外の事例紹介も含め多い。欧州では、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクの三国が積極的安楽死が合法化されている。また、新たにカナダ、オーストラリアのヴィクトリア州がそれに加わった。米国のいくつかの州とスイスでは、医師による致死薬の投与は認められないが、医師が患者に致死薬を処方し、患者自らが服用などして自死する「医師介助自殺」が合法化されている。日本では、森鴎外の『高瀬舟』(1916年)など「安楽死」を扱った文学作品もある。だが、「安楽死」に比べて「尊厳死」という言葉は、聞きなれない言葉かもしれない。「尊厳死」という言葉が、日本のメディアに登場したのは、1976年の米国のニュージャージー州でのカレン・クインラン裁判である。カレン・クインラン裁判とは、カレン・クインラン(当時21歳の女性)に装着された人工呼吸器の撤去の可否が争われた裁判である。この裁判のなかで「患者には尊厳をもって死ぬ権利がある」(right to die with dignity)、「尊厳ある死を」(Death with Dignity)という言い方がなされるようになり、この事件を契機に「安楽死」と区別された「尊厳死」という概念が日本のメディアに登場したのである。
 カレン・クインラン事件が世界中で話題になった1970年代は、日本では、有吉佐和子の長編小説『恍惚の人』(新潮社、1972年)がベストセラーになって老人問題がクローズアップされたり、「植物人間」が話題になりはじめたりした時期である。『恍惚の人』は、森繁久の主演で映画化され、老人福祉行政の進展にも影響を与えた。1960年代から70年代にかけて日本の人口が1億を超え、1972年には東京でアジア人口会議が開催されている。1970年代のこのような時代状況において、安楽死の法制化を唱えたのが太田典礼であった。太田自身は、「尊厳死」という言葉を宗教性を持つものとして嫌い、「品位ある死」という訳語を使い続けた。その太田が会の名称を「日本尊厳死協会」と改めたのは、脳性マヒの当事者団体である「青い芝の会」をはじめとする身体障害者団体や松田道雄ら当時の知識人からの激しい反対があったからである。現在の「日本尊厳死協会」は、いうまでもなく太田典礼の思想がそのまま引き継がれたものではない。だが、私には、太田の安楽死思想は、津久井やまゆり園事件の被告の思想と通底しているようにも思える。旧優生保護法にしても、安楽死思想にしても太田典礼なしには語れないからである。そこで、次回は、日本の「安楽死・尊厳死」法制化運動の前史を振り返り、その歴史的変遷を通時的・共時的に考察することにしたい。

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著者略歴

  1. 西角 純志

    1965年山口県生まれ。専修大学講師(社会思想史)。津久井やまゆり園には2001年~05年に勤務し、事件の犠牲者19人のうち7人の生活支援を担当した。被告とは、2017年9月以降、手紙のやりとりをし、これまで10回以上接見している。著書に『移動する理論――ルカーチの思想』(御茶の水書房、2011年)、『開けられたパンドラの箱』(共著、創出版、2018年)などがある。

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